第2話「封鎖区画の恋人たち」

 町が、区切られた。

 道路の要所にバリケードが立ち、白いテープが斜めに渡される。ポールの先で赤いランプが回って、誰もいない朝の通りに無駄な明滅を落としていた。

 アナウンスは昨日よりも近い。スピーカーの声が家の壁を震わせ、眠っていた食器をかすかに鳴らす。


 「Aブロック住民は九時より学校体育館に集合。健康診断を行います。繰り返します——」


 学校の体育館は、たしかに集合場所になった。床のニスは剥がれ、半分崩れたバスケットゴールの影が歪んでいる。端に折りたたみ机が並び、白衣の人たちが黙々と準備していた。

 優は列に並び、腕に紙の番号札を巻かれた。番号はA-17-012。皮膚にテープが貼りつく。汗ばむほどの熱気がないのに、息苦しさが喉に溜まっていく。


 「はい、次」

 白衣の女性が顔を上げた。短く切った髪が淡く光る。胸元の名前札には、加瀬とある。目元の印象が強い人だった。見つめられると、余計なことまで話してしまいそうな、まっすぐな目。

 「高槻優くん。体調は?」

 「大丈夫です」

 「発熱、咳、めまい、耳鳴り」

 「……耳鳴りは、少し」

 「頻度と時間」

 「昨日の夜から、ときどき」

 「わかった。血圧と採血。緊張しなくていいからね」

 機械的な口調なのに、最後だけやわらかい。ゴムの帯で腕を締められ、冷たいアルコールの匂いがした。針が入る瞬間、視線が勝手に逸れた。向こうのカーテンの隙間で、美凪の影が揺れる。

 「顔色、悪くないね」

 「寝不足です」

 「無風のせいで、皆そう言う」

 加瀬は淡々とメモをとる。聞き取りの早さに無駄がない。医者の仕事が身体の芯までしみ込んでいる感じがした。


 採血室のカーテンが持ち上がり、美凪が出てきた。指先に小さな綿球を押し当て、頬だけ笑ってみせる。

 「針、きらい」

「よくがんばりました」

 加瀬は子どもに言うみたいに、とてもまじめな顔で言った。そのまじめさに、逆に可笑しさがにじむ。

 美凪は優を見つけると、わざと指先をひらひらさせた。

 「これでわたし、大人になった?」

 「それなら俺もさっき通過した」

 「二人で大人だ」

 言葉に、ふと息が温かくなる。体育館の空気が少しだけ軽くなった。


 検査は午前中いっぱい続いた。血圧、採血、胸部の音、視線追従テスト。どれも短いのに、終わりが見えない。

 最後に渡された紙には、区画ごとの外出時間が印字されている。Aブロックの住民は午後四時から六時まで。買い物と水の補給のみ。

 「すぐ戻ること。人が集まっているところに近づかないこと。夜間は完全封鎖です」

 スピーカーの声が繰り返す。誰も質問しない。質問しても、答えは用意されていない。


 体育館を出ると、空が少し白んでいた。雲は低く、薄い布を重ねたみたいに重い。

 「午後、ちょっとだけアーケード行かない?」

 美凪が言う。

 「買い物?」

 「ううん。散歩」

 「外出時間、二時間しかないぞ」

 「だから、散歩」

 彼女はそれ以上説明しない。わかってほしい時の美凪の顔だ。

 優はうなずくしかなかった。


 午後、アーケードは音を失った映画館みたいだった。商店のシャッターは半分下り、残っているガラスには白い紙で「臨時休業」と貼られている。

 天井の蛍光灯はところどころ切れて、昼なのに薄暗い。遠くの方で、何かがゆっくり回っている音がする。飾りのプロペラ、回るための風がないのに、惰性で動いている。

 「ここ、来たことあった?」

 美凪が歩幅を合わせる。

 「子どもの頃」

 「わたしはね、ここで初めて千円を一人で使ったの。ドキドキして、でも何に使ったか覚えてない」

 「それ、ぜんぶお菓子だろ」

 「違うよ。多分、ガチャガチャ」

 笑いながら、空のカプセルを蹴る。カプセルは音もなく転がって、止まった。

 アーケードの奥に、ゲームコーナーの廃墟があった。照明は死んでいたが、壁のポスターはまだ色を残している。笑顔の子どもたちが、時間の外からこちらを見ている。


 壊れたクレーンゲームを見つけたのは、美凪だった。

 「ねえ、見て」

 透明なアクリルの内側に、埃をかぶったクマのぬいぐるみが一体だけ取り残されている。台の角は割れて、コイン投入口の周りは黒く焦げた跡。けれど、クマは不自然にまっすぐこちらを向いていた。

