第7話:偏屈な魔術師と合理的な聖女

昨夜もまた、気づけば蝋燭の芯が短くなっていた。眠気より先に、胸の奥でざわめく何かが勝ってしまう。


アーネストから借りた辞典──ページに刻まれた古代語のひとつひとつが、インク以上の“重さ”を持って指先に絡みつく。一語訳すたび、ページの向こう側で誰かが息をしているような、そんな錯覚すらあった。


辞典に書いてあるのは古代語の構造だけ。

それでもその余白には、リヒター家が費やした何世代分もの記憶が滲んでいる。その重みに応えたいのか、ただ逃げ場を探しているだけなのか──

自分でも分からない。


ただ一つだけ、確かに理解してしまった。


リヒター家の知識継承の仕組みは、間違いなく“行き過ぎた合理化”だ。

人数を増やすことで途絶えないようにしていたけれど、それは子供たちの未来そのものを捧げて維持されている仕組みでもあった。

この世界では正しいのだろう。そうでなければ記録は保てない。


けれど──私の知る世界では、あれは絶対に“許される仕組み”ではない。


過去を知り、未来の人間を救うための術が、今を生きるはずの人生を奪って成り立っている。

そんな仕組みを、本当に続けていいのだろうか。


ページの文字が滲む。睡眠不足のせいかと思ったが、違う。


(……返す前に、少しでも“彼らの時間”を無駄にしないように。)


これは感傷ではない。ただ、借りた分の価値を返すだけだ。



◇◆◇



リヒター邸への訪問から数日後、私たちはいつも通りの業務に戻っていた。毎朝のルーティンの締めであるアメリアによる髪結いの最中に、大きな欠伸がもれる。

とっさに口元は隠せたが、この気の抜けた姿は笑われてしまうかもしれないなと鏡を覗くと、アメリアの表情は私の想像とは違っていた。反対に、なんとも私を案ずるような瞳をしているではないか。


「アメリア?そんな顔をしてどうかしましたか、何か困ったことがありましたか?」


私が慌てて彼女に問うと、アメリアの表情はますますその色を強める。


「それは、私の台詞です。……ルツィア様、最近ずいぶんと夜更かしをなさっているようで。お身体が心配です。」


それでも手を止めずに髪をまとめ上げてくれる手際を眺めながら、私は鏡から視線を泳がせる。


「私が深夜残業なんてするはずがないじゃないですか、考えすぎですよ。……それとも、いよいよ年齢が顔に出てしまってますか?それは参りましたね、まだまだ現役のつもりなのに。」


追及をかわそうと冗談めかして答えると、アメリアはその唇をツンと尖らせる。

──これは、確信があって言っているんだな。私は観念し、鏡の中の彼女へと目線を戻した。


「ルツィア様、そんな嘘をおっしゃらないでください。燭台の蝋燭、私が取り替えているんですからね?ここ最近の減り方を見ていたら分かりますよっ。」

「あらあら……それは動かぬ証拠を。アメリアったら、いつの間に探偵のような洞察力を身につけたのでしょう?もう貴方に隠し事はできませんね。」


私は彼女の自発的な成長(もしくは、情報収集を頼みすぎた結果)に観念して、鏡越しに小さく両手を合わせた。

その推理は完全に正しく、私はあの『知識の家』から戻ってから、睡眠時間を削って『神聖力行使業務』に使われる術式の翻訳に勤しんでいる。目の下のクマは湯で温めて軽減させていたからバレないと思っていたが、蝋燭にまで注意が回っていなかったようだ。これも夜更かしの副作用かもしれない。


「ルツィア様は、アーネスト様をお訪ねになってから様子が変ですよ。物思いに耽られたり、ぼんやりされていたり……何か、御心に障るようなことがあったのですか?」


ああ、全部バレている。

アメリアの業務を考えれば私への観察力が時間の経過とともに上がるのは至って自然なことかもしれないが……今までこれほど気にかけてもらう経験がなかった私にとっては、少々照れくささがある。


「本当に、よく見ているのね。──気に障ることがあったのではなく、リヒター家にお借りした知恵に一刻も早く成果でお返しせねばと作業しているだけですよ。この辞典も、借りている間に紛失や汚損をさせるわけにはいきませんからね。」


