過去編 ハッピーバースデイ


・過去編です。一応読み飛ばしても大丈夫な内容です。本編の六話、沢根との期末テスト打ち上げ会でのやり取りで、奏鳥が少しだけ明かしていた「中学の頃の奏鳥の話」です。


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 俺は鏡を見るのが嫌いだった。


 俺の顔は、俺がこの世で一番憎い男にうり二つだった。鏡だけじゃない、ガラスや水面、自分が写った写真なんかを見るたびに、俺は『母さんに似ていれば良かったのに』と何度も叶わない望みを抱いていた。


 そのうち俺は、悪あがきみたいに髪を伸ばして、前髪を長くして出来るだけ顔を隠すようにした。髪色もあの男に似ているのが嫌で、慣れない脱色ブリーチまでして風貌ふうぼうを変えようとした。


 そんなことをしたせいで、ただでさえ癖毛の髪は更にボサボサになってしまったし、中学では生徒指導の教師にこっぴどく叱られた。


 それから俺は、学校には行かなくなった。




 その日も「行ってきます」と母さんに嘘の挨拶をいて、ただの重りと化してしまった学生鞄をげて、俺は学校とは逆方向の河川敷かせんじきに向かった。


 きっと母さんは、俺の嘘にとっくに気がついている。俺が学校に行っていないことなんてわかっている。母さんから、そして嘘つきの自分からも目をらして、俺は逃げるようにコンクリートを踏みつける。


 河川敷は、かつての俺にとって舞台のような場所だった。幼い頃の俺はここで安っぽいプラスチックのギターを弾いて、母さんが好きなQUEENの真似をした。ギターはブライアンには程遠いし、歌だってフレディみたいに歌えない。それでもあの頃の母さんは、本物のライブみたいに喜んでくれていた。


 あのギターは今、どこにやってしまっただろう。川の水が楽器みたいに岩を叩いて流れていくのを見て、ふと俺はそんなことを思い出した。そう思い返してから、「今更だな」と独りごちた。




 初夏とは言うが、最近は六月初旬でもやけに暑い。河川敷の水面をギラつかせる太陽に目を細め、腕で汗をぬぐう。学校はあと一月ほどで夏休みに入るけど、冷房代のことを考えると憂鬱だ。


 うちに金銭の余裕がないことは知っている。あの男は俺と母さんを捨て去った後、ろくに養育費を払ってくれやしない。母さんは朝早くから日が暮れるまで働いてお金を稼いでいるけど、それでも生活は苦しい。「遠慮しなくて良いんだから」なんて言って笑顔をつくろう母さんを見ていると、自分の無力さに反吐へどが出る。


 中卒を雇ってくれる企業なんてあるだろうか。少し前に担任教師にそう相談した時は、とにかく高校には行くべきだとしか言われなかった。せめて高校を卒業しないと、まともな就職をするのは難しいらしい。


 けれど──自分で言うのも情けないけど、俺は勉強ができない。その上もうすぐ不登校になってから、丸一年が経とうとしている。


「そうか、もうそんな時期か」


 川面かわもに向かって一人呟いた。“アレ”が起きたのは去年の八月だ。自分の誕生日のことだったから、脳に焼きつくほどよく覚えている。脳裏に当時の光景が過ぎりかけて、俺は額を押さえた。


 動揺する母さんに向かって、あの男は逆ギレをして怒鳴りつけた。あの時の俺は一体何が起きているのか、あの男が何を考えているのかが理解できず、狼狽えるばかりで何もできなかった。気づけば俺と母さんは、二人で暮らすようになっていた。


 嫌なことばかり考えたせいだろうか、唐突に眩暈めまいを感じた。軽度の熱中症かもしれない。俺は座る場所を木陰へと移す。


 ぼんやりとしているうちに、天のいただきにあった太陽は少しづつ傾き始めていた。このまま木陰がぐるりと180度傾くまで、こんな場所で時間を無駄に過ごすのが俺の日課となってしまっていた。