 「かわいそう」

 「どうする」

 「助ける」

 美凪は迷いなく言う。

 「ゲーム機、動かないぞ」

 「知ってる。でも、ここに入ったのは人間でしょ。なら、人間は出せる」

 彼女はガラスの側面に指を滑らせ、鍵穴の位置を確かめる。

 「ピン、ピン」

 軽く叩くと、ひびの入った部分が内側に押し込まれた。驚くほどあっけなかった。

 「器用だな」

 「風がないと、音が遠くまで届かないでしょ。だから、こういうのも静かにできる」

 理屈になっているのかどうかは置いて、彼女は腕を伸ばした。

 アクリルの隙間から手を入れて、クマの耳をつかみ、そっと引き寄せる。クマは軽く、埃のにおいがした。

 「救出成功」

 鼻の黒い糸はほつれているのに、目だけはつやがあった。

 「名前つけよう」

 「名前?」

 「風が戻るまで、ここにいるみたいな顔してたから。風太」

 彼女はクマを抱きしめた。ふわふわの毛が制服に貼りつく。

 「よろしくね、風太」

 美凪は笑い、まっすぐ優を見た。

 「いい?」

 「いいと思う」

 優は、なぜか胸の奥が温かくなるのを感じた。風はないのに、体のどこかで小さな風が回ったようだった。


 外出時間は、気づけば半分を切っていた。

 帰り道、配給所の前に短い列ができている。透明なタンクから水を汲む音が、街路の壁に反響していた。

 配給係の青年は無言で二リットルのペットボトルを手渡し、ハンコを押す。赤いインクが紙の上で滲み、乾かない。

 「夜間は停電の可能性が高いです。食事は早めに」

 青年は目を合わさずに言った。

 「お疲れさまです」

 美凪が小さく頭を下げる。青年は、その声にだけ反応して顔を上げた。何か言いかけて、やめた。


 夕方、家に戻ると、空はさらに重く低くなっていた。鳥はやはり一羽もいない。

 美凪の家の電気はまだ動いている。二階の部屋で、布団を二枚並べた。

 停電の知らせが回ってきたから、ランタンに電池を入れる。白い光が部屋の隅に寄る。

 ラジオをつけると、ノイズに混じって知らない局の声がかすかに聞こえた。受信状態のメーターは動かないのに、音だけが遠くから届く。

 「聞こえる?」

 「うん。誰かの息みたい」

 「“実験都市A-17、当該エリアの観測は継続。対象例の……Λ-線……共鳴域”」

 単語が途切れ、雑音が割り込む。

 「Λって、ギリシャ文字?」

「わかんない」

 「授業があれば、明日の板書にされてたかも」

 「黒板、もうないけどな」

 沈黙が落ちる。けれど重たくはない。

 美凪が布団に潜って、くまのぬいぐるみを胸に置いた。

 「優、世界が終わっても、明日の宿題は出るのかな」

 「出ないといいな」

 「だよね」

 笑う声は、とても小さかった。笑い慣れているはずの顔が、どこかぎこちない。

 そのぎこちなさを、優は見逃さなかった。


 「胸、まだ痛い?」

 「少し。朝よりは平気」

 「光のせいか」

 「かもね。変な感じする。心臓が自分じゃないみたいに速い時があるし、逆に止まってるみたいに静かな時もある」

 「医者に言った?」

 「言ってない。だって検査、いっぱいしたし」

 「でも」

 「大丈夫。ほら」

 彼女は自分の胸ポケットを指でとんとんと叩いた。昨夜の焦げ跡が、小さく残っている。

 「これ、ラッキーマークってことにしよう」

 「そんなマーク嫌だ」

 「じゃあ、秘密の合図」

 美凪は天井を見た。天井のしみが、地図みたいに広がっている。

 「風太にも、合図」

 クマをそっと押す。

 「ねえ、優」

 「ん」

 「わたしたち、恋人、だよね」

 言葉が、静かな水面に落ちるように耳に入った。

 「たぶん」

 「たぶん?」

 「いや、その、うん」

 「はっきりしなさい」

 美凪の声は笑っていた。けれど、すぐにうつむく。

 「封鎖されちゃったから。確認するだけ」

 優は手を伸ばした。手のひらと手のひらが、そっと触れる。体温が、信号みたいに確かだ。

 そのとき——玄関の方で、硬い音が鳴った。

 最初は風の音かと思った。しかし風は吹かない。

 次の瞬間、ドアベルが鳴る。間を置かずに、重く低いノック。


 「美凪さん。実験都市管理局です。ご同行願えますか」


 ラジオのノイズが急に大きくなった。声が上書きされるみたいに、玄関の向こうから別の声が重なる。

 「指名被験者への通知。拒否権はありません」

 優は反射的に立ち上がる。心臓が一段強く打つ。

 美凪は布団の上で体を固くした。クマをぎゅっと抱き、目だけで優を見る。

 「大丈夫」

 とても小さい声で言う。

 優はうなずいたつもりだった。喉が乾いて、うまく動かない。


