過去編 ゴーストピアニスト
・過去編です。一応読み飛ばしても大丈夫な内容です。本編の五話で委員長が奏鳥へと語っていた、「中学の頃の詩貴の話」です。
・詩貴と沢根の一人称視点が交互に語られるので少し読みづらいかもしれませんが、一人称「僕」が詩貴、「俺」が沢根です。
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あれは中学三年の秋のことだった。当時僕が通っていた中学は、毎年十月に合唱コンクールが
普段なら学校行事の合唱なんかには、それ程意欲を持つ生徒はおらず、適当にやり過ごすのが
僕のクラスの課題曲は“空駆ける天馬”だった。空駆ける天馬は混声三部構成のため、男子は全員が同じパートを歌う。
僕は地声が高く、男声パートを上手く周りに合わせて歌う自信がない。だからこっそりと声を出さずに、口だけをそれらしく動かして、歌うふりをしていた。いわゆる口パクというやつだ。
周囲のクラスメイトは
一年や二年の頃は、男子生徒の殆どに意欲がなく、それを女子生徒が
周りのクラスメイトが
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最後なんだからさ。そう言い出したのは、俺の後ろの席でいつも授業中に昼寝やペン回しなんかをしている、とても真面目とは言い難い友人だった。
これは後から知った話だが、そいつは高校には進学せず、中卒で家の仕事を継ぐことが決まっていたらしい。中学のクラスメイトは進学先も散り散りで、卒業したらもう顔を合わせないだろう連中もいる。
「確かにそうだな」と俺が適当に
合唱コンクールなんて絵に描いたような真面目な行事は、正直俺は好きじゃなかったし、大抵の男子生徒は同じことを考えていた。けれど
実際に、俺たちが
練習を重ねるごとに合唱の質が上がっていくことに、次第に俺たちは
ただ一人、椀田の奴を除いて。
妙な
練習中、俺の前に立っている椀田はあからさまなくらいの
一人だけ周りと違うことをしているのに、恥なんかちっとも感じないのだろう。隠す気すらないのが手に取るようにわかるほど、明確な“フリ”をしていた。
こいつはいつだってそういう奴だった。周りがどんな空気だろうとお構いなしで、常に自分一人の世界に閉じ
たとえば何故それが気に食わないのか、明確な理由を説明しろと言われても、俺にはこの気持ちを
ガキの頃にこいつと口喧嘩をしたなんてのは、ただのきっかけに過ぎない。あの
好きの反対は無関心とはよく言ったもんだ。俺以外のクラスメイトはみんな、椀田の口パクなんか知ってても何とも思っていない。苛立ちを抑えられずにいたのは俺だけだった。
感情が顔にまで出ていたのだろう。仲の良い友人から「一人くらい歌ってなくても大丈夫だろ。邪魔されてるわけじゃないんだから」と
嫌いな奴のことなんか気にするだけ無駄で、わざわざ
現に周りのクラスメイトは、もう椀田のことを『そういう奴だから』と諦めているし、椀田の方に
俺ばかりが未だに一方的にあいつを意識して、勝手に一人で苛立ち続けているのだ。その事実が、ますます俺の腹底を煮えたぎらせていた。
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合唱コンクール本番の、一週間ほど前のことだった。
僕のクラスの伴奏担当だった女子生徒が、急に体調を崩したらしい。朝のホームルームで担任がそう告げると、教室はひそやかに
僕のクラスの伴奏担当は、ピアノを弾ける人物が他にいないという消極的な理由で決まったものだった。それはつまり、代わりに弾ける人物がいないことを意味していた。
何人かのクラスメイトが、担任に練習がどうなるのかを尋ねると、彼は残念そうな顔で「しばらくは休みになります」と告げた。
教室の騒めきが大きくなった。それまで珍しくあれだけ活気付いていたのだから、当然の反応だろう。本番直前のタイミングで急に練習ができなくなると、今までの努力は水の泡だ。担任は一応音楽教師に
放課後になると、やはり担任は申し訳なさそうな顔をして、音楽教師はコンクール本番へ向けた他の仕事で手一杯であることを説明した。
伴奏担当の体調がいつ回復するかもわからない。教室はもう騒つくでもどよめくでもなく、ただ納得した様子で
「なあ、お前ピアノ弾けたりしない?」
「無理だよ。俺ピアノなんかドレミの歌しか弾けないよ」
「だよな。俺なんかドレミすらわかんねぇや」
隣の席の男子生徒が、未だ諦めきれないのか小声でそう交わすのが耳に入った。後ろの方からは「こうなるなら、真面目に練習なんかしなきゃ良かったな」という
昨日まで熱意で
そのあまりの居心地の悪さに耐えられず、僕は思わず右手を挙げていた。
「すみません。あまり上手くはないですけど……」