 ただでさえ単身で働いている母さんに、この状況を申し訳ないとは思っている。けれど学校に行けば、大半のクラスメイトから声をかけられる。みんな気のいい奴らばかりで、突然様子が変わった俺のことを心配しているだけだ。そのこともわかっている。


 わかっているからこそ、俺は学校に行けなくなっていた。俺が教室に入れば、さっきまでみんなで和気藹々わきあいあいと過ごしていた友人達が、俺の姿を目に入れた途端に眉を下げ、青ざめながら「大丈夫?」と尋ねてくるのだ。その質問に「大丈夫だよ」以外になんて返せば良いんだ。


 担任教師は言葉を詰まらせて、困った様子で「事情があるんだろうけど」とか、「気持ちはわかるけど」などの当たり障りのないことしか言えなくなっている。


 生徒指導の教師に至っては、俺の事情も知らずに掴みかかってきた。校則違反をした俺も俺だけど、元号が変わったのに暴力に訴える教師の言うことなんて誰が聞くもんか。


 どちらにせよ、こうなった俺には居場所はない。どこに行っても俺の存在は心配の種になり、不安に思われる。クラスメイトも担任も、そして母さんも。俺がいると、みんなが笑顔を失うんだ。自業自得だろうと、こんな状況には耐えられなかった。


『お前さえ居なければ良かったんだ』──あの日、あの男が俺に向かって吐き捨てた言葉を思い出して、頭を抱える。あの男は、お前は、母さんが俺を産んだせいで不幸になったとでも言いたかったのか?


 思考はぐるぐると脳内をめぐる。昨日も日が暮れるまで同じようなことを考えていた。こうやって鬱屈うっくつとしている間に日が沈み、俺は「ただいま」とまるで学校に行っていたかのような嘘をついて家に帰るんだ。


 早く日が沈んでくれ。祈るような気持ちで学ランの胸元を握りしめる。この状況はいつまで続ければ良い? 日没よりも先に心が沈んでいく。


 中学を卒業したら。そこまで耐えれば。アルバイトでも良いから何か労働でも始めれば、現状は変わるのだろうか。卒業まではまだ半年以上かかる。考えただけで気が遠くなる。


 こんな状態であとどれだけ耐えれば良い。どれだけ待てば状況は変わるんだ。


 吐き気さえ感じて、俺はうずくまった。丸まった俺の背に向かって、不意に浅薄せんぱくそうな声がかかる。


「おう、中坊がぼっちでショボくれてやがるぜ」


 近所の高校生だろう。テスト期間なのか、やけに帰宅が早い。聞かなかったことにしようと思って黙っていると、彼らの発言は次第に激化げきかしていった。


「何あいつ、イキって髪染めてんじゃん。それでぼっちとかダッセェ」


「何で腹押さえてんの? お腹痛いんでちゅか?」


「あの学ラン北中だろ。なんで北中生がこっちに居んの?」


 知らねぇよ。頭の中で答えて、言葉は出さないように耐える。握りしめている学ランにシワがきつく残る。耐えろ耐えろと自身に唱えている間にも、投げかけられる言葉はこうじる一方だった。


「ぼっち不良とか一番哀れなヤツじゃん。親御さんカワイソー」


「アレじゃ親もろくでもないんじゃない? 知らんけど」


 親。その単語を出された途端、頭の中でブツンと糸が切れる音がした。


「おい、親は関係ねーだろ」


 自分でもおかしいと思うほど、頭に熱が昇っていた。気づけば俺は立ち上がって、過ぎ去ろうとしていた高校生達の背をにらんでいた。


「……何ガンつけてんだよ、ぼっちの中坊のくせに」


「一発シバいてやろうぜ」


 見るからに柄の悪そうな高校生三人は、学生鞄を放り捨てながら腕を振り、指を鳴らし、威嚇した様子でこちらに向かってくる。


 俺は不思議と熱くなっていた思考が冷めていくようにすら感じていた。


「何だその顔。ガキが舐めてんじゃねぇぞ!」


 一発。左頬に爆ぜるような痛みを感じる。痛みを合図に俺の身体は動き出していた。ふらついている俺のことをへらへらと笑っている隙に、殴ってきた高校生の鳩尾みぞおちを頭で叩きつける。