そうであっても無理をしすぎないでくださいねと、アメリアにしっかりと釘を刺される。

業務時間外に業務をすることも、翌日のコンディションに影響を及ぼす真似をすることも私の信念に反している。しかしそれを反故にしてでも、この辞典をいち早くあの家に戻さなければと、焦り過ぎていたのだろう。業務に影響が出る前に指摘されたのは、かえって良かったのだと思うことにした。


「ありがとう、アメリア。心配をかけてしまってごめんなさい。今日からはなるべく早く寝るようにしますので──さ、朝の祈りへ向かいましょう。」


私は顔を左右に傾けて、シニヨンの仕上がりをチェックする。アメリアの仕事はいつも完璧だ。そして立ち上がり、扉を開ける前に両頬をぱちんと叩いた。聖女が眠たそうな顔をしていては締まりが無い。気合を入れ直し、再び扉に手をかけた。


廊下に出ると、そこには朝の光が差し込んでいた。一晩の疲れを溶かすような柔らかい光だった。私たちは足並みを揃え、初代聖女の像へと向かっていった。



◇◆◇



朝の気怠さからは一転、馬車の中は闘志に満ちていた。きっかけは、朝の祈りを終えた後のミーティングでの、ヘルマンからの進捗報告だった。


アーネストから紹介されたテオフィルス・アーカーマンなる魔術師は、教会経由のアポも、ホーエンフェルス家名義のアポもすべて無視した。教会経由では大司教への対策でアーネストの名前を出せなかったとはいえ、まさか名家であるホーエンフェルス家からの要請までも無碍にするとは驚きだった。

そこでヘルマンは作戦を変更し、王宮へ出仕している魔術師を捕まえて、テオフィルス・アーカーマンが協会へ出入りする可能性が高い曜日の情報を聞き出し──今に至るわけだ。

出仕の魔術師が言うには、テオフィルスはかなりの変わり者だという。一つの魔術を探求するのを是とする魔術師協会にありながら特定の分野への傾倒はせず、“研究派”と“実用派”の派閥を行ったり来たりする得体の知れない男だそうだ。教会や王宮の権威をものともしないこれまでの対応が、その評価に十分な納得感を加えた。


──それならば。

アポが取れないのならば、もう直接乗り込むしかないだろう。

普段なら「さすがに非常識です」と諌めたかもしれない二人も、このときばかりは大いに同意をしてくれた。そして今、私たちは王都の南側に位置する魔術師協会へと馬車を走らせていた。



王都の南端、灰の匂いが漂う工房街の奥に、それはあった。

建物というより、無数の研究棟が寄り集まってできた島のようだ。金属、石、煉瓦、魔晶石──素材も形もばらばらで、見れば見るほど頭が痛くなる。それでも、それらが同じ意志に貫かれていることだけは分かった。“研究のためなら何でもする”という、清々しいまでの無頓着さだ。中央に立つ本部庁舎も、王都の名にそぐわぬほど簡素だった。装飾も紋章もなく、外壁には実験の跡が焼き付いている。誰もそれを恥じていない──むしろ誇りのように、積み重ねた失敗が光を反射していた。


雑然としているのに、妙に心が落ち着く。誰のためでもなく、自らの知のためだけに積み上げられた場所。教会のような敬虔さも、王宮のような絢爛さもない。けれど、そこには確かに“成果”ではなく“探究”の匂いがあった。ここなら、神秘を標準化できるかもしれない──そう思えた。


「これはまた……王宮の建築家が見たら泡を吹いて倒れそうな構えですね。」


雑然としているが、使うものだけを並べたデスクのようだと好感を覚えていたのは、どうやら私だけだったようだ。ヘルマンもアメリアも、この雑多さに唖然としていた。本部庁舎を目指して歩く足取りもどこかそぞろだ。アメリアやヘルマンとは全く住む世界が違う、この街並みがきっと、テオフィルス・アーカーマンはじめ魔術師たちの本質を表している。


その本部庁舎も、来訪者を迎えるはずであった受付カウンターはごちゃごちゃとした堆積場と化していて、人の気配はなかった。私たちは本当に正しいのか分からない壁面の地図を頼りに『実験記録管理室』を目指す。