 階段を降りる靴音が、二人のものだけにならない。外にいる人たちの気配が見えるようだった。多分三人か四人。誰かが何かを確認する機械の音。

 ドアスコープ越しに、光が走る。細い線が十字に広がって、ドアの内側の錠に絡む。

 「ちょっと、待ってください」

 優は扉に向かって声を出した。自分の声が思ったより若いことに、そのとき初めて気づく。

 「待機は不要です。安全に配慮し、速やかに開扉します」

 外の声はやわらかいのに、ひとつも曲がらない。

 光の線が強くなり、金属が外側から解けるみたいな鈍い音がした。

 「やめてください」

 優が言うより早く、扉が少しだけ外に引かれ、枠から音を立てて外れた。空気が動かないのに、家の中の空気だけが押し出される。

 美凪の手を、優は握った。

 その指先は冷たい。皮膚の下、かすかな振動が脈を打っていた。心臓の鼓動ではない、機械の震えに似た細かいリズム。

 「高槻優くんも、そこにいるね」

 白衣の影が一歩、段差を超える。加瀬だった。昼間の白衣に、今は簡易の防護ベストを重ねている。目は昼と同じで、正面から真っすぐだった。

 「彼女は今夜、検査を受ける必要がある」

 「どんな検査ですか」

 「安全のための確認」

 「それ、どこで?」

 「ここからそう遠くないところ」

 曖昧な答え。けれど、言葉に嘘の重さは感じない。

 「俺も行きます」

 優はつい口にしていた。

 「必要ない」

 後ろの軍警が言う。制服は黒く、肩に白い紋章。視線は冷たい。

 「必要あります。彼女、体調が」

 「付き添いは一名まで」

 加瀬が遮った。視線だけで軍警を制する。

 「まだルールを決める余地があるうちに、ね。優くん、あなたが付き添うのは構わない。条件は、指示に従うこと」

 「従わなかったら」

 「彼女が困る」

 あまりにも簡単な理屈で、背骨に冷たいものが走る。

 「行こう」

 美凪が言った。声が消え入りそうに細い。

 「怖くない?」

 「怖いよ。だから、一緒に」

 彼女の指の振動は、さっきより強くなっていた。

 「Λ-線応答。やっぱり珍しい」

 加瀬が小さくつぶやき、手元の端末に何かを記録する。

 「何ですか、それ」

 優は聞かずにいられなかった。

「あなたのせいじゃないよ」

 返事になっていなかった。けれど、今の彼女は医者で、言える限界があるのだとわかった。

 靴を履く。紐が少しほつれている。片方だけ緩んでいて、結び直す手が震える。

 「風太は?」

 美凪がぬいぐるみを見た。

 「連れていこう」

 「怒られるかな」

 「怒られたら、俺が持つ」

 クマは何も言わない。けれど、抱えると落ち着いた。彼の目のつやは、やっぱり生きているみたいだった。


 外に出ると、夜の入口が来ていた。

 雲の色がさらに濃く、街灯の光がぼやけて広がる。

 風はないのに、どこかで大きなものが息をしている音がする。耳鳴りに似ていた。

 車両は白い。側面に「管理局」とだけある。余計なマークはない。

 ドアが静かに開く。座席は四つ。前に二人分の影。後部座席の片方に、加瀬が先に座った。

 「乗って」

 美凪が先に滑り込み、優はその隣に座る。クマを膝に置き、シートベルトを締める。軍警の一人が向かいに座って、表情ひとつ動かさない。


 車が動き出す。無風の町を滑るように進む。タイヤの音だけが一定で、他のすべての音が遠い。

 窓の外に、閉じたシャッターと、消えかけのネオン。魚屋の「避難済」の赤い文字が、行きに見たときよりも濃く見えた。

 「どこへ行くんですか」

 優が聞くと、運転席から短い返事が返る。

 「観測棟」

 それだけ。

 「観測って、何を?」

 「彼女の中の、風」

 不意に加瀬が言った。冗談のように聞こえる言い方なのに、目は笑わない。

 美凪は窓に額を寄せた。

 「わたしの中に、風なんてある?」

 「あるのかもしれない」

 優はつい言ってしまった。理由はない。でも、彼女の手を握ったときの震えが、風鈴の音の代わりみたいに感じられた。

 美凪は少しだけ笑って、額を窓から離した。

 車は坂を上る。町の端、かつて小さな展望台があった場所だ。電波塔に似た細い塔が新しく立っていて、根元にコンテナがつながっている。臨時の施設。

 ゲートをくぐると、白いライトがいっせいに点いた。まぶしさに目を細める。

 車が止まり、ドアが開く。

 「降りて」

 加瀬の声は変わらない。厳しくもなく、優しくもなく、ただ必要。

 中に入ると、空気が少し冷たい。機械の匂いがした。

 廊下をまっすぐ進む。床のラインが白から青に変わり、行き止まりに丸い部屋。中心に椅子があり、周囲に円形にパネルが並んでいる。病院というより、プラネタリウムに似ていた。