「っでぇ‼︎」


 頭突きを受けた彼は勢いよく横転し、腹部を抱えて蹲る。


「テメェ何しやがる!」


 後ろ腰に痛みと衝撃を感じ、思わずよろめいた。もう一人の高校生に蹴りを入れられたらしい。彼はもう一発を繰り出そうと脚を振り上げる。蹴り出される前の脚に掴み掛かると、バランスを崩した彼は頭から地面に倒れた。


「調子に乗んなクソガキ!」


 高校生がもう一人、今度は俺の頭部を目掛けて拳を振るう。避けるなんて器用な真似はできるはずもなく、側頭部そくとうぶを殴打された衝撃で地面にへたり込む。


「このガキ! ぶっ殺してやる!」


 俺が立ち上がる前にマウントを取ろうという算段だろう、高校生が覆い被さろうと迫ってくる。そいつには勢い任せに蹴りを入れたけど、もう一人の高校生に背後から肩を掴まれ、羽交締はがいじめにされた。


 動けなくなっている間に別の高校生に殴られる。顔と腹部を数発。痛みに意識が朦朧もうろうとしてくる。鼻の血管でも切ったのだろう、息が詰まって呼吸ができない。


 三人相手に勝てるわけがない。ましてや相手は高校生だ。そんなの当然だったし、わかりきっていた。それでも、『親もろくでもない』という言葉だけはどうしても許せなかった。


 確かにあの男はろくでもない。けれど母さんのことだけは馬鹿にされたくなかった。ただでさえあの人は、周囲の母親グループから『男を見る目がない』なんて心無い言葉を浴びせられたばかりなんだ。


 殴る、蹴る、好き放題に暴力を振るった高校生達は、そのうち満足したのか俺のことをゴミを捨てるように放り投げた。


 彼らは学生鞄を拾い直しながらぶつくさと文句を垂れている。顔も身体も痛みが酷くて、あいつらが何を話しているのかは聞き取れない。


「おいコラー! お前達! 何してるんだ!」


 朧げになりつつある意識を突き抜けるように、大人の男性らしき低い大声が響いてきた。虚ろな視界の向こうで、高校生達が「やべぇ」だの何だの騒ぎながら走っていく。その後を追うように自転車が走っていった。


 が、自転車は途中で止まり、引き返した。乗っていた男性は自転車を降りると、慌てた様子で俺の方へと駆け寄ってくる。殆ど足元しか見えなかったけど、濃紺のうこん色の服装には見覚えがあった。


「君! あーあ、派手にやられてるな……意識はあるかい?」


 俺が小さく頷くと、警官のおじさんはスマホでどこかに連絡を入れ出した。それから暫くして、遠方からサイレンの音が向かってくるのが聞こえてきた。


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 あれから数時間ほど経って、俺は交番で事情聴取を受けていた。打撲は思ったより軽傷で、意識が朦朧としていたのは熱中症の初期症状だったそうだ。


 救急車を呼ばれて手当てを受けたことに謝罪とお礼を言うと、警官のおじさんから「なんだ君、見た目の割に礼儀正しいじゃないか」と言われてしまった。


「あいつら北高生だよ。この辺の公立じゃ一番成績悪くて柄も悪いって有名でね。あそこがテスト期間だからってパトロールの範囲を変えておいて正解だったよ。君もねえ、そんな不良みたいに不貞腐ふてくされてると北高行く羽目になっちゃうよ?」


 おじさんはやたら早口だった。


「……進学はしないつもりです。うちは余裕無いんで、早く就職がしたくて」


 俺が答えると、警官のおじさんは目を丸くした。


「あのねえ、中卒で就職は流石に無理があるよ。せいぜいコンビニかスーパーか工場のアルバイトくらいしか無いよ? そんなん高校生のアルバイトと一緒だし、収入もたかが知れてるよ。お金に困ってるならそれこそちゃんと勉強して就職しないと」