“記録”──体系の基礎、知識を残す最後の工程。私たちは、少なくともここには人の出入りがあると狙いを定めた。

薄暗く、埃や薬品、何かが焦げたようなにおいが漂い、あちらこちらで床材のヒビ割れが起きている廊下を通り、目的の部屋へなんとか辿り着く。すると、幸運なことに室内には人の気配があった。私はヘルマンに許可を取り、無造作に開かれた扉の前に立つ。中から微かな衣擦れの音を拾う。


よし、ここだ。

私はノックもせずに一気に部屋に飛び込んで、大声を上げた。


「──失礼します!!とある魔術師協会員を探しているのですが!ご協力願えますかァ!!?」


絶対に無視をさせまいとする声に驚いたか、手元からドサドサと持ち物を落としたようだ。液体が漏れたり、なにか割れる音がなかったことにひとまず安心する。

私はその協会員であろう人物が立ち去ろうとする前に腕を掴む、淑やかなる聖女の微笑みを貼り付けて。


「わたくし、ルツィア・フォン・アイゼンシュタインと申します。ご存知ないかもしれませんが、この国で聖女を任されておりますの。人探し、ご協力いただけますよね?」


絶対に逃がしてなるものか。

私が協会員の動きを止めているうちに、ヘルマンが背後に回り込み、アメリアが閉じた扉を死守するように仁王立ちをする。

カチリ。ヘルマンが剣の鍔元を上げる音をわざと立てて、声なき恫喝をする。哀れな協会員、彼の動揺は掴んだ手首からしっかりと伝わってくる。そして私は笑顔のまま、極めて優しい声色で要求を続けた。


「『実用派』か『研究派』か、もしくはそのどちらでもない──テオフィルス・アーカーマンという人物を探しています。彼の古い知り合いであるアーネスト・フォン・リヒター様からの直々のご紹介で。案内をお願いします。」


……こうでもしなければ、彼らは誰一人として扉を開かない。目には目を、歯には歯を。私は最初から、“それなりの強行突破”を前提にすると、皆と意識統一を済ませていた。



◇◆◇



案内の協会員が、増改築を繰り返して曲がりくねった回廊のような通路を抜けて、ある扉の前で深呼吸を一つ置いた。


「アーカーマン、聖女様がお見えだ。」


その声は緊張により震えていたが、言葉遣いは粗野なものだった。


扉から返事はない。かわりに、奥から何かが弾けるような小さな音──火花のような、乾いた破裂音がした。協会員は視線を泳がせ、諦めたように頭を下げた。


「……開けましょう。たぶん、生きていますから。」


嫌な予感しかしない前置きだったが、私は扉を押した。


その中は、混沌そのものだった。

机の上には、魔道具らしき装置が解体されたまま並び、灼符紙の焦げた匂いが鼻を刺す。魔力干渉による焦げ跡が壁一面に広がり、棚には羊皮紙ではなく、灼符紙しゃくふしの束や黒板が──正確には符砂板ふしゃばんが──棚板のあいだに斜めに突っ込まれている。だが、順序はまるでない。新旧の研究成果、成功と失敗、整理と放棄──あらゆるものが同じ平面に共存していた。それは混乱ではなく、“選別されていないだけの知の堆積”にも見えた。


そして、中心の机に男がひとり。

長椅子の上にあぐらをかき、片手には符砂板。もう片方の手にはペン先の焼けた筆記具を持ったまま、こちらを見もしない。協会員と揃いの黒のローブは所々焦げ、袖口には薬品の染みがある。だが、その手の甲だけは異様に整っていた。無駄のない指の動き。筆圧の制御。思考の速度がそのまま肉体に転写されたような緊張感があった。


「おいアーカーマン、聖女が──」


協会員が再び口を開いた瞬間、彼はようやく顔を上げた。


「うるさい。そこに置いといてくれ。」

「……人だ。」

「人?」


短く反芻し、面倒そうに首を傾けた。その拍子に光を遮っていた髪が流れ、灰色の瞳が私たちを値踏みするように見開かられる。


「……ああ。なるほどね。聖女サマってのは本当にいたんだな。」


私はすぐには言葉を返さなかった。代わりに、室内をもう一度見渡す。この混沌を“汚れ”と見るか、“純粋な探究”と見るか──その違いが、彼をどう扱うかの分かれ目になる。

