第3話 ユーフォリアと狂気
二日間、美月が口をきかなかった。
でも、心の声が聞こえる。
『逃げたい』
壁越しに。
部屋越しに。
美月の思考が、俺の頭に流れ込んでくる。
朝。
美月が起きてこない。
ドアをノックする。
「美月」
返事がない。
でも、呼吸音が聞こえる。
生きてる。
ドアを開ける。
美月がベッドで丸まってる。
目は開いてる。
「大丈夫か」
美月が俺を見る。
「……行かない」
「どこに」
「クリニック」
今日が、五回目。
最後のセッション。
「行かないと」
「行かない」
美月が起き上がる。
「もう、やめよう」
「あと少しだ」
「あと少し?」
美月が笑う。
声が出ない。
「あと少しで、私が消えるの」
消える。
また、その言葉。
「消えないよ」
「消える」
美月が俺に近づく。
顔が、近い。
「ねえ、蓮」
「ん」
「今、私の顔、見える?」
見える。
美月の顔。
でも。
「……」
「見えないでしょ」
美月が俺の頬に手を当てる。
「鏡、見て」
鏡。
リビングに行く。
壁の鏡。
映ってるのは——
美月の顔。
二つ。
俺の顔が、ない。
「……」
「見えた?」
美月が後ろに立ってる。
でも、鏡には映ってない。
映ってるのは、美月だけ。
二人分の、美月。
「これ、どういう」
「あなた、もう私になってるの」
俺が、美月に。
「違う」
「違わない」
美月が鏡に映る自分に触れる。
「これ、あなたよ」
でも、俺の顔だ。
俺は——
心拍数を確認する。
手首のモニター。
78bpm。
美月の心拍数。
78bpm。
完全に一致。
「……」
「分かった?」
美月が笑う。
「私たち、もう一緒なの」
一緒。
それは——
「良いことじゃないか」
美月が首を振る。
「良くない」
「なんで」
「だって、私がいない」
美月が鏡を叩く。
ガン。
音が響く。
「ここにいるのは、あなただけ」
「そんなこと——」
「いない」
美月が泣く。
「私、もういない」
無理やり、クリニックに連れて行く。
美月が抵抗する。
「やめて」
「最後だ」
「やめてって言ってる」
でも、手を引く。
美月の心の声。
『助けて』
誰に。
『誰でもいい』
誰も、来ない。
クリニック。
五回目。
最後のセッション。
受付の女性が微笑む。
「完成の日ですね」
完成。
美月が震えてる。
「帰りたい」
「あと少しだ」
部屋に入る。
椅子。
機械。
画面。
医師が入ってくる。
いつもと違う。
表情が、硬い。
「お二人とも」
「はい」
「今日で、100%を目指します」
100%。
完全同期。
美月が立ち上がる。
「無理」
「美月——」
「無理だって言ってる」
医師が美月を見る。
「美月さん」
「なに」
「恐れる必要はありません」
医師が続ける。
「完全理解は、祝福です」
「祝福じゃない」
「では、何です」
「呪いだ」
呪い。
医師が笑う。
「呪いと祝福は、紙一重です」
医師が美月の肩に手を置く。
「さあ、座って」
美月が座る。
抵抗できない。
装置を装着。
頭。
胸。
手首。
画面が光る。
『最終同期』
現在同期率:90%。
目標:100%。
医師がボタンに手をかける。
「始めます」
美月が叫ぶ。
「やめて」
ピッ。
同期率が上がり始める。
92%。
美月の、絶望。
俺の、歓喜。
混ざる。
94%。
美月の視界が、俺に流れ込む。
俺が、二人分見える。
96%。
美月の、記憶。
幼い頃。
母親に抱かれてる。
でも、それは俺の記憶にもなる。
98%。
境界が、消える。
どこまでが俺で、どこからが美月なのか。
美月が泣いてる。
俺も泣いてる。
同じタイミング。
同じ涙。
医師が言う。
「あと少しです」
99%。
美月の声と、俺の声が重なる。
「やめて」
「やめないで」
「消えたくない」
「消えないで」
矛盾した声が、一つになる。
画面に、メッセージ。
『警告:自我境界消失』
医師が止まる。
「……これは」
でも、数値は上がり続ける。
99.2%。
99.5%。
美月が叫ぶ。
「蓮」
「美月」
二人の声が完全に重なる。
99.8%。
そして——
ユーフォリア。
世界が、光に包まれる。
美月の全てが、分かる。
美月の、喜び。
