第9話「仕様変更の勇気」
納期まで、あと1週間。
スタジオ・ピクセルのオフィスは、最終調整の真っ只中だった。
ゲーム「ラブ・アルゴリズム」は、驚くほどのクオリティに仕上がっていた。
柑奈のデバッグによって、致命的なバグは全て潰され、プログラムは完璧に動作している。
九条のシナリオは、プレイヤーの心を掴む感動的なストーリーに仕上がっていた。
美波のキャラクターデザインは、可愛らしくも個性的で、多くのファンを獲得できる自信があった。
田中のBGMは、シーンごとに完璧にマッチし、プレイヤーの感情を揺さぶるものになっていた。
全てが、順調だった。
しかし――
柑奈と九条の「個人的な関係」は、あの温泉旅館の夜以来、一歩も進んでいなかった。
二人は、相変わらず完璧な連携で仕事をこなしている。
言葉にしなくても、互いの考えていることが分かる。
バグの報告も、シナリオの修正も、全てがスムーズに進む。
しかし、プライベートな会話は、ほとんどなかった。
朝の挨拶。
昼休みの軽い雑談。
退社時の「お疲れさまです」。
それだけだった。
柑奈は、自分のデスクで、モニターを見つめながら、心の中で呟いていた。
(――好きだなんて、言えない……)
あの夜、縁側で、九条と見つめ合った時。
あの時、キスをしていたら、今の関係は変わっていたのだろうか。
それとも、壊れていたのだろうか。
(――もし、私が気持ちを伝えて、彼に拒絶されたら……もう、一緒に仕事ができなくなるかもしれない)
柑奈は、その恐怖から逃れられなかった。
一方、九条もまた、同じ恐怖を抱えていた。
彼は、シナリオファイルを開きながら、心の中で自問自答していた。
(――僕は、彼女に気持ちを伝えるべきなのか……?)
あの夜、彼女の涙を拭った時。
あの時、そのまま抱きしめていたら、今の関係は変わっていたのだろうか。
それとも、全てが終わっていたのだろうか。
(――もし、僕が告白して、彼女に断られたら……この完璧な連携も、全て失われてしまう)
九条もまた、一歩を踏み出せずにいた。
二人は、互いを想いながら、互いに近づけずにいた。
まるで、永遠にループし続けるプログラムのように。
昼休み。
美波は、会社近くのカフェで、一人でコーヒーを飲んでいた。
彼女の表情は、どこか暗かった。
実は、美波は先週、大きなミスをしていた。
クライアントから依頼されていた別プロジェクトのキャラクターデザインで、納品データに致命的なミスがあったのだ。
レイヤー構造が崩れていて、修正が不可能な状態で納品してしまった。
クライアントからは、厳しい叱責を受けた。
「プロとして、あり得ないミスだ」
「こんなデータを納品されても、使えない」
「次はないと思ってください」
美波は、その言葉を何度も思い出していた。
(――私、プロ失格だ……)
美波は、コーヒーカップを握りしめた。
そして、もう一つ。
美波の心を苦しめていることがあった。
田中のことだ。
美波は、田中に恋をしていた。
彼の真面目で誠実な性格。
音楽に向き合う時の、真剣な表情。
たまに見せる、優しい笑顔。
全てが、美波の心を捉えて離さなかった。
しかし、美波は、その気持ちを伝えられずにいた。
(――もし、振られたら……今の関係も、全部壊れちゃう)
美波は、自分の臆病さを、何度も呪った。
(――柑奈は、九条さんと、あんなに近づいているのに……私は、何もできない……)
美波の目に、涙が浮かんだ。
彼女は、慌ててハンカチで涙を拭った。
(――泣いてる場合じゃない。仕事、ちゃんとしないと……)
美波は、カフェを出て、オフィスに戻ろうとした。
しかし、その時――
オフィスの前で、田中と出会った。
「あ、美波さん」
田中が、少し驚いたように声をかける。
「……田中くん」
美波は、慌てて笑顔を作った。
しかし、その笑顔は、どこか無理をしているように見えた。
「……大丈夫ですか? 顔色、悪いですよ」
田中が、心配そうに近づく。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
美波は、ごまかすように答えた。
しかし、田中は納得していなかった。
「……無理しないでくださいね」
田中の優しい言葉に、美波の心が、ぐらりと揺れた。
(――ああ、ダメだ。この人、優しすぎる……)
美波は、それ以上何も言えず、オフィスに戻った。
午後の作業中、美波は、ミスを連発していた。
キャラクターの色指定を間違える。
レイヤーの順番を間違える。
ファイルの保存先を間違える。
全てが、集中力の欠如から来ていた。
美波は、自分の不甲斐なさに、歯を食いしばった。
(――ダメだ、ダメだ、ダメだ……!)