この空間は理ではなく、意思で積み上げられている。合理と狂気の境界が、ひどく曖昧だ。やがて、彼の視線が私の沈黙に気づいた。


「なんだ、その顔は。説教でも始める気か?」


私は小さく微笑んだ。


「いいえ。ただ……あなたの“研究環境”を見ていただけです。」


「観察、ね。」


アーカーマンと呼ばれた男は小さく鼻で笑い、手にしていた符砂板を裏返しに机へ伏せた。


「教会の連中が、一介の魔術師ごときの研究環境に興味あるわけないだろ。本物か偽物だか知らねえが、相手してやるほど暇じゃないんでね。さっさと帰ってくれ。」


予想はしていたが、それを超えた態度であった。私は前に出ようとするヘルマンに片手を上げて制し、アーカーマンへ聞かせるように大きなため息をついてみせた。


「やれやれ……困ったものね。あのアーネスト・フォン・リヒター卿から直々に紹介されたと言っているでしょうに。テオフィルス・アーカーマン、貴方は彼の顔に泥を塗るつもり?」


挑発の中に練り込んだアーネストという名前に、アーカーマンはわずかに肩を揺らした。

──やはり、アーネストが言っていた通り、個人的な知り合いのようだ。

魔術師はようやくその顔をこちらへ向ける。雑に束ねられた髪が揺れ、灰の奥に琥珀の熱を宿した瞳が細められる。意外にも年若い青年であったが、醸し出す雰囲気はどこか年寄りじみた諦念がある。敵意と警戒を隠さない眼光が私を突き刺した。


「アーネストだと?……どっからその名前に辿り着いた、言え。」


……まったく、舐められたものだ。そんな脅しに怯む私ではない。


「質問しているのは私です。こちらの話を聞く耳すら持たないのならそれで結構。すべての対応をアーネスト卿へお伝えし、聖女として、教会と王宮を通して正式に魔術師協会へ抗議するだけ。自国のあらゆる権力から目をつけられた厄介者ともなれば、さすがに研究は続けられないのでは?──西の連合に伝手でもない限りね。」


私は相手に口を挟ませずに言い切り、魔術師はこちらを睨んだまま唇を噤む。室内に、ヒリついた沈黙が続いた。


何もおかしなことは言っていない。そもそもアポを無視した時点で抗議をしたって良いくらいなものだろう。

この程度の、感情的に無礼な輩なら数え切れないほど相手にしてきた私──『鷹野瑞穂』は、この初戦を勝利した。



観念したのか、アーカーマンは灰色の髪を無造作に掻きむしり、面倒くさそうにしながらも質問に答えはじめた。


「ったく、厄介な客をよこしてくれたもんだ、アーニーの奴。──で?この俺に一体何の用があるって?」


しかし、私はまだ手を緩めない。

この無礼さは、彼だけの問題ではないのだろう。


「その前に確認させて。貴方は、本当にテオフィルス・アーカーマンであってる?まだ一度も名乗ってもらっていないから。」

「そっからかよ。人相は聞いてきてねえのか?…正真正銘、テオフィルス・アーカーマン様だ。心配なら帰ってからアーネストに聞きな。あいつが人の顔を忘れるわけないだろ。」


人相なら一応聞いてはいたのだが……髪の色と目の色以外は、きっと今本人に直接伝えてしまうと逆効果だから黙っておく。しかし、アーネストの尋常でない記憶力を当然のように知っている口ぶりに、私はようやく尋ね人本人であると確信を得ることができた。

その様子を見て、ヘルマンが案内をさせた協会員を解放して部屋の外へと出す。建て付けが悪いのか、軋む扉を閉める力がいつもより強かった。私はアーネストから借りた古代語の辞典と、聖典を取り出し、テオフィルスにその表紙だけが見えるよう掲げる。


「では改めて──私は聖女、ルツィア・フォン・アイゼンシュタイン。アーネスト卿はジークムント国王陛下からご紹介いただきました。さあ、早速ですが本題に入りましょう。」