 先日、担任教師から言われたこととほぼ同じ内容だった。俺は何も言い返せなくて下唇を噛む。おじさんは尚も話を続けた。


「もうすぐお母さんが迎えに来るから、帰ったらゆっくり休んで、それから勉強するんだよ。若いんだから生き急いじゃダメだって」


「えっ!」


 母さんが迎えに来ると聞いて、頭の中が一瞬で真っ白になった。学校に行っていないどころか、不良と暴力沙汰ざたになったなんて、どう思われるだろうか。どう説明すれば良いのだろうか。


「まあまあ、母ちゃんに叱られるのは怖いかもしんないけどねえ。叱ってもらえるなんて子供のうちだけよ? おじさんになったら叱らず無視だもん。嫁も娘も酷いよまったく。おれは真面目に公務員やってるのにさぁ……」


 おじさんの自分語りなんて全く耳に入って来なかった。また母さんを傷つけてしまった──後ろめたさに呆然としていると、交番の引き戸が開き、母さんが慌てた様子で飛び込んできた。


「すみません! うちの息子が! あぁ奏鳥、大丈夫? 顔じゅう絆創膏だらけじゃない!」


 母さんは俺を叱るどころか、心底心配そうに眉を下げている。叱ってもらえる方がマシだったとすら思えた。


「やあ奥さん、事情は大体聞きましたよ。昼間っから北高の不良どもに絡まれてたそうで。学校に行けない事情とかもあるんでしょうけど、不用意な外出は控えるよう言ってくださいよ」


「すみません……本当にご迷惑をおかけしました。保護してくださり、ありがとうございます」


 どうして、どうして母さんが謝らないといけないんだ。悪いのは俺なのに。母さんは警官のおじさんに向かって何度も頭を下げた。


 俺も一緒に頭を下げたけれど、俺のやったことは頭を下げたくらいじゃ取り返しがつかないくらい重く感じていた。




「じゃあ僕はこれからまたパトロールなんで、後は奥さんよろしくお願いしますよ」


 おじさんにもう一度頭を下げてから、俺と母さんは交番を出た。母さんは車を持っていないから、もちろん帰りも徒歩だ。


 俺は思わず母さんから少しだけ距離を取った。前を歩いていた母さんは振り向くと、俺が俯いているのに気づいたのか黙って微笑んで、それからまた前を向いた。俺はずっと嘘をついていたのに、この人は優しすぎる。


 そして、自宅に帰るまで静寂が続いた。聞きたいことなんて山ほどあるだろうに、母さんは俺に何も聞かずに前を歩き続ける。時折、「今日は暑かったよね」とか、「怪我は痛くない?」とか、他愛のない会話を挟みながら。


 俺はもう、何を答えればいいのかわからなくて、「うん、うん」とロボットみたいに相槌を打つことしかできなかった。


 それから自宅のアパートが目に入るや否や、母さんはまるで何事もなかったかのように「今日の夕飯はカレーライスよ」と呟いた。


 俺が嘘をついて学校に行っていないことも、あげく警察沙汰になったことも、全部無かったことにするように。アパートからは、確かに嗅ぎ慣れたカレーの匂いが漂っていた。


「ねえ奏鳥、お母さん今日はちょっとだけお肉を奮発しちゃったの。奏鳥は牛肉が好きでしょ? 量も少ないしスジ肉だけど、和牛なのよ」


 母さんはむしろやけに上機嫌だった。俺はあんなことをやったっていうのに、まるで何かめでたいことでもあったかのように。笑みまで浮かべて、スーパーで半額になっていたという和牛のスジ肉の話をしている。


 何かめでたいことでもあったかのように──ある可能性が脳裏をよぎり、冷や汗が溢れてきた。そういえば、母さんは六月産まれだったはずだ。今日は六月の何日だっただろう。


 まさか、そんな。毎日を河川敷に流すように不毛に過ごしていたせいで、俺は今日の日付どころか、曜日すらろくに思い出せない。


 先を歩く母さんは軽い足取りでアパートの階段を上がっていく。一方、俺の頭の中はある記憶でいっぱいになり、思わず足がすくんでいた。


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『しょうがないだろ、誕生日なんて忘れてたんだから』


 その日の朝に『今日は奏鳥の誕生日だから早く帰るよ』と言っていた男の、その晩の発言だった。あの男は結局職場の女性と勝手に飲んだくれて、真夜中に帰宅した。母さんから問い詰められて真っ先に発したのがこの台詞だ。