そして、ついに――
美波は、大事なデータファイルを、誤って削除してしまった。
「……え……」
美波の顔が、真っ青になった。
バックアップは、取っていない。
数日分の作業が、一瞬で消えた。
「……嘘……」
美波の手が、震えた。
その時、柑奈が、美波の異変に気づいた。
「美波? どうしたの?」
「……柑奈……」
美波の目から、涙が溢れた。
「……私……ファイル、消しちゃった……バックアップ、取ってなくて……」
美波の声が、震えていた。
柑奈は、すぐに美波のパソコンを確認した。
そして、復旧ソフトを起動し、削除されたファイルを探し始めた。
「大丈夫。まだ、復旧できるかもしれない。落ち着いて」
柑奈の冷静な声が、美波を少しだけ安心させた。
しかし、復旧には時間がかかった。
そして、その間、美波は、ずっと泣いていた。
夕方。
ようやくファイルの復旧が完了した。
幸い、ほとんどのデータは無事だった。
「……ありがとう、柑奈……」
美波が、涙声で礼を言った。
「気にしないで。でも、次からはバックアップをちゃんと取ってね」
柑奈は、優しく微笑んだ。
しかし、美波の心は、まだ沈んでいた。
「……私、ダメだ……仕事も、恋愛も、全部ダメ……」
美波が、ぽつりと呟いた。
柑奈は、美波の肩に手を置いた。
「美波、少し外に出ましょう」
「……うん」
二人は、オフィスを出て、近くの公園に向かった。
ベンチに座り、美波は、全てを話した。
クライアントからの叱責。
田中への想い。
そして、何も伝えられない自分への苛立ち。
「……好きなのに、怖いんだ。拒絶されるのが。だから、何も言えない……」
美波の涙が、止まらなかった。
柑奈は、黙って聞いていた。
そして、美波の言葉が、自分の心にも突き刺さっていることに気づいた。
(――怖いのは……私だけじゃない)
柑奈もまた、九条への想いを、伝えられずにいた。
拒絶されることが、怖かったから。
この関係が壊れることが、怖かったから。
柑奈は、泣いている美波を、強く抱きしめた。
「……大丈夫。大丈夫よ」
その言葉は、美波に向けたものでもあり、自分自身に言い聞かせるものでもあった。
「美波は、すごく頑張ってる。ミスをしたって、それは誰にでもあること。大事なのは、そこから立ち直ること」
「……柑奈……」
「それに、恋愛だって、同じよ。怖くても、伝えなきゃ、何も始まらない」
柑奈の言葉に、美波は顔を上げた。
「……柑奈は、九条さんに、気持ち伝えたの?」
「……まだ」
柑奈は、正直に答えた。
「私も、怖い。伝えたら、全部壊れちゃうんじゃないかって」
「……」
「でも……このままじゃ、ダメなのよね」
柑奈は、空を見上げた。
夕日が、街を茜色に染めている。
「私たち、ずっと逃げてた。でも、もう逃げるのは、やめにしない?」
柑奈の言葉に、美波は小さく頷いた。
「……うん」
二人は、しばらく並んで座っていた。
そして、美波が、ぽつりと呟いた。
「……柑奈、ありがとう。私、頑張ってみる」
「私も」
柑奈は、微笑んだ。
二人は、オフィスに戻った。
美波は、自分のデスクに戻り、深呼吸をした。
そして、田中の方を見た。
田中は、ヘッドホンをつけて、真剣に作業をしている。
(――勇気を出さないと……)
美波は、小さく拳を握った。
一方、柑奈も、自分のデスクに座り、深呼吸をした。
(――もう、逃げない)
柑奈は、チャットツールを開いた。
そして、九条へのメッセージを打ち始めた。
From 穂積柑奈: 『今夜、話があります。19時に、会社の屋上で』
送信ボタンを押す指は、震えていなかった。
自分の心に、正直になる。
もう、逃げないと決めたから。
メッセージを送信した瞬間、柑奈の心臓が大きく跳ねた。
(――送っちゃった……)
しかし、後悔はなかった。
むしろ、清々しい気持ちだった。
数秒後、九条から返信が来た。
From 九条巧: 『分かりました。19時に』
そのシンプルな返信を見て、柑奈は小さく微笑んだ。
18時55分。
柑奈は、会社の屋上に向かった。
屋上のドアを開けると、夕暮れの空が広がっていた。
そして――
九条が、すでにそこに立っていた。
「……早かったですね」
柑奈が、声をかける。
「ええ。少し、早く来てしまいました」
九条も、少し照れくさそうに答えた。
二人は、フェンスの前に並んで立った。
眼下には、街の灯りが広がっている。
沈黙。
しかし、それは、重苦しい沈黙ではなかった。
むしろ、何かが始まる予感に満ちた、静けさだった。
柑奈が、口を開いた。
「……九条さん」
「はい」
「私、ずっと考えてたの」
柑奈の声は、少し震えていた。
「私たち、いつまでこのままなのかって」
九条は、黙って聞いていた。
「あの温泉旅館の夜。私たち、キスしそうになった。でも、しなかった」
「……ええ」
「それから、私たち、何も変わってない。仕事は完璧に連携してる。でも、プライベートでは、何も進んでない」