私は、今まで行ってきた『神聖力行使業務』についてテオフィルスに説明する。

聖女業務で用いられる神秘の術式には古代語が使われていること、聖女はその術式を古代語のまま感覚的に行使するために属人化してしまっていること、聖女の術式のうちのいくつかは高位の神官と共通の目的・作用を持つ神秘があること、そして。


「教会は“神秘は神秘のままに”と、解明されることを拒んでいます。しかし私は、治療や結界の修復などの担い手の多い方が有益な神秘は、もっと共有されるべきだと考えています。ですから、貴方に“聖女の術式の解明”と“術式の標準化”を依頼したいのです。」


テオフィルスはまたも鼻で笑い、小馬鹿にするように肩を竦める。


「おいおい、なに言ってんだ?俺は魔術師だぞ。教会の神秘と魔術師の魔法は基本的な体系が異なるってのは知ってんだろ?それにそもそも、教会の神秘なんぞに興味はない。」

「ええ、もちろん。でも解呪を生業にする魔術師はいるでしょう?私が求めているのは“神秘の否定”ではなく、“神秘の再現”。解明した神秘をその形式のまま使わせようという話ではないの。『誰でも使える』、かつ目的を果たせる状態にしたいのです。それに神秘は神の御業や奇跡なんかじゃない、れっきとした術です。必要な術には再現性を持たせるべきで──その結果、それが魔法になったって構いません。」


私は、テオフィルスが断りの句を挟む前にたたみかけた。

ここまではまだ誰にも明かしていなかったが、日々業務にあたってきた結果、思い至った私の神秘に対する見解だ。

アメリアが背後で息を飲む気配がする。冒涜的に聞こえてしまっただろうか?でも、目的に対する手段の話というだけだ、アメリアもヘルマンも──そして国王陛下も、聖女にすべてが集中しているリスクはすでに理解している。


この言葉にもテオフィルスは表情を変えることはなかった。だが、彼の瞳が明確に熱を帯びるのを見たことで、確実に興味を引いていることが分かった。


「……教会の神秘が魔法になってもいい、だと?とんでもない聖女だな。こんな話、大司教が聞いたら倒れちまうんじゃないか?」


倒れてしまうどころか、使えるすべての力を使って妨害してくるだろうことは、すでに本人から直接宣言されているので、その挑発は意味をなさない。私は迷いなく頷いて、自分の胸に手を添える。


「真にこの国の平和を祈る方なら、最終的には分かってくれるでしょう。──教会は『神秘』、貴方や魔術師協会は『魔法』と分けて考えることに大分こだわりがあるようだけど……私にとってはどちらも同じ。進化の過程が違っただけで、根源はきっと変わらない『技術』です。だからこそ、専門性にこだわらず、広くその『技術』に精通しているという貴方に依頼しているのです。」


記憶の中で、アーネストが添えてくれた情報を反芻する。

テオフィルスは、ある系統、ある研究テーマに対して魔法を研究しているのではなくて、魔法そのものを研究しているように見える、と。

やはりアーネストの人物評には間違いがないようで、目の前の偏屈な魔術師はようやく研究者の顔付きへと変わる。会話の間などどうでもよく、私の投げかけた言葉の実現可能性でも計算しはじめたのだろう。視線はすでに私から外れ、なにかブツブツと呟いている。

興味を持ってくれたのはいいが、このまま研究に突入されては困る。私はパンとひとつ渇いた拍手を打ち、彼の集中を断ち切る。


「どう?貴方の研究にとっても悪い話じゃないでしょう。──この依頼、受けてくれますか?」


するとテオフィルスはハッと視線を上げ、顎に添えていた手を下ろして私へと向き直る。どこか不貞腐れているように下がっていた口角が、ニヤリと弓形に変わった。


「いいだろう。教会、ましてや神秘を解析し尽くせる機会なんて二度と無いだろうからな。……その“属人化”とやらをしてる術式、暴いても構わないんだな?」

「ただの暴露で終わらせないで、標準化までお願いしますね。」


──交渉成立。私は内心でガッツポーズをし、胸に添えていた手の指をパチンと鳴らす。長い説得の末に、ようやく彼の興味をこちら側へ引き寄せた。学者という生き物は理屈よりも、未知に心を奪われる瞬間の方が正直だ。

