人類最後の恋人は、星を救う少女だった
妙原奇天/KITEN Myohara
第1話「終わりの始まり、まだ続く朝」
潮の匂いが、風のない空気に沈んでいた。
海辺の町、灰色の雲が層をなし、ゆっくりと脈を打つように動いている。太陽はあるのに、光は弱く、空のどこにも青がなかった。
優は半壊した校舎の中で、ひとり出席簿を開いた。
ページの端は湿気で波打ち、インクが滲んでいる。黒板の中央には、薄く残ったチョークの跡――「また明日」。
それが誰の字だったか、もう思い出せない。
教室の窓はひび割れ、外では鳥の鳴き声がもう何日も聞こえていない。
潮風も、木々のざわめきも、止まったように静かだった。
「……出席、六人目」
優は空欄に指先を滑らせる。まだ来ない生徒の名。来ないのが当然なのに、癖で数えてしまう。
ドアが軋む音がした。
「優くん、いた」
振り返ると、美凪が弁当箱を二つ抱えて立っていた。制服の袖は泥で汚れ、髪は潮風に貼りついている。
「またここでサボってるの?」
「授業、もうないけどな」
「でも、昼休みはやってもいいでしょ?」
美凪が笑った。その笑顔が、この町でまだ生きている色のひとつだった。
二人は屋上に上がった。階段の途中には倒れた植木鉢と割れたガラス。靴の底が砂を踏むたび、乾いた音が響く。
屋上のフェンス越しに見える海は、灰色で、呼吸を止めたように波がなかった。
「風、止んでるね」
「もうずっとだ。潮の匂いも動かない」
「風ってさ、生き物みたいだと思わない?」
美凪は弁当箱を広げながら言った。唐揚げと卵焼きが二つずつ入っている。
「空気が死ぬなんて、想像できなかったよね」
「“地球呼吸停止症候群”だって」
「変な名前」
「でも、今の地球にぴったりだ」
風が吹かない世界。空気が流れず、熱も腐り、音も閉じこめられる。ニュースでは連日、“無風域”の拡大を伝えていた。
テレビの中のアナウンサーの声も、どこか遠くの亡霊のようだった。
「ねえ優くん」
美凪が唐揚げを差し出す。
「食べて。冷めても、これだけはうちの味だから」
「……うん」
ひと口食べると、舌にしょっぱさと懐かしさが広がる。
「今日もありがとな」
「べつに。優くんが食べないと、わたしが二つ食べちゃうから」
そう言って笑う彼女の頬に、うっすらと煤がついていた。指で拭うと、微かに体温が伝わる。
その温度が、やけに現実的だった。
午後になると、空がまた重く沈んだ。
帰り道、町の通りには人影が少ない。魚屋のシャッターには赤いスプレーで「避難済」と書かれている。
郵便局も、薬局も、みんな同じように閉ざされていた。
「ねえ、明日も屋上行こうよ」
美凪がそう言った。
優は曖昧にうなずく。
「……ああ、行こう」
“また明日”――黒板の文字が頭をよぎる。
夜、港の灯りが一斉に消えた。
停電かと思った瞬間、遠い海の向こうで白い閃光が走る。
耳鳴り。
地面が震え、息が詰まるような熱が胸の奥に走った。
何かが、焼きつくように体の中へ入りこんだ感覚。
気づけば膝をついていた。
夜風はない。代わりに、世界が小さく軋んでいた。
翌朝、政府の車列が町へ入ってきた。
スピーカーの声が響く。
「この区域は実験都市A-17に指定されました。住民は指示に従ってください」
機械的な声。人間の温度が欠けていた。
美凪の家の前に、白い防護服の人たちがいた。
「検査です。中にご家族は?」
優は家の前で立ち止まり、黙って様子を見た。
美凪が玄関を開ける。顔色が悪い。
「優くん……」
声は掠れていた。
「昨日の光、見た?」
「見た」
「わたし……あれから、胸が痛くて」
そう言って、制服の胸ポケットを押さえた。白い布地に、薄く焦げたような跡があった。
その夜、町の外れに検問ができた。
無風域の拡大を防ぐため、外部との接触は禁止された。
風がないから、感染もないはずなのに。
けれど政府の男たちは“実験都市”という言葉を繰り返すだけで、誰も説明しなかった。
学校も、もう明日からは開かない。
教師の誰かが黒板に書いた“また明日”の言葉だけが、まだそこにある。
美凪はあの文字を指でなぞりながら、笑って言った。
「優くん、もし世界が止まっても、風が吹くふりして生きようよ」
「ふり?」
「だって、ほんとの風がなくなっても、心のなかに吹かせられるでしょ?」
その言葉は、冗談みたいに軽く、でも胸の奥に重く残った。
夜更け、港へ行った。
海は真っ黒で、波が一つも動かない。
遠くの水面に、白い泡が浮いては消えていく。
その中心に、光があった。昨日と同じ、白い閃光。
今度は海の底から。
優は走った。
何かが呼んでいる気がした。
港の桟橋までたどり着くと、海面がぼこりと膨らんだ。
耳鳴り。息苦しさ。
そして——声。
「ユウ」
聞き間違いようがない。
それは美凪の声だった。
白い光が爆ぜる。
世界の輪郭が歪む。
次に目を開けたとき、港は静かだった。
空は変わらず灰色。風は吹かない。
だが、海の上に小さな白い影が漂っていた。
——人の形。
髪が風もないのに揺れている。
美凪だった。
裸足で、白い光を纏って、こちらを見ていた。
「美凪……?」
声を出そうとした瞬間、彼女は微笑んだ。
その笑顔は昨日と同じなのに、瞳の奥は人のそれではなかった。
波のない海の上で、彼女だけが呼吸していた。
そして、まるで風の代わりに、世界が彼女に合わせて動いた。
優はその場に立ち尽くした。
胸の奥が、また熱くなる。
昨夜と同じ、焼けるような痛み。
自分の心臓が、どこか別のものに変わっていく感覚。
世界はまだ終わっていない。
けれど、“終わりの始まり”は、もう始まっていた。
そしてその中心に、美凪がいた。
灰色の空の下、彼女の白い姿だけがまぶしかった。
風は吹かないのに、確かに、何かが動いていた。
——続く朝の中で、優は知る。
この町も、自分も、もう昨日には戻れないということを。
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