第4話 革命(後編)
窓の向こうのグラウンドから、吹奏楽部が練習をしているのだろう、管楽器達のざわめきが聞こえてくる。
白い廊下にそっと赤い
奏鳥は前を
そのうち詩貴は廊下を曲がりきり、階段を上へと歩み始めたので、奏鳥も彼に
どうして放課後に音楽室へ向かっているのか、奏鳥は詩貴に尋ねようかと思った。しかしその疑問が口から出る前に、それよりも先にもっと聞きたい事が思い浮かんだ。
「なぁ、詩貴。さっきのノートは何を書いていたんだ?」
先程彼は、いつもの読書ではなく、ノートに何かを書いていた。彼が常に読書ばかりをしているような人物でなければ、そんなことを疑問には思わなかったのだが。奏鳥にはなぜか、詩貴が放課後にノートをとるという行動が、意外なものに思えたのだ。
「日記だよ」
そしてやはり、意外な答えが返ってきた。勉強の予習や復習などではなく、日記をつけていたのだという。
詩貴は続けて話し始めた。その声はやはり平然としていたが、その一方で、どこか気を張っているようにも聞こえた。
「いつもは帰宅してから書いているんだけど……今日は先に書いておいたんだ」
奏鳥は彼の
詩貴が言うには、吹奏楽部は週に一回グラウンドで練習をするため、その日は放課後の音楽室が空くのだという。そう
そして詩貴はそのまま真っ直ぐに、あの高価な黒宝石の楽器へと手を伸ばした。
「触らないほうが良いんじゃなかったのか?」
「そうだね。だから内緒だよ」
思わず指摘した奏鳥の方へ向けて、わざとらしく口角を上げてみせた詩貴は、なんだかいたずらをする子供のような顔をしていた。
しかし無邪気そうなその笑みは、ピアノカバーをめくり、椅子へ座って
「奏鳥」
ピアノを真剣に見つめる詩貴に名前を呼ばれ、思わず奏鳥も背筋を伸ばした。詩貴の指先は、もう今すぐにでもピアノを弾こうとする姿勢で、鍵盤へと触れていた。
「昼休みの質問、まだ答えてなかったよね」
「ピアノが弾けるか、ってことか?」
「ううん。そうだけど……そっちじゃない」
そっちじゃないというのは、一体何のことなのだろうか。奏鳥が疑問を浮かべると同時に、詩貴は手を動かし始めた。
ピアノの音が響き始めた──そう思った瞬間、詩貴の手は、
奏鳥は知らなかった。あの
しかし彼は
奏でられている楽曲に、奏鳥は聞き覚えがあった。曲名まではわからないが、有名なクラシックの曲だ。右手は怒り、
革命はやがて色を変えていく。ピアノが葛藤しているかのように、旋律は切なげに力を弱め、かと思えばまた激しさを増し、奮闘する。
そうして
奏鳥にはまるで詩貴のその顔が、病魔に
しばらくして、鍵盤に触れたまま肩を上下させていた詩貴が、ふうとため息をついてピアノから手を離した。
演奏を終えた詩貴の方もまた、椅子に腰をかけたまま、呆然としているようだった。
「……やっぱり、好きだったんじゃないか。ピアノ……」
ようやく奏鳥の口から出た感想は、能ある
しかし奏鳥の言葉に、詩貴は噛み締めるように笑みをみせた。むしろ彼がそう言うのを、待っていたかのようだった。
「うん……“やっぱり”好きだったんだ、ピアノ」
「どうして、そんなに凄いのに隠してたんだよ。好きなんてどころじゃない……お前、プロのピアニストみたいじゃないか」
目を丸くしながら褒め言葉を
「まさか。プロなんて凄いものじゃないよ。僕はただ、ちょっとピアノが好きなだけなんだ」
自分でそう言いながら、思わず笑みが込み上げる。詩貴は確信した。間違いなく自分は、ピアノが──音楽が好きだった。
しかし対する奏鳥は、却って
「そんな……お前みたいな凄い奴が、ただちょっと好きなだけ、なんて……」
今度は焼き焦がされるどころでは済まなかった。奏鳥はもう、音楽という世界の果てのなさを
井の中の
彼の心中を、不安がせめごうとしたその時だった。
「奏鳥。凄いのは君の方だよ」
「えっ?」
予想だにしなかった詩貴の言葉に、奏鳥は顔を上げた。詩貴はとてもじゃないが、冗談を言っているような表情をしてはいなかった。