 一体、何がしょうがないというんだ。当時の俺は怒りと失望でいっぱいだった。あの男はいつも帰りが遅く、俺と母さんは普段は二人きりで食事をとる。だから『誕生日だから早く帰るよ』という言葉を聞いた時は嬉しかった。


 それなのに、その晩のあの男はやけに帰りが遅く、連絡に返事も寄越よこさなかった。それでも俺たちはせっかくの誕生日だからと、食事は三人でとろうと決めていた。そのせいで、母さんが俺のために焼いてくれたハンバーグはすっかり冷めてしまった。


 深夜に帰ってきたあの男は、それすらも『飲み会で食べてきたからいらない』などと抜かしたのだ。


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 全く、どうして。外見以外もあの男に似てしまうなんて。目頭が熱くなるのを感じながら、俺は『泣きたいのはきっと母さんの方だ』と思ってなんとかこらえた。


 でも結局、晩御飯のカレーを口にした瞬間、俺は堪えきれずに泣いてしまった。母さんが自分の誕生日だっていうのに、俺の好きな牛肉でカレーを作ってくれた気遣いも。そして俺が母さんの誕生日を忘れたことを、何も咎めやしないのも。何もかもが辛かった。


 涙がカレーの中に入りそうになって、慌ててティッシュで顔を拭うと、母さんからは「泣くほど美味しかったのね」なんておかしそうに笑われてしまった。


 そんな思いやりすら苦しくて、俺は晩御飯のカレーを泣きじゃくりながら平らげた。


 せめて皿洗いを手伝おうと言い出したけど、それも母さんから「怪我人は安静にしてなさい」と止められてしまった。今日は母さんの誕生日のはずなのに。


 あまりに気まずくて、俺はとりあえずキッチンから背を向けて、カーペットに座り込んだ。


 そうして、しばらくぼんやりとしていた時だった。


「ウィーアザチャンピョン〜、マイフレーンズ……」


 不意に陽気な鼻歌が聞こえてきた。QUEENの“伝説のチャンピオン”だ。振り向くと、皿洗いをしている母さんが上機嫌そうに歌っている。


 “俺たちは勝者だ。なぁそうだろ?”──フレディの言葉フレーズを母さんが歌う。気づくと俺は、押し入れを開けてあのプラスチック製のギターを探していた。


「どうしたの奏鳥。そんなに慌てちゃって」


「大丈夫、まだ間に合うから……」


 母さんの心配をよそに、俺は押し入れの衣装箱の向こうからギターケースを見つけ出す。


 慌てる手でもたつきながらファスナーを開くと、そこには相変わらず安っぽいアコースティックギターが、記憶と変わらない姿のまま入っていた。


 心臓が高鳴るのを感じる。衝動的に思いついたことだけど、今の俺にできそうなことはもうコレしか無かった。


「母さん、その……急だけど。今から一緒に河川敷に来てほしいんだ」


 俺が久々にあのギターを構えているのを目にした母さんは、嬉しそうに瞳を見開いて頷いた。


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 すっかり暗くなった夜の河川敷を、母さんが懐中電灯で照らす。一つきりの明かりを頼りに、俺はいつも舞台にしていた場所へと立った。


 懐中電灯のスポットライトの下。ただの思いつきの、練習すらしていないゲリラライブ。弾き語りなんて一年ぶりだし、上手くできる自信は毛頭もうとうない。それでも、『コレしかないんだ』って想いで俺はギターを構え、息を吸った。