 「ここで何をするんですか」

「光を当てて、反応を見るだけ」

 加瀬は美凪の前に屈んだ。目の高さを合わせる。

 「痛くはしない」

 「“だけ”って言葉、信用できないな」

 美凪が素直に言う。

 「わかる。でも、今は信じてほしい」

 加瀬の声は少し低くなった。

 「あなたの血液に、Λ-線応答があった。さっきの採血でわかったこと。珍しい。珍しすぎて、マニュアルにページがない。だから、今からわたしたちでページを作る」

 「わたしは、本になるの?」

 「違う。それは例え。あなたはあなた」

 言葉が早口になりそうなところで、きちんと止まる。息継ぎの位置を知っている人の話し方。

 「優くん」

 名前を呼ばれて、肩が少し跳ねた。

 「あなたは、ここにいて。彼女が不安になったら手を握ってあげて」

 「それ、していいんですか」

 「してほしい」

 加瀬は小さく笑った。ほんの一瞬、仕事の顔が人間の顔に戻る。

 「準備」

 後ろで軍警が短く言う。スタッフがパネルを触り、光が弱く灯る。

 美凪は椅子に座った。背もたれに体を預け、クマを膝に置く。指先が、その毛並みをそっと撫でる。

 優は横に立って、彼女の手を握った。冷たさは少し和らいで、代わりにあの細かい振動が明確になる。

 「行くよ」

 加瀬の声。

 部屋の天井に点が生まれ、星のように散った。星は白く、ゆっくり脈を打つ。

 脈打つたびに、耳鳴りが重なる。

 美凪の瞳孔が少しひらく。

 「どう?」

 「きれい」

 彼女の声が、どこか遠い。

 光が一段強くなる。

 優の胸の奥で、昨夜の熱がまた走った。焼けるような、けれど痛みではない熱。

 パネルの一つが、警告色に変わる。

 「反応、来た」

 スタッフが言う。

 「ピーク値、上昇」

 別の声。

 「大丈夫?」

 優は美凪の顔をのぞき込む。

 彼女は笑った。泣きそうな笑い方。

 「風が、吹いてる」

 この部屋に風はない。なのに、髪がほんのわずかに揺れた気がした。

 天井の白い星が、彼女の呼吸に合わせて瞬く。

 パネルの数字が踊る。スタッフの声が重なる。

 「Λ域、共鳴。値、前例なし」

 加瀬は口を結び、視線だけで全体を追う。

 優は手を握る力を少し強めた。

 そのとき——美凪の背中が小さく跳ねる。

 「熱い?」

 「ううん。軽い。身体がすごく、軽い」

 彼女の頬に、色が戻ってきている。

 「このままだと、上がる」

 スタッフの緊張が目に見える。

 「上がったらどうなる」

 軍警の低い声。

 「わからない」

 加瀬は即答した。

 「だから止める。段階を下げる。光、二段階落として」

 指示が飛ぶ。光が穏やかに弱まる。

 耳鳴りも、少し遠ざかった。

 「どう?」

 「まだ、風がいる」

