第5話 才能!(前編)


 翌日の昼休み。奏鳥は音楽室へ向かって階段を駆け上がっていた。昼食を急いでかき込んでいる間に少し出遅れたので、恐らく詩貴は既に音楽室で待っていることだろう。


 はやる気持ちを胸に抱きつつ、ふと“廊下を走るな”という張り紙が目に入ったので、奏鳥は慌てて歩調ほちょうを緩めた。


 奏鳥の手には──今朝、いわゆる恋文的なものかと勘違いし、慌てて握りしめてしまい、少しだけシワになってしまった──詩貴からの手紙が握られていた。


『僕もピアノを弾くので、君の歌をもう一度聞かせてください』という文章は、昨日の『お前と一緒に音楽がしたい』という自分の言葉への、返事と受け取っても良いのだろうか。


 奏鳥はわずかに緊迫きんぱくした心持ちで、音楽室のドアを開いた。


「詩貴、いるか?」


「いるよ」


 間髪かんぱついれずに返事が聞こえた。詩貴は当たり前のように既にピアノ椅子に腰をかけており、今すぐにでもピアノを弾こうという構えでいた。一体、どれくらい奏鳥のことを待っていたのだろう。


「ごめん、待たせた」


「ううん。来てくれて良かったよ。もしかしたら来ないかもって思ってたから」


 寂しいことを言っているわりに、詩貴の表情は愉快そうに笑みを浮かべていた。


「そんなわけないじゃないか。こんな手紙を貰って、来ないわけにいかないだろ」


 奏鳥が持っていた手紙がシワでよれているのを見て、詩貴はまた笑みをこぼした。


「ずいぶんシワシワになってるね」


「あぁ、ごめん。ちょっと色々あって……というか、この“犬でした”って何だよ?」


 奏鳥はシワからは話をらして、手紙の最後に書かれていた、PSの部分について尋ねた。詩貴はそのまま簡潔に「夢の中に、奏鳥が犬になって出てきたんだよ」と答えたので、尚更なおさら意味がわからなくなってしまった。


 人の夢の中に、自分が犬になって出てきたなんて、十五年生きてきて初めての出来事だ。どう反応すればいいかわからない……というより、“犬でした”という報告をしてきた詩貴の意図がよくわからず、奏鳥は困惑していた。


 そんな彼のことはさておき、詩貴の方はどこか楽しげだった。


「奏鳥。来てくれたってことは、歌ってくれるの?」


 奏鳥は背筋を正した。


「まぁ、うん。そのつもりで来たしな」


 そう言いつつ、内心で彼の心臓は鼓動を早めていた。先日の放課後は周りに誰もいないと思い込んで、なかば無意識に歌っていたにすぎなかったのだ。


 いくら一対一とはいえ──むしろ一対一で、人に向かってきちんと歌を歌うのは初めてだ。奏鳥は緊張に肩を強張こわばらせた。


「よかった。けど、そんなに緊張しなくていいよ。これはただの音域テストだから」


「音域テスト?」


 微笑みながらもテストという単語を出した詩貴に、奏鳥は首を傾げた。すると詩貴は片手で鍵盤を一音ずつ叩いていった。


 ト、ト、ト、ト、トン。規則的な波のような、単純な音だ。


「ドミソミド。音楽の授業でやらなかったかな。低音から順番に音階を上げていくから、奏鳥の声がどこまで出るのか聞かせてほしいんだ」


 確かに小学校の頃、音楽の授業で同じメロディを聴いたことがある。音の通りに『ア、ア、ア、ア、アー』と歌い、合わせて音階を上げていく、というものだ。


 しかしながら、テストという言葉を使われてしまうと、奏鳥は尚更心が張り詰めてしまいそうだった。


 詩貴はそんな彼の反応を察したのか、笑みを作ると「テストというより、練習だと思って」と言い直した。ほんの数日で、詩貴はずいぶんと笑顔を作るのが上手くなったようだ。




 ト、ト、ト、ト、トン。規則的な音の波が少しづつ階を上げていく。その波を追いかけるようにして、奏鳥も歌声を伸ばしていく。


 奏鳥ははじめこそ緊張していたものの、声を出すうちに慣れてきたのか、徐々に発声に張りや深みが増してきていた。彼が歌声を響かせるたびに、むしろ詩貴の方こそ、心が張り詰めていくのを感じるほどだった。


 奏鳥の地声は特段高いわけでも低いわけでもない。声変わりを終えてまだ間もなさそうな少年としては、あまり特徴のない声質だ。そのため詩貴は、ひとまず平均的な男性の音域として、MID1 C、“ド”の音から音階を上げていった。


 ところが驚くことに、彼の声は音階を上げれば上げるほど、力強さを失うことなく、響きの美しさを増していくのだ。


 高音域が得意らしい彼も、流石に1.5オクターブを越えたあたりで裏声に切り替えたようだ。しかしその裏声こそが、十代の少年とは思えないほど精強せいきょうに、真っ直ぐに響いていく。


 一体この高音はどこまで広がっていくのだろうか──詩貴が目を丸くしながら鍵盤を叩き続けていくと、そのうち奏鳥はようやく限界を迎えたのか、声を上ずらせながら「……ごめん、無理!」と歌うのをやめた。