「ハッピバースディ、トゥーユー……ハッピバースディ、ディア母さん……」


 ハッピーバースディ、トゥーユー。声は震えて音程は揺らいだし、うろ覚えのコードは押さえが間違っていて不協和音になってしまった。


 とてもじゃないけど、誕生日プレゼントと言うにはあまりにもつたない演奏だった。


「あの、母さん……ごめ……」


 口をついて謝ろうとした瞬間、俺は母さんに抱きしめられていた。


 その時。いつの間にか俺は、少しだけ自分が母さんよりも背が高くなっていたことに気がついた。


「ありがとう。覚えていてくれて」


 そう言った母さんの声は震えていた。俺の背中に回った手も震えていた。きっと、今の瞬間まで我慢していたんだろう。母さんの目元が当たっている肩に、だんだん濡れた感触がみていく。


 覚えていたわけじゃない、カレーを食べて思い出しただけで──俺がそう言う前に、母さんがさえぎるように呟いた。


「お母さんね、奏鳥の歌が世界で一番好きなの」


 喉元がつっかえる感覚がした。答える言葉が思いつかなくて、俺はつい黙りこくってしまった。


「あ、ううん。やっぱり一番はフレディかな。でもフレディは天国にいるから、この世で一番好きなのは奏鳥の歌よ。ふふふ」


 冗談めかした様子で、母さんは涙を拭いながら笑みをこぼす。温もりが離れていって、濡れた肩が冷えていくのを感じる。俺も笑い返そうと思ったけど、なんだか気まずくて苦笑いみたいになってしまった。


「また奏鳥の歌が聴けて良かった。歌ってくれてありがとう」


 そう言って、母さんはもう一度笑った。母さんがこんなに嬉しそうに笑った顔を見るのは、久しぶりだった。


『歌ってくれてありがとう』──母さんの言葉が、俺の頭の中で反響する。こんなに拙い歌でも、それでも気持ちが伝わるのなら。河川敷の水音は、俺に「歌え」と拍手を浴びせるようだった。


 俺はギターのネックをぎゅっと握りしめる。


 孤独な不良の溜まり場は、こうして再び舞台になった。


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共立ともたつ高等学校……」


 雑誌の表紙に『有名バンド、出身校インタビュー』と書かれているのが目に入り、俺は思わず呟いた。


 呟いてから、自分が今いるのが図書館だと思い出して、慌てて口を塞いだ。図書館では私語厳禁だ。


 雑誌は貸し出し不可らしいので、手に取って自習スペースへと向かう。借りたばかりの歴史書や古文の参考書は一旦机に置いておいて、俺は共立高等学校とやらの特集ページを開いた。


 テレビを見ない俺は知らなかったけれど、共立高等学校が輩出したのは全国的に有名なバンドらしい。“オリコンチャート月間一位”という表記を見れば、流行に疎い俺にもメジャーなバンドだと理解できた。


 どうやらそのバンドは、この高校の軽音楽部で組まれて、そのままメジャーデビューしたのだという。雑誌を読んで、軽音楽部というものが存在することを初めて知った。


 俺の中学にはもちろんそんな洒落た部活は無い。ロックやポップスといった、現代音楽を部活動としているのだ。こんな田舎ではなかなか珍しい部活だろうと思う。


 軽音楽部とやらに、もしも入れたら。俺もこの雑誌のバンドの人達みたいに──不意にそこまで考えて、頭を横に振って雑誌を閉じる。いくらなんでも、無謀むぼうな夢を見過ぎだ。


 そんな事よりも、六月末には期末テストが控えている。学校に約一年通わなかった俺は、遅れた分を慌てて自習で取り戻そうと足掻あがいていた。といっても、苦手な数学や英語はすでに諦めているけれど。


 あの、母さんの誕生日の次の日に。急に俺が登校してきたのを見て、クラスメイトも担任もやはり戸惑った様子だった。気を遣われるのは相変わらず苦しかったけれど、それ以上にやりたい事ができたから耐えようと決められた。


 俺はただ、母さんの前でもっと胸を張って歌を歌いたかった。あんな拙い歌じゃなくて、もっと堂々とした歌を聴かせたかった。そうするには、まずは俺自身が胸を張れる自分にならないといけなかった。