先程までの笑みは消え失せ、彼は真っ直ぐに奏鳥を見つめていた。
---
四月十四日(木)天気/晴れ
僕は世の中をすっかり知ったような気でいて、実際は何も知らなかった。最近、ようやく自身のそういった、
特に人というのは、不思議だ。みんなが似ているように見えて、実際はみんながバラバラだ。僕はどうやら、人というものを何か勘違いしていたらしい。
成谷君を初めて見たとき、僕は彼を変な人物だと思った。恐らく他の誰もが
けれど、彼と音楽室で話しているうちに、一つ確実にわかったことがある。彼は、純粋に音楽が好きだということだ。ただひたすらに音楽を求めて、没頭している。
だから彼にとって、僕が少し他人より嫌なやつだってことなんかは、ほんの
成谷君の
彼は確かに少し、変な人かもしれない。けれど名を残してきたアーティストは皆、人と少しずれているものだ。それは変というより、優れている、というべきだろう。
そんな彼に、今日僕は「ピアノが好きか」と尋ねられた。僕はその質問に答えることができなかった。人前で弾くことができなくなった僕に、まだピアノが好きだと言う権利があるのかが、わからなかったからだ。
昼休みからずっと、そのことについて考えていた。散々迷ったけれど、やっぱり僕は、ピアノが好きだと言いたい。
人前で弾くのは、まだ怖い。だけど成谷君の存在は、もしかしたら神様が僕に
もう一度だけ、あの革命に挑もうと思う。
少しでも良い。僕は、成谷君に近づきたい。
---
「俺が凄いって、どこがなんだ……?」
俺なんか、と続けようとした瞬間。詩貴は激しい
「君のおかげなんだ!」
何がだ、と奏鳥が尋ねる前に、詩貴は
「僕は、小学校の頃からずっと……人の前ではピアノが弾けなかったんだ。失敗して、失望されるのが怖くて、自分一人でいるときにしか演奏ができなかった。けれど今日、たった今、君の前でピアノが弾けたんだ」
詩貴は何故か
「奏鳥……
詩貴は言葉を詰まらせ始めた。話せば話すほど、今の自分の気持ちを一体どんな言葉で表せばいいのか、わからなくなっていく。
何を彼にどう伝えれば良いのか、頭の中が
「だから、僕ももう一度、ピアノが弾きたくなって……君の歌みたいに、音楽が……それで……」
奏鳥は答えられなかった。詩貴自身にも、もう自分が何を言いたいのかがわからないのだ。奏鳥には答えようがなかった。
詩貴はやっぱり、自分は話すのが下手だと痛感した。こうして語るほどに、むしろ彼からは遠ざかってしまう気がして、詩貴は徐々に恐怖を感じ始めた。
「……ごめん、奏鳥。僕は……君を傷つけたかったわけじゃないんだ……」
鍵盤蓋を閉じ、ピアノカバーを元に戻しながら、詩貴はゆっくりと、
それから詩貴は、自分の鞄を手にとると、まるで足音をほとんど立てずに、空気が流れるように奏鳥の横を通っていった。
「もう、帰るよ……ごめんね。付き合ってくれてありがとう」
詩貴が罪悪感に小さく背を丸めて、音楽室を後にしようとしたときだった。
「待ってくれ!」
自分でも驚くほど大きな声が出て、奏鳥は心臓を激しく鼓動させながら、考えるよりも先に手を伸ばしていた。
「詩貴。俺、お前と一緒に音楽がしたい!」
奏鳥はもう、頭では考えず、心から直接言葉を吐き出すようにそう言った。
計画性なんてまるでなく、詩貴がどう返すかなんて、考えてすらいない発言だった。ただこのまま悲しそうに帰宅しようとする彼を、引き
詩貴は目を見開いた。彼と一緒に? 音楽を?──もちろん、答えなんて出てこなかった。
しばらく経って、ようやく詩貴から発せられた返事は、ひどく小さく短いものだった。
「……明日」
詩貴は、臆病だった。『明日までに考えてくる』、そう答えを先延ばすだけでも、その一言すら上手く言えなかった。
けれど奏鳥には伝わっていた。瞳を震わせて、ただ『明日』とだけ呟いた詩貴に、奏鳥は笑って応えた。
「また明日、な。放課後じゃなくてもいいぜ。なんなら明日じゃなくてもいい。いつだっていいからさ」
夕焼けに染まった赤い音楽室の中で、黄金色の瞳は