 詩貴は今弾いた鍵を確認した。奏鳥はちょうど3オクターブを越えそうなあたりで歌うのをやめてしまったが、聴いていた詩貴は『間違いなく彼は天才だ』と実感していた。


 奏鳥が無理だと言ってやめたHihi Cの“ド”は、超高音域のさらに上にあたる高音だ。ソプラノを歌うプロの女性歌手でも、安定して出すのは難しいほどの高い音だった。


 事実、彼のHihi Cはしっかり発声できているかというと怪しく、歌へと取り入れるにはまだ難しい程度のものだった。しかし歌手ですらない、それも未成年の素人としては、驚異的なほどの音域の広さだ。


 奏鳥の低音の限界はわからないが、男性がこれほど高い声を出せるのなら、おおよそ2オクターブの音域は軽やかに歌いこなせることだろう。


 その上──詩貴は以前、彼が『楽譜は殆ど読めないが、独学でギターを弾いている』と言っていたことを覚えていた。彼のギター技術の巧妙こうみょうさは計り知れない所だが、楽譜を読まずに“弾いている”と述べた奏鳥の自信は、それだけ音感の正確さを表していると言っても過言ではないだろう。


 実際に、発声練習中の彼の歌声は(勿論もちろん、詩貴の聴き取った範囲での話だが)、詩貴のピアノの音階とピッタリと一致しており、超高音域に入るまで寸分たりとも乱れることがなかったのだ。


「……決めたよ」


「えっ、何が?」


 目の前の少年の唐突な発言に、奏鳥は困惑する。そんな彼をよそに、詩貴は鋭い眼差しで奏鳥の瞳を見た。


 交差する視線に、奏鳥は思わず目蓋まぶたを瞬かせた。


「奏鳥。僕は君の音楽を、全面的に支援する」


「へ? し、支援?」


「いわゆるパトロンみたいなものだよ」


 パトロンと言われても、横文字に疎い奏鳥には何のことなのかさっぱりわからない。全面的に支援するという彼の言葉が、一体どういう意図で発せられたのかわからず、当惑した奏鳥はただまばたきを続けるばかりだった。


 明らかに戸惑っている様子の奏鳥に、詩貴は話を続ける。


「どうやら君は自覚がないみたいだけど……奏鳥。君の歌声は、君自身が思うよりずっと価値があるんだ。僕は君の歌に全てを賭けたい」


 詩貴は自らの胸に手を当てた。文字通り命賭けを誓うような彼の仕草を見て、奏鳥はますます焦った。


「いや、待ってくれ」


 全てを賭けるだなんて大袈裟おおげさな言い回しを、彼はとても冗談とは思えない、正しく真摯しんしな顔つきで言っているのだ。奏鳥は彼の行動に却って畏怖いふを感じ、慌てて手を振った。


「賭けたいって、急に言われてもなんつーか……嫌じゃないけど、でも、ええと……」


 奏鳥は口ごもった。自分の歌に価値があると言われたことは、純粋に嬉しかった。しかし、いくらなんでも真面目な顔で、命まで賭けられてしまうのは素直に怖い。


 すると詩貴は奏鳥がおののく様子を察したのか、わずかに表情を和らげた。やはりほんの数日で、彼はずいぶんと人と話すのが上手くなったようだ。


「ごめん。ちょっと重すぎる言い方だったかな。なら、もっと簡潔に言うね」


 詩貴が改めた言葉は、それまで困惑していた奏鳥の気持ちを、真っ逆さまにひっくり返すものだった。


「奏鳥には、確実に音楽の才能があるよ。僕はそんな君を、全力で応援したい」




 才能。──才能! 奏鳥の心の中では、才能という文字が飛び跳ねているようだった。“俺は夜空を駆ける流れ星! 重力すら無視する虎なのさ!”──昼休みの終わり、奏鳥は思わず廊下で鼻歌を歌いながらスキップしていた。


 詩貴の方は、どうやらこの後も寄りたい場所があるらしい。奏鳥は先に一人で教室へと戻る最中だった。


 それにしても、あの文音両道の詩貴が、自分の歌に才能があると言ってくれたのだ。これほど希望にあふれたことがあるだろうか!