 最初は心配そうだったクラスメイトも担任も、俺が数日ほど普通に過ごしていれば、案外すぐにいつもの調子に戻り始めた。病は気から、なんて言葉があるけれど、病以外も気の持ちようでどうにかなるようだ。もっと早く気づきたかった。


 そうして遅れたぶんの勉強を(もちろん塾なんかに行くお金はないので)、休日も返上して図書館に入り浸りになっている所だった。


 ふと目にした雑誌の軽音楽部という単語は、気づけば俺の脳裏に焼きついてしまっていた。


---


「成谷、よく頑張ったじゃないか。この後ちょっと時間良いか?」


 期末テストの成績表を俺に渡しながら、担任の先生が上機嫌そうにそう言った。特に予定があるわけでもないので、俺は先生の言う通りに放課後に進路相談室へと向かった。


 進路相談室へ入る際には、職員室を通らないといけない。あの生徒指導の教師の視線が痛く感じる。担任の先生がひっそりと「気にしなくて良いぞ」と耳打ちしてくれたので、俺は先生の後をついていくようにして進路相談室へと入った。


「さて、成谷の放課後を取っちゃって悪いから手短に話そうか」


 先生は椅子に腰掛けながら、「成谷も肩の力抜いて良いぞ」と足を組んだ。あの生徒指導の教師が見たら怒りそうだな、と思いつつ、俺も足を開いて向かいの席に座った。


「最近ずいぶん調子が良くなったじゃないか。何かあったのか?」


 やっぱり、と思った。先生からすれば、約一年不登校だった不良生徒が、急に真面目に登校して勉強し始めたんだ。不思議に思って当然だ。


「まあ、何がってわけでも……色々あったというか……」


 質問には答えたかったけど、あった事を言葉にするのが難しかった。俺がまごついているのを察した先生は、慌てて手を振った。


「あぁ、すまん成谷。今の質問困るよな、そこは答えなくて良いぞ。そうじゃなくて、何か希望とか、行きたい学校でも出来たんじゃないのかな? って思ったんだ」


 先生は最近の俺の様子から、そこまで想像していたようだ。行きたい学校が出来たと言われれば──当然、俺の脳裏に浮かんだのはあの名前だった。


「えっと……一応希望はあります。ただ、まあ……無理だとは思いますけど」


 俺は俯きながら答えた。後で調べて知ったけれど、あの軽音楽部があるという共立高等学校は、県内随一ずいいちの進学校らしい。


 うちのクラスでも、上澄みの成績のクラスメイトが目指すような高校だ。成績なんて下から数えた方が早いくらいの俺からしたら、雲の上のような場所だった。


「おいおい、言う前に無理とか言うなよ! 希望があるのは良いことじゃないか、言ってみろ!」


 先生は目を輝かせた様子で、急に前のめりになりながら俺に尋ねる。俺はびっくりして少し仰け反りながら、先生の気迫に負けて小声で打ち明けた。


「あの……共立ってとこなんですけど。無理っすよね、俺じゃ流石に……はは……」


 自分でも無謀さに半笑いになっていると、先生の顔が途端に険しくなった。


「……成谷。本気で共立に進学したいのか?」


 先生の顔は真剣だった。口調から、俺のことを責めているわけではないのはわかる。俺も背筋を正した。


「自分でも、無謀だとは思います。でも……正直。今、一番行きたい高校は共立です」


 緊張で手に汗がにじむ。流石に俺の学力で共立なんて、無理がありすぎて叱られるだろうか。


 そう思っていた矢先に、先生から意外な言葉が返ってきた。


「成谷。陸上では基本的に、ゴールよりも先を目指して走るんだ」


「えっ……陸上?」


「あれっ? 俺、陸上部の顧問こもんなんだけど、言ってなかったか?」


 俺が目を丸くしていると、先生はあっけらかんとした顔で答えた。


「あ、そういえばそうだったような……というか、どうして陸上の話なんです?」


「おいおい成谷、先生のことすっかり忘れてるじゃないか。寂しいなぁ。まあ、陸上は例え話だな」


 言われてみれば、俺は担任の先生の顧問部活はおろか、そもそも名前も思い出せないでいる。一年も不登校だったから、仕方ないだろうと自分に言い訳をしておく。