すると、アメリアが羊皮紙とペンを私に差し出した。自分で書いた内容を改めて確認してから、テオフィルスの方へ向けてペンとともに渡して、こう告げた。


「ご快諾ありがとう、テオフィルス・アーカーマン。これは依頼をするにあたっての雇用契約書および秘密保持契約書です。勤務条件とか給与についても書いてありますので、一応目を通してからサインを──」


と、私が言い終わる前に、テオフィルスはろくに文面を見ずにサインをしてしまった。


「契約内容を確認しない研究者なんて初めて見た。」


私が皮肉を漏らすと、彼は肩を竦めて「俺は契約より成果主義だ」とでも言いたげに笑う。


おやおや、案外迂闊なところがあるものだ。目の前にぶら下がった興味関心には逆らえない気質と、その若さを再確認させてもらった。まあ、こうなることが私にとって一番都合がいいので、進めさせてもらう。


「即断即決ね、では決まりです。──今日から三日以内にリヒター邸の近くに引っ越してください、もちろん私との研究のために必要な資料はすべて持ち出して。ああ、アーネスト卿とは知り合いなんでしょう?ちなみにどういったご関係ですか、それによっては先にこちらで住居を用意しないといけないので。」


矢継ぎ早に告げる私に、テオフィルスの顔はみるみる驚きに歪んでいく。


「はあ!? 引っ越し!? 契約書ってそういう……!」

「書いてありましたよ?」


私は自信たっぷりに微笑み、契約書の該当の文面を指し示す。


「研究を効率的に進めるために、リヒター邸の近くへ住まいを移してもらうって。ああもちろん、そのために必要な経費は全部私が出しますから心配いりませんよ。」


テオフィルスは唇を引き結び、明らかに納得していない顔で羊皮紙を睨んだが、結局、まあいいと呟いて諦めた。理屈では勝てないと悟ったのだろう。

私は一応、仕方なしに一文一文を追って説明をしてやる。要は誰にも知られたくない研究なので協会で作業されては困るし、今後何度も参照するであろう情報源であるリヒター邸の近くに拠点を置くことで、移動の手間を削減しようというだけの話だ。突然の引っ越しと聞いて憤慨していたテオフィルスも、これにようやく拳を下ろしてくれた。

彼が言うには、アーネストとは幼馴染の関係で、生家が近くにあるそうだ。ただ家族がまだ住んでいるそうなので、家族に対して別の住居を用意するか、そことは別に拠点を用意するかは相談の上、決めてくれるそうだ。もしかしたらまた逃げるかもしれないが、実家の場所と自筆の契約書がこちら側にあるとなれば、安心していいだろう。私はすべてが計画通りに収まり、ようやく安堵の息をこぼした。


案内に捕まえていた協会員はすでに帰してしまっていたので、研究室から車止めまではテオフィルスに道案内をさせた。渋々といった態度が改まることは今度もないだろうが、顔を合わせてすぐの剥き出しの敵意はすでになくなっていた。

向かう道よりもスムーズに回廊を抜けて、傾きかけた陽の光に照らされる異質な研究棟の数々と魔術師の姿は、まさにといった具合で、絵になる光景だった。


「とりあえず家の件が決まるまでは動けないからな、連絡は協会経由にしといてくれ。」

「今度無視したら……さすがに理解できるでしょう?なるべく早く決めてくださいね、待っています。」


テオフィルスは観念したように頷いたが、その灰色の瞳の奥には、もう研究者の光が灯っていた。私の敵意も、彼の警戒も、ひとまず共通の目的に吸い寄せられたのだ。私は別れ際に、ダメ押しのように契約書を見せつけてから馬車へ乗り、帰路へとついた。


──さて、これで役者は揃った。やっと『神聖力行使業務』の可視化に着手できる。この神秘が世界の理によって解体される瞬間、私は何を見るのだろう。窓から夕日を眺めていた私の隣で、アメリアが小さく呟く。


「……でもルツィア様、私はあの方のこと、なんて呼べばいいんでしょう?あんなに無礼な方に対して様なんて付けたくないなあって思っちゃいました。」


私は思わず吹き出しそうになりながら、再び窓の外の光を見上げた。


「それは、次に会う時までの課題にしましょう。」



──次に会う時。神秘の可視化と標準化、その始まりに。


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