柑奈は、九条を見た。
「私、怖かったの。気持ちを伝えたら、全部壊れちゃうんじゃないかって」
九条の目が、見開かれた。
「でも……もう、逃げるのはやめようって決めたの」
柑奈は、深呼吸をした。
そして、真っ直ぐに九条を見つめた。
「九条さん。私、あなたのことが――」
その瞬間、九条が、柑奈の言葉を遮った。
「待ってください」
「……え?」
「先に、僕に言わせてください」
九条の声は、いつになく真剣だった。
彼は、柑奈の目を見つめた。
そして、ゆっくりと、言葉を紡ぎ始めた。
「穂積さん。僕は、いつも完璧なシナリオを書こうとしてきました。正解を選び、失敗を避ける。それが、僕の生き方でした」
柑奈は、黙って聞いていた。
「でも、あなたと出会って、僕のシナリオは全て崩壊しました。あなたは予測不能で、想定外で、僕の計画を全て破壊する」
九条の声が、少し震えた。
「最初は、イライラしました。なぜ、あなたは僕のシナリオ通りに動いてくれないのか、と」
「……」
「でも……気づいたんです」
九条が、一歩、柑奈に近づいた。
「あなたといる時間が、一番楽しかった。シナリオ通りにいかない、予測不能な時間が、一番幸せだった」
柑奈の心臓が、激しく鼓動し始めた。
「僕は……あなたといると、自分が自由になれる。計画も、シナリオも関係ない。ただ、あなたと一緒にいる。それだけで、幸せなんです」
九条の手が、柑奈の手に触れた。
「穂積さん。僕は……僕は、あなたのことが好きです」
柑奈の目が、見開かれた。
「シナリオにも、攻略法にもない。ただ、好きなんです」
「……九条さん」
柑奈の目に、涙が浮かんだ。
「僕も、怖かった。あなたに拒絶されることが。この関係が壊れることが」
九条の声が、震えた。
「でも、あなたがいない人生こそが、最悪のバグだと気づいたんです」
その言葉に、柑奈の涙が溢れた。
「……私も」
「え?」
「私も、あなたが好き」
柑奈の声は、はっきりしていた。
「論理も、データも関係ない。ただ、好きなの」
九条の目が、驚きと喜びで満ちた。
「私、ずっとバグを憎んできた。感情は邪魔で、修正すべきものだと思ってた。でも……」
柑奈は、涙をぬぐった。
「あなたといると、私の心はバグだらけになる。でも、そのバグを、修正したくないって、初めて思ったの」
九条が、もう一歩、近づいた。
二人の距離が、数センチになる。
「これ……バグじゃないよね?」
柑奈が、震える声で尋ねた。
「いいえ」
九条が、優しく微笑んだ。
「これは……正しい仕様です」
二人は、そっと手を繋いだ。
そして――
キス。
夕日をバックに、二人の影が重なった。
長い、長いキス。
二人の脳内に表示されていた、全てのUI――バグ表示、選択肢、フラグ――が消えた。
ただ、相手の顔だけが見えた。
ただ、相手の温もりだけが感じられた。
それは、どんなシナリオよりも、どんなプログラムよりも、美しかった。
長い沈黙の後、二人は顔を離した。
顔が、真っ赤だった。
「……あの」
柑奈が、恥ずかしそうに呟いた。
「……はい」
「……もう一回」
「……はい」
再びキス。
今度は、もっと長く、もっと深く。
二人は、互いを確かめ合うように、抱きしめ合った。
そして、ようやく離れた時、二人は笑い合った。
「……これから、どうしましょうか」
九条が、少し照れくさそうに尋ねた。
「……とりあえず、プロジェクトを終わらせましょう」
柑奈も、微笑んだ。
「それから、ちゃんと付き合いましょう」
「……はい」
二人は、手を繋いだまま、屋上を後にした。
その背中は、以前とは全く違っていた。
互いを支え合い、互いを想い合う、恋人の背中だった。
翌日、オフィス。
美波が、柑奈に駆け寄った。
「で? どうなったの?」
柑奈は、少し照れくさそうに答えた。
「……付き合うことになった」
「やっとかよ!!!」
美波の叫び声が、オフィス中に響いた。
スタッフ全員が、拍手と歓声を上げた。
氷室も、満足そうに笑っていた。
「よかったな、二人とも」
九条も、少し恥ずかしそうに頭を下げた。
「お騒がせしました」
「いいんだよ。これで、ゲームも完璧に仕上がる」
氷室は、全員に向かって告げた。
「さあ、最後の追い込みだ! あと1週間、全力で行くぞ!」
「おー!」
全員が、拳を突き上げた。
柑奈と九条も、互いに頷き合った。
そして、それぞれのデスクに向かった。
しかし、その前に――
柑奈の机に、付箋が貼ってあった。
『今日も、頑張りましょう。――九条』
柑奈は、小さく微笑んだ。
九条の机にも、付箋が貼ってあった。
『一緒に、最高のゲームを完成させましょう。――穂積』
九条も、嬉しそうに微笑んだ。
二人の物語は、新しい章へと進んでいく。
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