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あまり上手くはないですけど。などと悲観的な保身に走っておいて、椀田は楽譜を少し見るや
その演奏は『上手くはない』なんていう
椀田の唐突な行動に、クラスメイトの過半数がどよめいていた。なんたって、
指揮担当の生徒が合図を送るのを見やりながら、椀田は伴奏を弾き始めた。
ごく自然に、さも当然そうに慣れた手つきでピアノを弾く椀田の姿に狼狽えながら、クラスメイト達は
異様、または不可解としか言いようのない気分だった。俺は小学校の頃から幾度も椀田と同じ校門をくぐってきたが、今まであいつがピアノどころか、楽器を弾けるだなんて話は聞いたことがなかった。
ただあいつのことは、俺より賢くて、俺より裕福で、俺より容姿が整っていて、俺より家族にも恵まれていて、俺が欲しているものを全て持っているような奴で──その程度にしか考えていなかったのだ。
椀田の伴奏は完璧だった。その証拠に練習を終えると、早速クラスメイトの一人が「本番も弾いてくれ」と
それほど整った旋律だった。あまりにも美しい弾き方だった。
俺は胃の底の辺りに、再びかっと熱が込み上げてくるのを感じた。
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歌い終えた男子生徒の一人から、好意的な表情で「本番も弾いてくれ」と頼まれて、悪い気がしなかったわけではない……と言えば嘘になる。
けれど僕はかぶりを振った。あくまでもこれは練習だから、という前提ありきの演奏だった。
自宅で一人、ただの趣味として弾いている時と同じで、『失敗しても構わない』という保険がなければ、僕はまともに鍵盤を叩くこともままならないのだ。練習とはいえ、クラスメイトの前で演奏できたことすら、僕にとっては奇跡のようなものだった。
実際に先程の自分の伴奏を振り返れば、あれは無事に弾き終えることにばかり必死で、ただ正確なだけの、気持ちの
合唱の伴奏なら、正確なだけでも十分かもしれない。しかし僕の場合に限っては、この
別にこの程度は上手くない。本番なら僕はもっと下手になる。だから弾けない。そう言い放って僕が拒否すると、男子生徒は大層気を悪くしたらしい。
話が長続きするのが嫌で、あえて嫌味な言葉を選んだのだから、当然の反応だった。
後方で「これだから椀田は」と自分を
胸のあたりが重くなるのを感じて
「ねえ、椀田くんだよね」
僕は黙ったまま顔だけを声の方へ向けた。女子生徒が
僕が返事もせずに硬直していると、彼女は笑みを緩めながら話を続けた。
「急にごめんね。さっきの伴奏、凄く上手かったから……」
「別に上手くはないよ」
僕は
しかし、どうやら彼女は例外のようだった。
「うん、そっか……さっきも田中くんとそんな話をしてたもんね。もちろん本番までお願いをするつもりなんてないよ。けど、さっきの演奏が良かったよってことは伝えたかったの」
女子生徒は再び笑みを作った。いかにも人から好かれそうな、
「そう」と僕は正反対に
「だから、ありがとう椀田くん。弾いてくれて……」
彼女の唐突な感謝に、僕が否定や反応を返すよりも先に、「
「飯野さん、呼ばれてるよ」
僕はそれだけ言ってから再び俯いて、押し黙った。飯野さんは「うん。ありがとう。じゃあね」と二度目の謎の感謝を
僕はああいう
そんな自分勝手で
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「だから言ったろ委員長、椀田なんかに話しかけない方がいいって」
廊下を歩く委員長──こと飯野の背に向けて、俺は思わずそう声をかけた。飯野は振り向くと、
「あはは、そうかも。私、椀田くんに邪魔しちゃったみたい」
「そうじゃねえよ。どっちかっつうと、邪魔されたのは委員長の方だろ」
俺がかっとなって言い返すと、飯野はやはり困った様子で「そうかなあ」と呟いた。飯野の隣に並ぶ女子生徒が、続いて話に入ってくる。
「そうだよ。あんな突き返し方する子に、わざわざ感謝なんか言わなくていいよ」
「勿体ないよね、椀田くん。顔は綺麗だし、家もお金持ちらしいのに」
「ねぇ。あの性格は流石にちょっとキツいよね」
気づけば話の軸は
俺がため息をつくと、飯野はぽつりと呟いた。
「椀田くん、悪い子じゃないと思うんだけどな」
俺はつい舌打ちをしそうになって、抑えようと歯を食いしばったのを、
「委員長。あんた、とんだお人好しだよ」
てめえは性善説信者かよ。本当はそう言いたかったのを、なんとか
飯野はそんな俺にすら、相変わらず気の良い笑みを向けてくる。
「沢根くんもありがとう。心配してくれて」
やはりこいつはとことん人を見る目がないらしい。恐らくこの苦笑いはもう誤魔化せなかっただろうが、彼女のような善人は俺の真意になんて気づくはずがないだろう。
胃の底が、焼け
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