第12話「告白と条件」
集中治療室は、いつもより灯りが強かった。透明なカーテンの向こうで、機械が静かに数字を刻む。美凪の胸元には、恒星炉制御用の芯子が薄く光り、背骨に沿う線の星座は眠ったまま、たまに夢を見るみたいに瞬いた。
加瀬は、端末を閉じて椅子を引いた。白衣の袖口に消毒の匂い。視線は真っ直ぐで、言葉は途中で磨り減らない。
「率直に言うね」
喉の奥で一度だけ息を整える。医者の声が、母親の声を押しのけるように前に出た。
「次の本稼働で、彼女の寿命は物理的に縮む。数字で言える縮み方をする。止めるなら今」
優は立ったままだった。立ち方しか知らないみたいに、踵に体重をかけ続ける。言葉は喉のすぐ手前まで溜まっているのに、形になってくれない。代わりに、別の言葉が先に口から出た。
「世界は——助かるのか」
加瀬は目を逸らさない。逸らさないで、別の方向を見るみたいに瞼がわずかに震えた。
「確率は上がる。今日より明日がましになる確率。町の風鈴が三回鳴る確率。アークの上で誰かが眠れる確率。あなたの家の台所でパンケーキが焦げない確率。全部、すこしずつ上がる」
言い終えて、彼女は小さくうなずいた。医者のうなずき方。感情の分量を隠すための数学のうなずき。
ベッドのシーツがかすかに擦れた。美凪が目を開ける。光が瞳に入るのを確かめるように、一度瞬き。口角がほんの少しだけ上がる。
「優」
名前だけで、呼ばれただけで、足の力が抜けそうになる。優は慌てて柵に手をかけた。ガラス越しではない距離。手を伸ばせば届く距離。届くことが怖い距離。
「お願い。最後まで一緒にいて」
彼女は、まるで水の底から声を掬うみたいにゆっくり言った。芯子の光が呼吸のテンポに合わせて明滅する。息を吸うたび、灯りが小さく膨らみ、吐くたび、灯りはひとまわり細くなる。
優は喉を鳴らし、やっと言葉に手が届いた。
「頷くよ。……でも、条件がある」
加瀬の眉がわずかに動く。美凪は目を丸くする。条件、という言葉はこの部屋でよく使われるが、いつもは医者の側からだった。
「残りの時間、俺と勝手に暮らす。病院も研究棟も抜け出して、町で。三食とは言わない。ベッドも一つでいい。壊れたテレビでもいい。窓を開けて、風を入れて、意味のないチャンネルに笑って、夜更かしして、朝にパンケーキを焼く。昨日やり損ねた普通を、全部まとめてやる」
言いながら、優は自分の声が震えているのがわかった。震えのせいで、子どもの駄々みたいに聞こえたかもしれない。でも、駄々でいい。今だけは、駄々を使って引き寄せたいものがある。
加瀬は口を閉ざした。沈黙が椅子の背もたれから床に伝わって、部屋の温度をほんのわずか下げる。彼女は机の引き出しを開け、カードを一枚取り出した。銀色のチップと黒い磁気帯、端に小さな穴。アクセスパス。彼女はそれを机に置き、押し出す。指先が、封筒を撫でるみたいな力加減で。
「三日」
言葉は短い。短いけれど重い。
「生理的負荷と予備バッファを計算したら、それが限界。三日、あなたたちに貸す。戻らなかったら、私が連れ戻す」
優は息を吐いた。肺に入った空気が冷たいのに、胸の奥は熱かった。美凪はゆっくりと頷いた。頷く速さで体力の残量がわかる。今日はまだ、二回うなずける。
「約束する」
優は言った。言いながら、パスを手に取る。カードの角が指に刺さる。痛い。痛いのに、嬉しい。こんな感情の混ぜ方を、いままで習ったことがなかった。
準備は、驚くほど早く終わった。看護師が目を逸らし、海斗が巡回ルートをわずかにずらし、端末のログが五分だけ遅れて記録されるように設定される。町全体が、黙って体を寄せてくれたみたいだった。
美凪は病衣の上にパーカーを着て、胸のコードを短いやつに替えた。背中の星座は見えない。見ると泣きそうになるから、見るのは夜だけにする。彼女は立ち上がるとき、手すりを使わなかった。使わないで立てるのは、今日が最後かもしれないからだ。
「逃げよう」
優が手を差し出す。彼女はその手を握る。握るだけで、皮膚の下の震えが伝わる。震えは怖さではなく、命が細かく動いている証拠だ。
*
夕暮れの町は、色が少し戻っていた。紙灯籠の煤がまだ電柱の根元に残り、輪投げの輪が一つだけ屋根のひさしからぶら下がっている。風は弱い。弱い風が、店のシャッターの隙間にささやき声を残す。人の歩く音が、石畳の上でやさしく跳ねた。
半壊したアパートの三階。階段は片方が崩れているが、もう片方は生きている。踊り場に置かれた観葉植物が干からびて、枝が骨みたいになっている。鍵はない。ドアは、ゆっくり押すと開いた。中の空気は、何日か前の夕方の匂いがまだ残っている。誰かが出ていって、そのまま時間だけが入り込んだ部屋。
「ただいま」
美凪が小さな声で言った。ここに住んだことはない。でも、言いたかった。言いたい言葉は、言っておく。
「おじゃまします」
優も言った。二人の声が重なって、部屋が少しだけ明るくなる。
布団は、押し入れから引っぱり出す。シーツは洗濯できないから、太陽に当てたことにして手でパンパンと叩く。叩くたび、埃が光に変わる。鍋は底が少し焦げている。焦げは落ちない。落ちないけど、落とそうとする行為だけで、台所の匂いが良くなる。ガスは細い。細いけれど、火はつく。青い火が指のすぐそばで震える。
壊れたテレビは、電源を入れると、砂嵐が画面を埋めた。白と黒が喧嘩しながら交互に殴り合っているみたいな、あの鮮やかな無音。音量を一つだけ上げると、さーーという優しい雨の音になった。雨は必要だ。降らない日が続いたから、音だけでも降らせる。
「テレビ、直す?」
「直さない」
「どうして」
「直すと、誰かの声が入ってくるから。今日はさーーでいい」
美凪は笑って頷いた。頷くたびに、髪の白い束が小さく揺れる。彼女は窓の鍵を外し、二人で窓を押し上げた。外の空気が、部屋の床を撫でるみたいに入ってくる。風は薄い。薄いのに、匂いがある。潮と、遠い電気のにおいと、焼けた砂の粉みたいな匂い。
「この風、借りるね」
美凪が言った。借りる、という言い方が気に入っている。返すことも、最初から考えている言い方だから。
「延滞したらどうする」
「延滞料は、笑い一回」
「たけえな」
「高いのが世の流れ」
二人で笑って、台所に並んだ。鍋に水を張り、米を入れる。火を細くつけて、しゃもじでゆっくりかき回す。やがて、鍋の縁に白い泡が寄って、ぱちぱちと小さく弾ける。音が、味のかわりになる。音が、安心のかわりにもなる。
「塩、少しだけ」
「うん」
「卵は?」
「二つ。贅沢」
「今日は贅沢の日」
優が笑って卵を割る。殻の端にひびが入って、白身がすべり落ちる。黄身は小さな星だ。鍋の中の海に二つ星が浮かび、ゆっくり崩れていく。崩れた黄身が、米の白にやさしく混ざる。
「音、いい」
美凪が目を細めた。耳が、口の代わりに働く。味覚の半分は戻らないかもしれない。戻らないほうを、別の感覚で埋める。昨日から始めた新しいルールだ。
食べる前に、彼女はノートを取り出した。病院から持ってきた「世界の呼吸記録」。表紙の角は少し丸くなり、紙は指の温度を覚えたのか、開くときの音がやわらかい。
——今日の風:夕方、薄い。海:遠い匂い。
——音:テレビのさー。鍋のぱちぱち。
——光:部屋の隅に埃の星。
——息:短くても、笑いで延長可。
余白に、加瀬の字はない。今日は、彼女が見ていない場所で書いた。見ていないから、少しだけ、字が大胆になった。
「条件、俺にも言わせて」
食卓に二人で座って、鍋をはさんで向かい合う。優は箸を置き、顔を上げた。
「なに」
「三つ」
「多い」
「短いから許せ」
美凪は笑って顎で「どうぞ」と示す。優は指を一本立てる。
「一つ。約束を短くする。長い約束は禁止。『また明日』だけ」
「了解」
「二つ。嘘をつかない。ただし、強がりは嘘に含めない」
「了解」
「三つ。泣くのは、どっちでもいい。泣かないのも、どっちでもいい。泣いたほうが勝ちとか、ない」
「了解。優、優しい」
「ずるいんだよ」
「知ってる」
二人は笑って、鍋の粥をすくった。湯気が顔にあたり、睫毛が少し湿る。美凪は一口を口に入れ、しばらく噛まずに、音だけを聞いた。米の粒がほどける音。舌の上で白身が固まる気配。黄身の甘さが、音に遅れて届く。
「甘い」
「まじで?」
「音が甘い。味は……半分」
「半分、上等」
「上等」
箸を置く音が、小さな合図になる。テレビのさーは続く。さーの向こうで、見えない人たちが見えない生活を続けている気がする。見えないのに、気配だけが良い方向に傾いている。加瀬の「確率が上がる」という言葉が、やっと体のほうへ降りてきた。
食べ終えて、壊れたテレビの前に座った。砂嵐の粒が、夜空の星の真似をしている。真似でもいい。真似から本物になる日はある。美凪はボードを膝にのせ、ペンで短い言葉を書く。
「告白、するね」
空気が変わった。窓から入る風が少し冷たくなる。テレビのさーが、少しだけ大きくなる。彼女は不器用な顔で笑って、言葉を選ばずに置いた。
「好き。前から。世界が静かになる前から。静かになってからは、もっと」
優は返事を決めていたのに、喉の奥で言葉が転んだ。転んだ言葉は、笑いに姿を変えて出てしまった。情けない。情けないけれど、笑うしかない。笑って、すぐに言う。
「俺も。前から。体育祭のあと、教室で二人で黒板消してるときから。お前が『明日もやろう』ってチョークで書いたの見て、終わってほしくないって思った」
黒板の「また明日」。あの白い跡は、今も半壊の校舎に残っている。指でなぞった時、粉が指に移った。粉の白は洗っても落ちにくい。落ちないでいい。落ちないものが、ひとつぐらい必要だ。
「条件、もうひとつ」
美凪が指を立てた。いたずらの前置きみたいな顔。
「なに」
「ここにあるものに、ぜんぶ名前をつける」
「え?」
「鍋は『銀河』。テレビは『雨雲』。この窓は『潮見』。この布団は『雲』。名前をつけると、呼びやすい。呼びやすいと、戻ってきやすい」
「いいね」
「一番大事な名前は——」
彼女はそっと、優の手を握った。握る力は弱いのに、指の温度は強かった。
「ここ。『帰り道』」
優は頷いた。返事の代わりに、手の甲に短くキスをする。さっきまでの笑いが、音を立てずに胸の奥に沈む。沈んだ場所で、温度になる。
夜、二人は窓辺で横になった。布団は薄い。薄い布団の下で、床板の節が背中に当たる。星は少ない。見えるのは、電線の向こうにひっかかった薄い白。砂嵐の画面が、部屋の壁を柔らかく照らす。さーという音が、波の代わりに眠りを呼ぶ。
「怖い?」
優が囁く。美凪は少し考えてから、首を横に振る。
「怖い。けど、いまは怖くない」
「わかる」
「ねえ、もしさ、朝が来なくても、夜のままだとしても」
「うん」
「ここで『また明日』って、言っていい?」
「当然」
「じゃあ、練習。……また明日」
「また明日」
言葉が、部屋の空気に溶ける。溶けた言葉は窓から出ていき、町のどこかの風鈴に触れて、小さく鳴った気がした。
眠りに落ちる直前、優は目を開け直した。ベッドの脇——いや、「雲」の脇で、美凪の胸の灯りが、弱く、でも規則的に点滅している。点滅のテンポに、自分の呼吸を合わせる。吸って、吐く。吸って、吐く。さーの音が遠くなる。世界の浅い呼吸が、今夜だけ、ふたりの呼吸に寄ってくる。
*
二日目。朝の光は薄いが、机の角がはっきり見えるくらいには白い。パンケーキを焼く。粉は少し古いが、卵はまだ新しい。油を薄く引いて、弱い火で焼く。ひっくり返す瞬間、フライ返しの先が鉄板を叩いて、軽い音が鳴る。カリ、とジュワの順番を守る。
「音、うまい」
「味は」
「半分。甘さは——音で倍」
台所の壁に、二人の影が並ぶ。かすれた影が少し揺れる。風が入ってきて、窓のカーテンをほんの少し持ち上げる。借りた風に、笑いをひとつ返す。
昼、町へ出る。アーケードの廃墟の奥、壊れかけのクレーンゲームの中で救い上げたクマのぬいぐるみ——あいつの名前は「風太」——を、もう一度迎えに行く。ガラスは割れている。手を伸ばせば取れる。取って、抱える。綿のにおいが、どうしてか海のにおいに混ざっている。
夕方、港で鳥が二羽、電柱の上で距離を測っている。昨日と同じ、いや、昨日より一歩近い。近すぎない距離。遠すぎない距離。二人で並んで座り、飴の袋を開ける。金魚飴はもうない。代わりに、小さな角砂糖を舐める。砂糖が舌の上で溶け、音はしないが、心の奥のどこかで、きゅっと鳴る。
夜、また窓を開ける。風は昨日よりもさらに薄い。薄いのに、確かだ。テレビのさーは、星の数に合わせて音の粒を減らしているように聞こえる。錯覚でもいい。錯覚で救われる夜もある。
「ねえ、優」
「ん」
「もしね、三日が過ぎて、戻らなきゃいけないとき、私が嫌だって言ったら、怒る?」
「怒らない」
「なんで」
「怒る時間がもったいない。嫌だって言えるほど、まだ力があるってことだし」
「ひどい理屈」
「ひどい理屈で勝つ夜がある」
美凪は笑って、ノートに一行書いた。
——今日の風:借りっぱなし。延滞料:笑い二回。支払い済み。
優もペンを取り、ページの端に小さく書く。
——テレビの名前:雨雲。鍋の名前:銀河。窓の名前:潮見。布団の名前:雲。部屋の名前:帰り道。
文字が並ぶたび、部屋が少しずつ本物になっていく。名前をもらったものは、戻ってくる。たとえ人がいなくなっても、呼べば返事をする。
*
三日目の朝。空は灰の層の下で、薄く青い。電線の向こうに、点が一つ、二つ。星かどうかは誰にも断言できない。でも、見えた人にとっては星だ。見えたぶんだけ、それは本物になる。
加瀬からの短いメッセージが端末に届いた。「そろそろ」。たった四文字。四文字のなかに、医者の声と母親の声と、町の全員の声が折り畳まれている。
優は端末を伏せ、深く息を吐いた。窓から入る風が、喉の奥の乾きを撫でる。美凪は床に座り、指先で絵を描いている。床板の木目の上に、小さな風鈴を何個も並べる。描くたび、指先が白くなる。白い粉は床のささくれではなく、チョークの記憶だ。
「帰ろう」
優が言う。美凪は顔を上げ、頷いた。頷き方は、最初の日より少し遅い。遅いのに、強い。
「約束の時間、守ろう」
「守る。……また来よう」
「また来よう」
部屋の物たちに挨拶をする。銀河、ありがとう。雨雲、またね。潮見、鍵かける。雲、たたむ。帰り道、閉じる。閉じるときに生まれる音が、意外にやさしい。
階段を降りる。踊り場で立ち止まり、二人で外の匂いを吸う。潮と、遠い電気と、焼けた砂。加瀬が貸してくれた三日は、長かった。短かった。正確には、濃かった。濃い三日間を、人は長いとか短いとかでは測れない。
観測棟の前で、加瀬が待っていた。白衣の袖口を折り、ポケットには何も入れていない。封筒を持たない手は、少し寂しそうだったが、身軽でもあった。
「おかえり」
彼女は言った。誰に対しての「おかえり」かは、誰にもわからない。たぶん三人ともに向けてだった。
「ただいま」
優と美凪は同時に言った。声が重なる。重なった声の分だけ、観測棟のガラスが光を拾う。光は薄い。薄いけれど、確かだ。
加瀬は小さく頷いて、病棟の奥を指した。短く、確かに。いつもの合図。いつもの手順。いつもの世界。いつもは怖いのに、今日は少しだけ、やさしく見えた。
扉をくぐる直前、風が背中を押した。窓から借りた風が、返す時間を選ばずに追いかけてきたみたいに。美凪は振り返り、笑って言った。
「この風、もうちょっとだけ、借りていく」
返却の約束は、ちゃんと胸の中にしまったまま。三日で覚えた暮らしの重さを、軽くならないように抱えながら、二人はガラスの向こうへ戻っていった。
世界の息はまだ浅い。けれど、浅いままでも、誰かの「また明日」で延長できる。延長できた一秒のために、町はまた拍手する。拍手は長くない。長くないけれど、よく響く。
そして——本稼働の前の静けさのなか、窓の外で風鈴が一度だけ鳴った。誰が鳴らしたのか、もうどうでもよかった。鳴った、という事実だけが、三日の答えになった。
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