「だからさ。もう、ごめんなんて言うなよ」
詩貴は、握られた手から、全身が暖まっていくのを感じた。
---
その晩、詩貴は不思議な夢を見た。
無人の舞台の
観客席には誰もおらず、一人ぽつんと詩貴だけが座っている無音の舞台。幼少期の、あの失態の舞台の後から繰り返し見てきた夢だ。この後の展開だって知っている。
詩貴はグランドピアノの鍵盤を一つ叩いてみた。しかし重い
無人の舞台と、音の鳴らないピアノ。これはきっと、音楽の世界への未練が見せている悪夢なのだろう。詩貴はこれが夢であることを知っていた。いわゆる
明晰夢は眠りが浅いときに見るものだ。もうすぐ自分はこの夢から覚めるだろう。あとはこの、未練がましい無音の舞台から降りるだけだ。
詩貴は椅子から立ち、舞台裏へと戻ろうとした。
しかし、今日の舞台はいつもの悪夢とは違うようだった。舞台裏へ続くカーテンの裏に、小さくて毛深い生き物が、こぢんまりと座ってこちらを見ていた。
子犬だ。柔らかそうな癖毛に
詩貴がそれでも舞台裏へと戻ろうとすると、子犬は彼の元へとやってきて、足元にすり寄るようにしてじゃれつきはじめた。詩貴は子犬を踏まないように足を止める。無音だった舞台に、子犬がきゃんきゃんと吠える声が響き渡った。
子犬はそのうち詩貴のズボンの
「だめだよ。そのピアノは音が鳴らないんだ」
しかし子犬はまるで詩貴の話を聞かず、ついには
子犬は詩貴がもう一度ピアノ椅子へ座るのを見届けると、満足そうにおすわりをしてみせた。賢い子犬だ。
詩貴はため息をつきながら、鳴らないピアノを適当に弾くふりをしてみせた。やはりピアノの音は聞こえない。
しかしそれでも子犬の方は、詩貴がピアノを弾くのを見るのが嬉しいらしい。おすわりをやめてはしゃぎ始めた。
子犬は跳ねたり駆けたり戻ったりしながら、そのうち興奮し始めたのか、自分の尻尾を追い回してくるくると回り始めた。くるくる、くるくる、と回り続ける子犬は、詩貴にはなんだか楽しそうに見えた。
そういえば、こんな光景にぴったりの曲があったはずだ。
詩貴の敬愛してやまない、ピアノの詩人──フレデリック・ショパンは、恋人の愛犬が回って遊ぶのを、規則的なリズムを繰り返すワルツに例えたという。詩貴は音の鳴らないピアノで、あの曲を弾こう、と思った。
そう思った途端、今まで音がしなかったピアノから、急に子犬のワルツのメロディが鳴り始めた。夢にしても、鳴らなかったピアノが突然鳴り始めたのだ。やはり不思議な夢だった。
子犬はワルツに合わせて、時折ワンと吠えながら、楽しそうに回り続けている。詩貴も子犬に負けじと鍵盤を弾いた。
子犬のワルツは、詩貴が力を込めれば激しい調になり、詩貴が気を抜けば
気づけば詩貴は夢中になってピアノを弾いていた。これは夢の中だとわかっているが、それでも自分が思うよりも、ピアノがずっと上手く弾けるのが、楽しくて仕方がなかった。
横をちらりと見やると、子犬はまだまだ回り続けているようだった。目が回らないのだろうか、と思いかけたが、子犬の楽しそうな様子にそんな
無人だった舞台で、一人と一匹は飽きるまで奏で続けた。
久々に、楽しい夢を見た──そうだ、音楽は楽しいのだ。目を覚ました翌日、詩貴は愉快な気持ちを胸に、朝から手紙をしたためた。
その後、一人普段よりも早い時間に登校した詩貴は、まだ誰もいない教室の、中央の席の机の中へ、こっそり手紙を入れに向かった。“うっか成谷くん”が、手紙に気づかず捨ててしまう、なんてことにならなければいいが。そうなったらなったで、彼になら直接言えばいい、と思った。
手紙を机の中へと忍ばせた後、詩貴はふと気持ちが軽やかになっていくのを感じた。
---
奏鳥へ
昼休みに、また音楽室で待っています。僕もピアノを弾くので、君の歌をもう一度聴かせてください。
詩貴より
PS.昨晩、夢の中に君が出てきました。犬でした。
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