「とにかく」と、先生は話をまとめ始めた。


「目標は高くあればあるほど良いんだ、成谷。何だったら、共立への進路希望は何も無謀なんかじゃないぞ?」


「えっ⁉︎」


 驚きで少し大きな声が出てしまった。あの生徒指導に聞かれていないと良いけど。


「成谷。期末テストの結果、お前自身は振るわなかったと感じているみたいだけど……そもそも、一年もブランクの期間があったんだ。それをわずか二週間ほどの自習であそこまで追いついたんだ。先生はな、正直成谷には可能性を感じているんだよ」


「可能性……あるんですか?」


 俺の頭の中で、共立高等学校と、そして軽音楽部の二つの単語が主張を強めてくる。可能性があると聞いて、思わず俺も先生に向けて前のめりになってしまった。


「二週間であれだけの成果を出せられたお前だ。これから半年、みっちり時間をかけて本気で勉強に取り組めば、共立に行ける可能性は十分にある。それに共立に向けて勉強すれば、二学期末に他の高校を選ぶ余裕だってできるからな」


 確かに。俺は先生の話に納得した。どちらにせよ共立を目指して勉強することは、自分自身にプラスの影響をもたらすだろう。


 そしてもしも万が一、共立に合格する事ができたら……軽音楽部に入る事ができたら。俺の頭の中では、夢見たいな空想がキラキラと膨らみ始めていた。


「なぁ、成谷」


 先生が不意に話し始めた。俺は耳をそばだてる。


「お前は今、天井にぶち当たっているところなんだ」


 天井と聞いて、俺は思わず上を見上げた。先生から「いや、その天井の話じゃないぞ」とおかしそうに笑われてしまった。恥ずかしくて今度は下を向く。


「天井っていうのはな、自分の限界の事だよ。『自分の力量はこんなもんだ』って自分自身に決めつけたら、天井はどんどん下に降りてくる」


 俺の頭の中で、天井が下へと降りてくる想像が浮かんでくる。圧迫感で息が詰まりそうだ。


「逆もしかりなんだ」、先生は話を続ける。


「自分ならやれる、もっとやれる。そう思い続ければ天井はどんどん上に上がっていく。そしてそのうちいつか、本当に自分自身を心から信じられるようになった時。その時が来たら、天井はぶち破れるようになる。その上には、無限の天上てんじょうが広がっているのさ」


「えっと……天井を壊した上に、さらに天井が……?」


 俺の頓珍漢とんちんかんな発言に、先生は苦笑しながら「あはは、天井が二枚あるわけじゃないよ」と呟いた。


「天の上と書いて天上だ。文字通り、空の上のことだよ。そこには無限の可能性が待っている。諦めずに何かを成し遂げた人間は、必ず新たな可能性が得られるんだ」


 とんでもない根性論だ、と俺は思った。けれど先生の話を聞くうちに、俺は本当にこの天井をぶち破って、その天の上とやらに行けるような気がしてきたのだ。


 思わず、もう一度進路相談室の天井を見上げる。今の自分の限界を超えて、もっと高い場所へと行けたら。望む世界へと足を踏み入れられたら。


 その時は、どんな景色が俺を待っているんだろう。


「あの、先生……つかぬことをお聞きするんですけど……」


「ん? なんだい?」


「先生、なんて名前でしたっけ……」


「ええっ⁉︎」


---


 担任の明岳あきおか先生に激励げきれいされて、俺は高鳴る胸を抱いたまま帰路きろについた。興奮のあまり駆け足になって、息を切らしながらアパートの階段を駆け上がる。


 ドアを開けた瞬間、きょとんとした様子の母さんと目が合った。俺ははやる気持ちを抑えられないまま、母さんに報告する。


「母さん! 俺、行きたい高校決まったんだ!」


 俺がそう言った時の、母さんが嬉しそうに目を見開いた表情。その顔を見た瞬間、俺は心に誓った。


 何があっても希望を成し遂げる。そして──その先の天上の景色とやらを拝んでやるんだ。

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