美月の、悲しみ。
美月の、恐怖。
美月の、愛。
全部。
美月も、俺の全てを感じてる。
俺の、孤独。
俺の、渇望。
俺の、執着。
俺の、愛。
完璧に。
「これが……」
「愛……」
二人で言う。
完全に同時に。
至福。
完璧な理解。
完璧な愛。
二人で泣く。
抱き合う。
医師が装置を外そうとする。
「待って」
俺が言う。
「もう少し」
このまま、永遠に。
美月も頷く。
「もう少し」
二人の声。
一つの声。
でも。
数値が、100%に近づく。
99.9%。
画面が点滅する。
『危険:自我消失』
『中断を推奨』
医師が叫ぶ。
「やめなさい」
でも、止まらない。
99.95%。
美月の顔が、俺に見える。
俺の顔が、美月に見える。
区別が、つかない。
99.98%。
美月が言う。
いや、俺が言う。
いや、誰が言ってるのか——
「これが、愛」
99.99%。
そして——
何かが、壊れた。
音もなく。
世界が、静かになる。
気がつくと、クリニックを出ていた。
二人で、歩いてる。
「……美月」
返事がない。
美月を見る。
歩いてる。
でも、表情がない。
「美月」
美月が振り向く。
「……蓮?」
声が、俺の声だ。
「え」
「どうしたの」
美月の口が動く。
でも、出てるのは俺の声。
俺が話す。
「美月——」
美月の声が出た。
入れ替わってる。
「これ……」
「どうなってるの」
二人で立ち止まる。
手を見る。
俺の手。
でも、美月の感覚。
美月を見る。
美月が見てる。
でも、視点が二つある。
俺の視点。
美月の視点。
同時に。
「……」
美月が震える。
俺も震える。
同じ震え。
「俺たち」
「私たち」
声が重なる。
「もう、一人なのか」
家に帰る。
鏡を見る。
映ってるのは——
誰もいない。
鏡が、空っぽ。
「……」
「見えない」
二人の声。
でも、鏡には誰も映らない。
観測者が、消えた。
美月が鏡に触れる。
冷たい。
「私たち、もういないの?」
いない。
でも、ここにいる。
矛盾。
俺が美月を抱きしめる。
いや、美月が俺を抱きしめる。
いや——
誰が誰を。
温もりだけが、ある。
「怖い」
「怖い」
「でも」
「でも」
声が重なる。
「幸せ」
「幸せ」
至福と恐怖が、同居してる。
美月が言う。
いや、俺が言う。
いや——
「これで、良かったのかな」
良かった、のか。
分からない。
でも、完璧に理解し合ってる。
これが、愛なら。
これが、愛だ。
夜。
ベッドに横になる。
二人で。
でも、二人じゃない。
一人。
美月の呼吸。
俺の呼吸。
完全に同期。
心拍数。
72bpm。
二人とも。
美月が呟く。
「ねえ」
「ん」
「これから、どうする」
どうする。
「……分からない」
「私も」
美月が俺を見る。
俺が美月を見る。
でも、視点が混ざる。
「でも」
「でも」
声が重なる。
「一緒なら」
「一緒なら」
「怖くない」
「怖くない」
嘘だ。
怖い。
でも、言えない。
美月が、俺の胸に顔を埋める。
いや、俺が、美月の胸に——
誰が、誰に。
温もりだけが、真実。
「愛してる」
「愛してる」
誰が、誰を。
夢を見る。
二人で。
同じ夢。
海。
広い。
青い。
波の音。
美月が立ってる。
いや、俺が。
いや——
二人で立ってる。
でも、影が一つ。
「ねえ」
「ん」
「海、行こうか」
海。
「行こう」
二人で頷く。
同時に。
夢が、覚める。
朝。
美月が言う。
「海、行きたい」
俺も、思ってた。
「俺も」
同じ夢を、見てた。
「じゃあ、行こう」
「うん」
二人で準備する。
でも、動きが完全に同期してる。
服を着る。
靴を履く。
鍵を持つ。
全部、同じタイミング。
鏡を見る。
やっぱり、誰も映らない。
「行こう」
「うん」
家を出る。
消えた二人で。
[第三章 終]
システムログ#0428
同期率:99.99%
セッション:5/5(完了)
警告:自我境界消失
備考:被験者A・B、観測不能。
**緊急通知**
「警告:同期率限界値」
「自我復元不可能」
「システム介入:不可」
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