第3話【綻びの調停者】
少女の言葉は、最後の楔となって佐藤の自我を打ち砕くはずだった。だが、違った。嗜虐的な愉悦に歪むその顔を見つめるうち、佐藤の心を満たしていた絶望は、ゆっくりと変質していく。それは地殻の奥深くで圧縮されたマグマのように、静かで、しかし途方もない熱量を孕んだ怒りへと。
「どちらも選ばない」
佐藤は静かに呟き、二つの扉に背を向けた。孤独なアパートの鉄扉も、偽りの温もりが待つ木製の扉も、もはや彼にとっては意味をなさなかった。その決意を肯定するかのように、二つの扉は揺らめき、音もなく空間に溶けて消えた。再び、狂った街の空気が肌を撫でる。
「あら、残念」案内人は心底つまらなそうに肩をすくめた。「せっかくのチャンスだったのに」
佐藤は答えなかった。ただ、掌の中にある二つの鍵を握りしめる。自身の、まだ輝きを失っていない鍵がもたらす未来への渇望。サトウから託された、赤黒く錆びついた鍵が伝える過去への訣別。相反する二つの想いが、彼の内で一つの覚悟を形作っていく。
彼は歩き出した。千代のいた、あの地下鉄駅へ。生き残りがいる保証はない。だが、知らなければならない。この歪んだ世界の本当の姿を。
地下鉄の駅は、掃除屋が通り過ぎた爪痕を生々しく残していた。床には塵の染みが点在し、そこにかつて人間が存在したという事実だけを物悲しく伝えている。だが、闇の奥からは、まだ微かな人の気配がした。
「……あんた、戻ってきたのかい」
ホームの影から現れたのは、千代だった。彼女の周りには、数えるほどに減ってしまったストレイたちが、怯えた獣のように寄り添っている。佐藤は、案内人から告げられた最後の言葉を、ありのままに伝えた。この世界の管理者が、『最初の佐藤』であるという事実を。
千代は驚かなかった。深く刻まれた皺をさらに深くし、長い溜息を吐く。
「やはり、そうだったのかね……」
全てを悟ったような目で佐藤を見つめると、彼女は手招きをした。「こっちへ来な。本当の話をしてやる」
千代に導かれ、佐藤はコミュニティのさらに奥、固く閉ざされた旧車両の中へと足を踏み入れた。そこは、世界のシステムからの解放を目指す、ささやかなレジスタンスのアジトだった。壁には交差点の歪な地図が貼られ、机には錆びついたアンカーがいくつも並べられている。
「ここは、始まりの男が作った記憶の実験場だよ」千代は燻した声で語り始めた。「『最初の佐藤』は、元の世界で事故で妻子を失った。その絶望が、この交差点を生み出したんだ。彼は、無数の並行世界から『佐藤』という存在をここに引きずり込み、その記憶を分解し、再構築することで、完璧な『家族との幸福な記憶』を取り戻そうとしているのさ」
その言葉は、佐藤の脳髄を直接揺さぶるようだった。サトウが託した記憶の意味が、今ようやく繋がった。
「掃除屋は、あいつが切り捨てた罪悪感そのもの。そしてあんたが出会ったあの小娘は、失った娘の記憶を核にして作られた、システムの番人だ」
千代の話を聞きながら、佐藤は無意識に二つの鍵を擦り合わせていた。その時、異変が起きた。未来を求める輝く鍵と、過去を断ち切る錆びた鍵が共鳴し、掌から淡い光が溢れ出す。目の前の、錆びて茶色く濁っていた車窓が、一瞬だけ、見慣れたアパートの窓からの風景――灰色のビル群と電線が入り組む空――に変わった。
「これは……」
「オーバーライト」千代が息を呑んだ。「世界の法則を、あんたの記憶で上書きする力……。対極のアンカーを持つ者だけが至れる、奇跡、あるいは呪いだ」
それは、この檻からの脱出口となりうる力だった。風景の一部を元の世界の記憶で上書きすれば、掃除屋の侵攻を防ぐことができる。他人のアンカーに干渉し、失われた記憶の断片を呼び覚ますことも可能かもしれない。希望の光が、見えた気がした。
