空っぽの財布と、価値のない少年





卑しい企み

路地裏は、腐敗した生ゴミと、叶うことのない夢が饐えたような臭いで満ちていた。ジークの人生の匂いだ。


彼は、石壁の影に身を潜め、獲物を待っていた。今日の獲物は、自分と同じくらいの背丈の少年。


しかし、その少年――ライナスの纏う空気は、ジークとは似ても似つかない、どこか達観した、薄い静寂に包まれていた。まるで、この世界の泥濘を遥か高い場所から眺めているかのようだ。


「金も、知恵も、力もねぇ。俺の価値は、いつも誰かの手のひらの外にこぼれたゴミだ」


心の内で毒づきながら、ジークは素早く飛び出した。彼の信条はシンプルだ。価値がないなら、他人の価値を奪い取れ。


「すまねぇな、ちょっと金に困ってんだ」


そう言いながら、ジークはライナスの腰からぶら下がる使い古された革の財布を素早くひったくった。


英雄の空虚

しかし、その手応えは、あまりにも軽い。


「な……?」


慌てて中を覗くと、財布は完全に空っぽだった。コインはおろか、紙切れ一枚入っていない。ジークが呆然とする一瞬の隙に、ライナスは微笑んだ。その笑みは、彼がどれほど長く生きてきたかを物語るように、どこか皮肉めいていた。


「その財布はもう何十年も空だよ。そして、ご愁傷様。君の稼ぎは、僕が代わりに預かっておく」


ジークのズボンのポケットが、奇妙に軽くなっていた。逆に、わずかな小銭を盗られたのだ。手品のように、いつ、どうやって盗られたのかすら理解できなかった。


「ふざけんな!」


ジークは怒りに任せ、懐に忍ばせていた錆びたナイフを抜き、ライナスに飛びかかった。彼の脳裏にあるのは、奪い返して、このふざけた少年を支配下に置くことだけ。自分より下の存在を作り出せば、一瞬だけでも自分が「支配する側」になれる。

しかし、ライナスは驚くほど優雅に、まるで風に舞うようにジークの攻撃をかわした。ナイフを握る腕を軽く払うだけで、ジークの体は宙を舞い、汚れた地面に叩きつけられた。痛みよりも先に、理解不能な敗北感が襲う。


「力に溺れるのは、支配される側の発想だよ。君は力を振るえば僕を支配できると思った。それは大きな間違いだ」


ライナスはジークの眼前で、盗んだ小銭を指先で弄びながら言った。その声は、少年とは思えないほど静かで、重かった。


「今のままじゃ、君は僕に勝てないよ。そして、君が最も嫌う、誰かのおこぼれに縋る人生からも、永遠に逃れられない」


絶望と鎖

ジークの胸の中で、長年燻っていた憤りが爆発した。彼は地面を叩きつけ、叫んだ。


「変われるわけがない!」


声が掠れるほどの大声だった。


「こんな世界で!支配する側とされる側に分かれてるこんな世界で、どう変われるって言うんだよ!金も力も頭の良さもねえ俺が、どうやって支配する側に回れる!?俺の人生は、お前らのゴミを拾うために用意されたんだ! 誰も俺の価値なんて決めねえ!あるのは、誰かに顎で動かされる価値だけだ!」


ライナスは、その激しい叫びに対し、初めて顔から微笑みを消した。彼の瞳は、何十年もの時を見てきたかのように、静かに深く澄んでいた。


「支配する側に回るんじゃない。君のやることは、その輪の外に出ることだ。君が言う通り、金も、力も、知恵も、全てが支配するための手段にすぎない。なら、その手段に頼らず、誰の価値観にも縛られない、君だけの新しい価値を自分に付けること。それが、僕が君に教えられる、唯一の術だ。」


ルイーダの招待

その時、路地の奥から軽快な足音と共に、一人の女性が現れた。引き締まった体躯に、動きやすい簡素な道着を纏った、快活な目をした女性。ルイーダだった。


「ライナス、また道端で素人相手に哲学論をやってるの?夕飯が冷めるわよ」


ルイーダはジークを一瞥すると、すぐに状況を察した。彼女はライナスの隣に立ち、ジークをまっすぐに見つめた。 


「この子ね、貴方が言ってた、支配の鎖に縛られたまま、自分の価値を見失ってる少年は。まぁ、悪くない目をしてるわ。……ねぇ、少年。お腹は空いてる?私の新しい価値、つまり料理を味見してみない?そのおこぼれに縋る人生から、少しだけ休憩してみたら?」


ジークは、抵抗する気力も失っていた。目の前の少年は、自分を容易く打ちのめした英雄。そして、その隣の女性は、自分を「支配の鎖に縛られた少年」と断言する。


「……行く。おこぼれじゃない、なら、どんな価値があるのか、見てやるよ」


ジークの、支配される側から抜け出すための、抗いの旅が、今、始まった。

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