第9話 夜明け(Dawn)
夜が、少しずつ形を失っていく。
雨は止み、空の端がわずかに白んでいた。
それが“夜明け”というものなのだと、アマンダは知らずに理解した。
世界の境界がほどける瞬間。
暗闇が消えるのではなく、光と混じり合う。
地平には、崩れた塔の群れが影のように並んでいる。
メーシの外縁――そこは、制度の監視が及ばない“自由区域”だった。
だが自由という言葉は、ここではただの比喩に過ぎない。
腐った果実のように、あらゆるものが形を失っていた。
足元には、焦げた骨と溶けたガラス片。
風がそれらを転がすたび、乾いた音がした。
124は黙ったままアマンダの袖を握っていた。
その手は冷たく、力がない。
「ここ……生きてる人、いるのかな。」
「わからない。でも、死んでない場所はある。」
アマンダはそう答えたが、その声には確信がなかった。
二人が進む先には、古い道路標識が立っていた。
“再建区画 14km”。
その文字の上に、黒い塗料で誰かが新しい言葉を書き足していた。
「――帰るな」。
道の脇に、崩れた建物の影が見えた。
瓦礫の隙間から、かすかな光が漏れている。
人の声もした。
アマンダは124に合図をし、慎重に近づいた。
そこには、小さな焚き火を囲む人々がいた。
皮膚は煤で黒く、服はぼろ切れのようだった。
誰も笑っていない。
目だけが異様に光っている。
その中の一人がアマンダに気づいた。
「……N群か。」
短い呟き。
その声には、敵意も興味もなかった。
ただ、疲れきった“諦め”だけがあった。
「あなたたちは……人間?」
アマンダが尋ねると、男は焚き火に棒を突きながら答えた。
「人間だったもの、だ。」
「だった?」
「制度に登録されなければ、存在しない。
だから俺たちは、人間の“残響”みたいなもんだ。」
焚き火の光が、男の顔を照らした。
片目がなく、義手の表面が錆びている。
生きているというより、“壊れていない”だけの存在。
その隣では、少女が鉄缶に雨水を集めていた。
「ここでは、水は金より高い。」
少女がぼそりと呟いた。
アマンダは、その言葉の意味を理解できなかった。
「水は、空から落ちてくる。」
「だからこそ、誰も信じない。天は裏切る。」
男は笑った。
それは笑いというより、息の漏れる音だった。
124が小さな声でアマンダに囁いた。
「この人たち、自由なんでしょ?」
アマンダは答えられなかった。
焚き火の光が、彼らの頬の痩せた線を浮かび上がらせる。
その姿は、刑務所で見た囚人たちと何も変わらなかった。
ただ、鎖が見えないだけだった。
男が火の中に棒を投げ込み、言った。
「自由ってのは、誰もお前を罰しない代わりに、
誰もお前を許さないってことだ。」
その言葉が、アマンダの胸を刺した。
風が冷たくなり、火の粉が空へ舞う。
遠くで、また雷の音がした。
夜が完全に明ける前に、空は鉛色の膜をまとい始めていた。
焚き火の煙がその膜に吸い込まれ、曖昧な光を散らす。
アマンダは、火のそばで眠る十二四を見下ろしていた。
彼女の頬は泥にまみれ、まるで別人のようだ。
それでもその寝顔だけは、あの冷たい刑務所の蛍光灯の下と同じだった。
周囲の人々は少しずつ目を覚まし、誰かが何かを売り、何かを奪う。
この場所では、取引が生存の証だった。
価値のあるものは何でも売れる。
食料、水、情報、そして――人間。
「なあ、あんたたち。」
昨夜の男が近づいてきた。
「N群は珍しい。街に戻れば高く売れる。」
アマンダは表情を変えなかった。
「売るって、誰に?」
「“人間”だよ。お前らを造った連中さ。」
その口調には皮肉すらなかった。
まるで「魚を海に返す」と言うような自然さ。
アマンダは静かに立ち上がり、彼を見下ろした。
「あなたたちは、ここで何をしてるの?」
「生きてる。……生き残ってる、だけだ。」
「それを、自由と呼ぶの?」
男は答えなかった。
その沈黙が、すべての答えだった。
太陽が、ようやく地平の端から顔を出した。
それは、光というより灼熱だった。
アマンダは思わず目を細めた。
空を照らす光の下で、廃街のすべてが“現実”を取り戻していく。
瓦礫、腐敗、そして生の匂い。
この世界には、もう隠すものがなかった。
「アマンダ……戻ろうよ。」
十二四の声が震えていた。
「戻る場所なんて、ない。」
「でも、ここも違う。」
「そうだね。」
アマンダは空を見上げた。
雲の切れ間から、光が彼女の頬を照らす。
その瞬間、彼女は思った。
“世界は、誰の所有物でもない”。
焚き火の残り火が消えかけていた。
アマンダはしゃがみ込み、手のひらで灰をすくい取る。
黒い粉が風に乗って散った。
「ねえ、十二四。罪って何だと思う?」
少女は首を傾げた。
「……壊すこと?」
「違う。罪は、“何も選ばないこと”だよ。」
その言葉は、自分自身に向けられていた。
制度に従うことを選ばず、ただ与えられた罰を受け入れてきた過去。
あれは、生きていたのではなく、ただ“停止”していたのだ。
彼女は立ち上がり、崩れた街の方を振り返った。
遠くの塔が、朝の光を浴びて赤く染まる。
あの塔のどこかに、まだ同じ顔の誰かがいるのだろう。
それでも、今この瞬間を生きているのは、自分だけだ。
風が吹く。
光が強くなる。
アマンダは、誰にも届かないほど小さな声で呟いた。
「私は、もう誰の罰でもない。」
十二四がその手を握った。
柔らかく、しかし確かに。
その手の温もりの中に、倫理も制度もなかった。
ただ“生”だけがあった。
夜が終わる。
空の奥で、太陽がひときわ強く燃えた。
それは、アマンダにとって初めて見る“夜明け”だった。
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