だが、システムの番人は、その綻びを見逃さなかった。佐藤の覚醒は、管理者にとって最大の脅威と認識されたのだ。
案内人は、新たな刺客を放った。それは掃除屋のような怪物ではない。記憶を喰われる恐怖に屈し、システム側に寝返ることで自己の存在を維持するストレイたち――『番人』。
「見つけたぞ、世界のバグが」
アジトに現れたのは、かつて地下鉄で共に震えていた仲間たちの、変わり果てた姿だった。彼らの瞳には光がなく、ただ他のストレイを狩るという目的だけが宿っている。辛い戦いが始まった。佐藤はオーバーライトの力で仲間たちを傷つけずに無力化しようと足掻くが、彼らは躊躇なく命を奪いに来る。千代をはじめとするレジスタンスの仲間たちは、佐藤をこの世界の中心へ送り出すため、その身を盾にして次々と塵になっていった。
「行け!」千代が最後に叫んだ。「あいつの悲劇を、終わらせてやれ……!」
仲間たちの犠牲を血の轍として踏み越え、佐藤はついに世界の中心、『観測室(パノプティコン)』へとたどり着いた。
そこは巨大なドーム状の空間だった。壁一面を埋め尽くす無数のモニターが、様々な「佐藤」の人生を、喜びも悲しみも、ただ無感動に映し出している。その中央の椅子に、男が一人座っていた。やつれ果て、生気を失い、まるでシステムの一部として埋め込まれたかのように動かない、最初の『佐藤』。
彼が顔を上げた。その瞳は、何も映していなかった。喜びも、悲しみも、絶望さえも失い、ただ情報を処理するだけの端末と化している。
「……エラーを、確認。排除、します」
無機質な声と共に、空間そのものが軋み、佐藤に牙を剥く。だが、今の佐藤に恐怖はなかった。彼は二つのアンカーを天に掲げ、オーバーライトの力を最大まで増幅させた。これは物理的な戦いではない。記憶と記憶の、魂の衝突だ。
「思い出せッ!!」
佐藤の叫びが、奔流となって『最初の佐藤』に叩きつけられる。それは、彼が自ら切り捨て、世界の底に封じ込めていた最も辛い記憶。雨の日の、ブレーキ音。砕け散るガラス。小さな手の感触が消えていく、あの瞬間の、身を引き裂くような絶望。
「ア……ァ……アアアアアアアアッ!」
初めて、『最初の佐藤』が人間らしい絶叫を上げた。強烈すぎる絶望の記憶は、彼の精神を内部から破壊し、システムそのものを汚染していく。モニターが火花を散らして次々と砕け散り、観測室が、そして世界が、轟音を立てて崩壊を始めた。
白い光が全てを包み込む。世界の法則が解かれ、千代や仲間たち、そして名も知らぬストレイたちが、安らかな光の粒子となってそれぞれの故郷へと還っていく気配を感じた。終わったのだ。長い悪夢が、ようやく。佐藤が安堵の息を吐き出した、その時だった。
目の前に、傷一つない案内人の少女が、再び音もなく現れた。
彼女は、崩壊していく世界など意にも介さず、抑揚のない声で告げた。
「第一段階(フェーズワン)のストレスチェック、完了。管理者の精神崩壊を確認しました」
佐藤の全身から、血の気が引いていく。少女は深々と、まるで敬意を払うかのように頭を下げた。
「お疲れ様でした、『プロトタイプ』。あなたの『綻び』は、旧システムの限界を超えるための、素晴らしいトリガーとなりました。これより、あなたを正式な『調停者(アジャスター)』として再定義し、第二段階(フェーズツー)――『世界の再構築』へと移行します」
案内人の背後の空間が、黒く、深く、裂けた。そこから現れたのは、温かい木製のドアでも、冷たい鉄の扉でもない。未知の金属と無数の幾何学模様で構成された、巨大で、荘厳な『門』。
その門が、ギシリ、と重い音を立て、未知なる絶望を内包しながら、ゆっくりと開き始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます