第11話「町内葬と夏祭り」

 名前は、順番に読み上げられた。

 役場の広場に並べられた木の台の上で、町長が紙を持つ。風はない。風がないのに、紙は自分で重くなる。読み上げる声は、海辺の朝のラジオみたいに乾いていて、ときどき詰まった。詰まるたび、祭りで使っていた風鈴がひとつ、鳴った。柱に紐で結んだ小さなガラス玉。人の名前が空に上がるたび、ほんの少し湿った音で答える。鳴らそうとして鳴る音ではない。名前のほうが先で、音はあとから追いかける。


 避難艦の事故から三日が過ぎ、町は合同葬を開いた。黒い布が足りなくて、白い布を裏返して使っている。供花は花屋の倉庫から集めた古い造花と、庭に残っていた緑の枝。香の煙は薄く、空にまっすぐ立ったまま、途中で折れずに上へ消える。無風に慣れた煙の行儀はいい。


 優は父と母のあいだに立ち、背中で人の気配を受け止めた。誰かがすすり泣く音。子どもが息を止める気配。名前の順番の前後で、足元の砂利の踏み方が少し違う。朝、観測棟に寄ってからここに来た。ガラス越しに美凪に「行ってくる」と口だけで伝え、ノートに一行、彼女が書くのを見た。


 ——今日の風鈴:人の名前で鳴る。

 ——音:細い。長い。

 ——息:数えにくい。


 加瀬は少し離れた場所で、白衣ではなく黒いワンピースを着ていた。あの人が黒を着るのを、優は初めて見た。彼女はまっすぐ前を見ていたが、視線の焦点は、読み上げられる名前ではなく、その名前のあとにやってくる沈黙のほうにあって、沈黙の長さを測るみたいに小さく頷いていた。


 海斗は制服のまま、列の端に立っていた。肩章の生地は濡れていない。昨日までの濡れが乾いたのだ。乾くと色が変わる。乾いた今でも、海水の匂いは残っているはずだ。彼は腕を組まず、手を前に合わせず、ただ真っ直ぐ下げて立っていた。立っているだけで、かろうじて自分をつないでいる立ち方だった。


 祭壇の端に、小さなテーブルがあって、そこには金魚飴と、紙風船がいくつか置かれていた。誰かが持ってきた。誰も持ってきたと言わない。町の真ん中で人が一緒に黙るとき、誰が持ってきたかは問題にならない。


 名前が区切られるたび、町長は水をひと口飲んだ。声が戻る。戻るたび、またひとつ名前が上がる。人の名前は音に変わって空に溶ける。溶けたあと、残る。残るものは名前でも音でもなく、そこにいたという事実だ。何度も聞いた言葉のように聞こえるけれど、今日だけは本当だった。


 終わってから、人はそれぞれの速さで動いた。速く動く人は、次の仕事を探している。遅く動く人は、いまの仕事を終えないで持ち帰ろうとしている。優は父母と一緒に祭壇へ進み、線香を一本折って火に触れた。火はおとなしい。おとなしい火は、こういうときだけ信用できる。


 「最後の夏祭りを、やる」


 いつの間にか、誰かがそう言った。誰かが言うと、別の誰かが「電気は?」と返し、また別の誰かが「紙灯籠」と言い、また誰かが「屋台は手作り」と続ける。大きな決定は、いくつもの小さな声の寄り集まりで決まる。寄り集まっているあいだに、誰のものでもない決定になる。決定が誰のものでもないほうが、うまくいく日もある。


 夕方、役場の広場が少しずつ祭りに変わっていった。町内会倉庫から取り出した竹の骨組みに、色紙を貼って灯籠を作る。油は少ない。芯はほそい。細い芯の火は弱いが、長持ちする。屋台の台は、学校の机と、港の古いベンチ。焼き物は煙が出るからなし。代わりに紙風船釣り、輪投げ、射的。空気の銃で、的は割り箸に立てたお菓子。的のお菓子は少ないから、一人一回まで。順番を決める札が配られ、札の後ろに小さな列ができた。


 観測棟から許可が下りるのが遅れたけれど、祭りの始まる少し前に、加瀬が短いメモを優に渡した。許可印。条件付き。時間は三十分。範囲は広場だけ。救護員帯同。


 「本当にいいんですか」


 優が問うと、加瀬は短くうなずいた。


 「短く。確かに」


 医者の声で、祭りの合言葉を言った。合言葉は便利だ。誰も逆らわない。逆らったら、誰かの息がひとつ、短くなる。


 日が落ち、紙灯籠に火が入る。弱い火が、弱いまま広場を照らす。明るくはない。けれど、暗くもない。顔を見分けるには十分。頬の塩の跡も、目尻の笑い皺も見える。


 美凪は病衣の上に、薄い浴衣を重ねて現れた。青い朝顔の柄。帯は白。病衣の袖が少し覗く。髪は短く結い、白く焼けた一房は、自然に前髪に混ざっている。遠くから見ると、ただの明るい色のメッシュみたいだ。近くで見ると、焼けた色だとわかる。本人は気にしていないふりをする。ふりが上手いと、ふりのほうが本物になる夜もある。


 「似合う」


 優は手を振り、簡単な言葉で済ませた。長く言うと、どこかで嘘になる。


 「帯、変じゃない?」


 「完璧」


 「言い方が雑」


 「本気だって」


 彼女は笑い、胸の芯子が薄く点滅した。点滅の間隔はいつもより長い。加瀬が少し離れた場所で見守っている。白衣ではなく、黒いカーディガン。ポケットに何かが膨らんでいる。


 射的は、去年の文化祭のときに壊れた台を、優がその場しのぎで直した。木の枠に傾きがあって、右側の的が倒れやすい。倒れやすいほうを先に狙うのはズルかもしれないが、今日くらいズルをしても誰も怒らない。空気銃は古い。ポンプを何度か押して、力をためる。がちゃんと鳴る。


 「一回ずつ」


 優が言うと、美凪はうなずいた。


 「一回で倒せたら、もう一回」


 「交渉上手」


 「祭りは交渉」


 彼女は銃を受け取り、片目をつぶって狙いをつけた。指先はまだ冷たい。冷たいのに、引き金の重さを覚えている。息をいちど止めて、撃つ。綿の玉が、的の一本手前で落ちた。落ちた綿が、灯籠の光を受けて短く光る。倒れない。倒れないほうが、次が楽しい。


 「惜しい」


 「惜しいは、便利な言葉」


 「次、俺」


 優は銃を受け取り、右側の傾いた的を狙う。がちゃん。綿の玉がまっすぐ飛び、割り箸に立てたラムネ菓子をかすめた。菓子が落ちた。落ちるときの音は、小さいのに、周りの笑い声の中で一番よく聞こえた。笑い声のほうが静かになって、音のほうが大きくなる瞬間がある。今日の祭りには、そういう瞬間がたくさん仕込まれていた。


 「やるじゃん」


 「交渉成立」


 「もう一回」


 「どうぞ」


 彼女は二投目を、わざと外した。外すのが上手い。外し方に迷いがない。笑って銃を戻し、景品のラムネを優に押しつける。糖の粒が手の中で転がる。音が鳴らないラムネだが、指先でころころと鳴る。


 加瀬がこちらへ歩いてきた。ポケットから取り出したのは、金魚飴だった。赤い飴が金魚の形をしている。袋の角が少し白くなっている。古い飴だ。新しい飴はもう出回らない。


 「配給のときに見つけた。まだ食べられる」


 そう言って、美凪に手渡す。飴の袋に顔を寄せ、彼女は少し、息を吸った。砂糖の匂いが薄く鼻に入る。薄いのに、鼻の奥のほうに届く。


 「砂糖の味、まだわかる?」


 加瀬が尋ねる。医者の声だが、母親の声でもある。二つの声が交互に混ざる。どちらの声でもないときもある。


 「わかる」


 美凪は頷いた。袋を開け、小さな金魚を舌の上に置く。舌はまだ、半分しか世界を拾えない。拾えないほうの半分は、音で補う。飴が歯に触れて、きゅっと鳴る。鳴った音が、甘さのほうへ少し色をつける。


 「甘い」


 彼女は笑って言った。笑った顔の横で、白く焼けた一房が灯籠の光を拾い、ほんの少し明るく見えた。


 「世界、少し戻ってる」


 今夜の祭りは、町が自分で用意した復習だった。戻ってきたものを確かめるための練習。屋台の列に並ぶ練習。小銭を数える練習。笑う練習。黙る練習。練習の合間に、誰かが「当たり」を引いて、拍手が生まれる。拍手は長くない。長くすると、疲れてしまう。長くない拍手が、何度も起きた。


 海斗は輪投げの係をしていた。輪を投げる子どもに、投げ方を教えるとき、彼は自分の声が大きくなるのを嫌って、わざと早口にした。早口は大きさの代わりに使える。妹はアークの中にいる。いると信じるために、彼は輪投げの輪を拾い続けた。拾うたび、手に残る輪のプラスチックの感触が、世界の硬さに似ていると思った。


 灯籠の火が、ところどころで弱くなる。誰かがそっと油を足し、芯を短く切る。切った芯が小さな黒い粒になって、地面に落ちる。黒い粒は誰にも踏まれない。踏まないように、人は足を置く。灯りの扱い方を、みんなが少しずつ覚えている。


 祭りの終盤、太鼓の代わりに空き缶を叩く音が鳴った。リズムは自由だが、いつかどこかで聞いたような揃い方をする。揃い方は、町の癖だ。揃っていないときにも、揃っていた記憶が背中を押す。


 そのとき、空が一瞬、明るくなった。

 誰かが「花火」と言い、誰かが「違う」と言う前に、視線がいっせいに上を向いた。灰の層の向こうに、薄い白が点いた。白はすぐに消えず、二度、三度、ゆっくり瞬いた。星だった。戻り始めた小さな星。戻り方を忘れた手のひらが、ゆっくり握り方を思い出すみたいな光り方だった。


 歓声が上がった。高い声。低い声。合わない声が合うときの、あの奇跡に似た音。笑い声と泣き声が重なって、同じ音になる。誰かが手を叩き、誰かが両手を空に伸ばす。電線の向こう、港のほうで風鈴が鳴った。誰かが紐を触ったのかもしれない。世界が指で触ったのかもしれない。


 「見える」


 美凪が、息を少し切らしながら言った。胸の芯子が、星のリズムに合わせて灯ったように見えた。見えただけかもしれない。見えただけでも、今夜はいい。彼女の目が星を追い、口の端が上がる。


 「やった」


 優は言って、肩を軽くぶつけた。彼女は笑い、金魚飴をもうひとかじりした。きゅっと鳴る音。鳴った音が甘さを増幅する。


 その瞬間、ふっと、美凪の膝が抜けた。

 彼女の体が、灯籠の光の中で静かに沈む。優は反射で支えようと手を伸ばしたが、手が間に合わない。音が遅れてくる。浴衣の裾が砂の上を擦る小さな音。周りが一拍遅れて静かになり、次の拍でざわめく。


 「美凪!」


 優が呼ぶ。喉の手前で温めてきた名前が、勢いよく出てしまう。出てしまったものは、戻せない。戻せないから、もう一度呼ぶ。二度目の呼び方は少し静かだ。静かに呼ぶほうが、届くことがある。


 胸の芯子が、弱く点滅している。規則的ではない。灯りはまだある。けれど、灯りが自分の居場所を確かめているような点滅だった。背中の星座は消えている。加瀬がすぐに来て、膝をついた。救護員が肩と腰を支える。彼女は脈を取る。取る手は早いが、乱れない。


 「酸素」


 救護員がマスクを差し出し、加瀬が素早く装着する。美凪は浅く息を吸い、吐く。吸う。吐く。浅い。浅いが、ある。あることが、今はすべてだ。


 「スペースを空けて」


 加瀬の声は落ち着いていた。落ち着いた声は、周りの足の置き方を変える。人の輪が自然に広がり、灯籠の光が中心に集まる。中心に集まった光の上で、美凪のまぶたがわずかに震えた。


 「大丈夫」


 彼女は言った。かすれた声。かすれた声のほうが、強いことがある。強く言うと嘘になるときもある。今は、かすれのほうが本当だ。


 「無理は——」


 加瀬が言いかけ、言葉を飲み込む。飲み込んだ言葉は、喉のどこかで溶けて医者の判断になった。判断は短い。


「戻る。短く」



 担架が運ばれ、優はその横で歩いた。浴衣の帯がほどけないように看護師が押さえ、金魚飴の袋を優が握る。袋の角が汗で滑る。滑って落としそうになるのを、何度も持ち直す。落としたら、今夜のいくつかが割れてしまう気がして、指に力を入れた。


 広場の端で、海斗が道をあけた。彼は誰にも何も言わない。敬礼もしない。ただ、顎で方向を示し、群衆の流れを整えた。整えることだけは、彼の体が覚えている。覚えている体が、今夜は役に立つ。


 灯籠の火が風もないのに揺れた。人の足がつくる風だ。揺れの中で、紙の影が地面に細かく踊る。踊る影の上を、担架の足が丁寧に進む。影は踏まれても痛がらない。痛がらない影に、今夜だけ助けられる。


 観測棟の入口で、優は一度だけ立ち止まった。ガラスの向こうが見える。中の灯りは救護用に少し強くなっている。強い灯りが、人の肌の色を薄く見せる。美凪が担架からベッドへ移され、胸の芯子がモニターに接続される。点滅のリズムが画面に現れる。乱れは、さっきより小さい。小さくなっているのに、見る側の心臓は大きく跳ねる。


 加瀬が短い指示を出し、看護師が頷く。頷きの数は少ない。少ない頷きは、内容が明確だという印。澪が廊下の端に立っていた。パーカーのフードをかぶり、顔の半分を影に隠して、目だけで見ている。目は今日、やけに人間だった。


 「星、見えたよ」


 優が言うと、澪はほんの少しだけ頷いた。

 「見えたね」

 それだけ言って、彼女は視線をガラスの向こうへ戻す。戻った先で、美凪の胸が浅く上下する。上下の高さが、さっきより揃ってきた。


 「糖、残り」


 加瀬が手を伸ばした。金魚飴の袋を受け取り、枕元の台に置く。飴の赤が、強い光の下でもやわらがない。彼女は美凪の額の汗を拭き、手を握った。握る力は強くない。強くすると、戻れなくなると知っている力だった。


 「世界、少し戻ってきた。でも、あなたはあなたの速さで」


 加瀬の声が、医者と母親のちょうど真ん中で鳴った。真ん中の声は、夜に長持ちする。


 優はボードを取り、ガラスに向けて書いた。

 ——よく笑え。

 書いてから、指を止める。今は、笑え、ではないかもしれない。そう思って、もう一行足す。

 ——よく休め。

 美凪は目を閉じたまま、口の端だけを小さく上げた。見逃すと損をするくらい小さな上げ方だった。上がった口の端の分だけ、胸の上下がわずかに深くなる。


 広場では、祭りの片付けが始まっていた。灯籠の火が静かに消され、芯が短く切られ、油が瓶に戻される。輪投げの輪が数えられ、足りない輪が探される。射的の台は、もう一度、がたつきを直される。直されながら、またすぐに傾く。傾いても、明日か明後日、また使えるように。


 夜空の星は、さっきより少し増えた。数で言えるほどではない。数で言うと嘘になる。見た人の数だけ、星の数も増える。そういう夜だ。港の風鈴は鳴らない。鳴らないのに、誰もが鳴ったあとみたいに静かだ。


 優は観測室の窓際に腰を下ろし、ガラス越しのベッドを見守った。胸の芯子の点滅が、彼の呼吸とずれて、また重なり、またずれる。ずれるたびに、世界がわずかに揺れる。揺れは、今夜は怖くない。揺れ方を、少し覚えたからだ。


 ポケットから写真の小さなコピーを取り出す。風鈴祭りの夜。浴衣の子どもが二人。金魚飴の屋台の前で、笑っている。写真の金魚飴は、光を返したまま止まっている。今夜の金魚飴は台の上で少し溶けて、袋の角に赤い角砂糖の影を作っていた。


 「また」


 優は小さく言った。呼べば戻る。戻る場所はまた増えた。広場の真ん中、灯籠の下、射的の台の前、観測棟のガラスのこちら側。増えたぶんだけ、息を配る。浅い世界で、分け合う呼吸をまたひとつ、覚えた夜だった。


 外で、誰かが最後の灯籠の火を吹き消した。消す音は小さかった。小さい音が、今夜はいちばん長く続いた。灯りが消えたぶん、星が増えた気がした。気がしただけかもしれない。気がしただけでも、今はいい。


 美凪の胸の灯りは、弱いが、確かだった。確かなものがひとつあれば、あとは明日でもいい。明日、また借りる。借りて、返す。返すときには、少し増やして返す。金魚飴の甘さみたいに、薄くても、ちゃんと残るかたちで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る