有刺鉄線

夕凪あゆ

第1話

心の中に、凍った棘がある。

深く刺さったまま、抜けない。

痛みはもう、痛みとしても感じない。

ただそこにある。

慣れてしまったのだろう。


私だって、笑うことはできる。

声も出せる。

けれど、胸の奥では何かが動かずにいる。

それは冬、湖の氷面のように、

静かで、触れれば割れてしまうのだ。


誰かに優しくされるたび、

その棘がかすかに震える。

あたたかさが届くたび、

氷がきしんで、融けはじめる。

古い痛みが目を覚ます。

この感覚、思い出したくない。


だから私は今日も心を閉ざす。



泣きたいのに泣けない夜がある。

冷たく暗い感情は、

涙に変わる前に凍りつく。

叫びたかった言葉が喉の奥で止まったまま、

息だけが白く揺れる。


それでも世界は動く。

朝は昇り、人は笑い、風が吹く。

私はその中で静かに佇む。

–−–誰にも迷惑を掛けないように。


この感情、凍った心は、

呼吸と同じようにそこにある。

それを失えば、

たぶん私は、私でなくなってしまう。


だから今日も、

その冷たさを抱いて眠る。

痛みの形を確かめるように、

胸の奥に手を当てる。


——たしかに、生きている。

そう思える瞬間だけが、

この凍った心を、

ほんの少しだけ温めてくれる。

融かさず、優しく温める。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

有刺鉄線 夕凪あゆ @Ayu1030

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