 奏鳥はもう、文字通り調子に乗っていた。“誰も俺を止めるな!”──英雄の名曲が、彼の足取りをさらにテンポ良く、軽いものにしていた。


「ドン、ストップミー、ナーウ……フンフフフフンフーン……うわっ⁉︎」


 奏鳥は教室の扉を開くと、そのまま勢いよく何かにぶつかった。きもを冷やしながら前を見ると、見覚えのある少女が尻もちをついていた。奏鳥は慌てて彼女へ駆け寄った。


「ごめん! 大丈夫⁉︎」


「大丈夫! そっちこそ……って、成谷くん?」


 少女の髪型を見て、奏鳥は思い出した。確か登校二日目の夕方に、罰掃除の手伝いをしようと提案してくれた、おさげの少女だ。


「なーにやってんだ成谷。委員長、大丈夫か?」


 不意に横からやってきた沢根が、彼女のことを委員長と呼んだ。彼女はクラス委員か何かなのだろうか。


 委員長と呼ばれた少女は、スカートのすそを直しながら立ち上がった。


「心配しないで、今のは私のうっかりだから。よく前を見てなかったし」


「ええと、俺もよく前を見てなかったや。ごめん」


 委員長は微笑みながら言ったが、奏鳥は気まずくなって頭をかいた。女の子に怪我なんかさせてしまったら大変だ。


 沢根はそんな二人を交互に眺めながら、笑みを見せた。


「どっちも怪我とかしてなくて良かったぜ。ていうか成谷、やけにご機嫌じゃねえか。何か良いことでもあったのか?」


「えっ? まあ、うん」


 奏鳥は咄嗟とっさに言葉を濁した。すると委員長が、何か思い出した様子で手を叩いた。


「そういえば成谷くん、今なにか歌ってたよね。もしかして歌うのが好きなの?」


「えっ、聞かれてたのか⁉︎」


 奏鳥はまたも無自覚な鼻歌を人に聴かれてしまい、恥ずかしさで顔をこわばらせた。反面、委員長のほうは興味津々な様子で彼に近づいた。


「さっきも音楽室から聞こえてきてたの、もしかして成谷くん? 凄い歌声だったよ!」


 どうやら彼女は、奏鳥の音楽室での音域テストの方も耳にしていたらしい。凄い歌声とまで褒めそやされて、奏鳥は満更でもなくなって「いやあ、うん」と照れ笑いを浮かべた。


 横の沢根は「ふうん」と興味あり気な様子で口角を上げてみせた。


「成谷。もしかして本格的に音楽を始めるつもりなのか?」


「まあ……多分。そんな感じだと思う」


 照れくさそうに煮え切らない返事をした奏鳥を、沢根はにやりと笑いながら肘でこづく。


「良いじゃねえか。だったらもっと胸張れよ。ここだけの話、お前ちょっとだけ噂になってるんだぜ」


「えっ⁉︎」


 奏鳥は目を丸くした。一体どんな噂が流れているのだろう。


 登校初日から遅刻、罰掃除の規則を忘れて帰宅──と思い当たる節はどれも悪いものばかりで、奏鳥はつい不穏な想像をし始めた。


「私も聞いてるよ。うちのクラスにすっごく歌が上手い子がいるらしいって。三日前だったかな? 隣のクラスの子が、放課後にうちのクラスから声を聞いたって話をしてて……」


「ま、待ってくれ。三日前って……火曜日の話だったりする?」


 うきうきと話す委員長に、奏鳥は慌てて確認した。火曜の放課後なら、間違いなく自分のことだ。あの日、教室には詩貴しかいなかったと思っていたが、まさか隣のクラスに人が残っていたなんて。


 委員長は嬉しそうに頷いた。焦る奏鳥を尻目に、彼女も沢根も楽しげだった。どうやら二人は既知きちの仲らしい。


「すげえじゃねえか、マジでカナリヤくんだな。噂になるくらい上手いんなら、今度俺にも聴かせてくれよ」


「うんうん……あっ、成谷くん。急かもしれないけど、放課後か、休みが空いてる日とかあったりする? 私も聴きたいな、成谷くんの歌」


 目を輝かせてそう言う委員長に、奏鳥は嬉しいような恥ずかしいような、奇妙な気持ちでいっぱいになってしまった。


 顔を真っ赤にしながら、奏鳥は首を縦に振る。まるで急に、いわゆるモテ期とやらが来てしまったようだ。


「そうだな……休日ならいつでも空いてると思うけど」


「なら、早速明日カラオケとかどう? 沢根くんも一緒にどうかな」


 微笑む委員長に、沢根は笑みを見せながらもかぶりを振った。


「悪い。土曜はもう先約入ってんだ。折角だし、二人きりで行ってこいよ」


「折角って、そんなんじゃないわよ?」


 頬を膨らませる委員長を「へいへい」と揶揄からかいつつかわすと、沢根は席へと戻っていってしまった。どうやら奏鳥は、彼女と二人きりでカラオケに行くことになってしまったらしい。


「うーん……私と二人きりになっちゃうけど、成谷くんは大丈夫?」


 ほぼ初対面の少女と、急に二人きりでカラオケ──つまり、個室に二人きりだ。奏鳥の脳裏に、緊張のあまり妙な想像が浮かび始めた。


「も、もちろん。良いけど……でも俺、君みたいな生真面目そうな子、あんまりタイプじゃないぜ⁉︎」


 口をついてそう発言した直後に、奏鳥は『しまった』と思った。彼が訂正するよりも前に、委員長は嫌なくらいの満面の笑顔で言いきった。


「成谷くん。自惚うぬぼれって言葉、知ってる?」


 恥の上塗うわぬりとは、まさにこの事である。奏鳥は自身を赤く染めていた血の気が、白く引いていくのを感じた。


 視線の脇の方では、話を横聞きしていたらしい沢根が、『あちゃあ』と言いたげに苦笑いを浮かべていた。

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