 美凪は目を閉じた。

 「でも、静かになった。優の手、あったかい」

 「俺のせいじゃないだろ」

 「せいじゃない。おかげ」

 優は返事ができなかった。喉の奥で、何かがほどける音がした。


 数分が長い。時計がないのに、時間の重さだけがわかる。

 やがて光は完全に消え、天井はただの白に戻った。

 部屋の空気が緩む。

 美凪は深く息をついた。

 「ねむい」

 「少し休ませる」

 加瀬が言い、ブランケットをかける。仕事の手つきが驚くほどやさしい。

 軍警が一歩、近づいた。

 「搬送は」

 「今は不要。ここで経過を見る」

 加瀬がはっきりと言う。

 「指揮権は」

 「医療に関しては、私」

 視線がぶつかる。数秒の静寂。軍警は下がった。

 加瀬は優に向き直る。

 「彼女は、しばらくここで眠る。あなたは椅子で待って」

 「ここに、いていいのか」

 「いて。さっきの手は、効いた」

 効く、という言い方に、優は戸惑いと救いを一緒に感じた。

 「質問、いくつかしていい?」

 「はい」

 「昨夜の光を見たとき、胸が熱くなったと、言っていたね」

 「はい」

 「今も?」

 「さっき、少し」

 「君の血液にも、普通じゃない波形が出ている。彼女ほどじゃないけど」

 「俺も、何かの——」

 「まだ言えない。言いたくないわけじゃなく、まだ知らない」

 言い切る正直さが、逆にこわかった。

 「でも、一つだけ確かに言える。君がそばにいると、彼女の反応が荒れない。これはデータ」

 「俺に、できることがある?」

 「ある。そばにいること。手を握ること。呼ぶこと。名前を」

 名前、という言葉に、優はゆっくりうなずいた。

 加瀬は記録を閉じ、少しだけ柔らかい声を出す。

 「眠っている間、彼女は夢を見るかも。もしうなされたら、肩を叩くんじゃなくて、指をさするように」

 「どうして」

 「理由は、また今度。今は、それでいいから」

 また今度、という未来が、この町に残っているのだと思えるだけで、救いになる。


 部屋の隅の金属椅子に腰を下ろす。冷たさが制服の生地を通して伝わる。

 美凪の顔は静かだった。眠ると、子どものころの面影が強くなる。

 優は、手を離さない。

 指先の細かな振動は、眠りに落ちても消えなかった。

 風のない世界で、彼女の中だけで小さく吹いている風。

 それに合わせて、優の胸の奥でも何かが回っている。


 ラジオが、またノイズを吐いた。

 「……A-17、対象例、安定。共鳴域、低下。介在因子……」

 単語は拾えるのに、意味が形にならない。

 加瀬が控えめな音でページをめくる。軍警は壁の時計のない場所を眺めている。

 誰も、息を殺し過ぎないように、等速で呼吸していた。


 やがて、天井の灯りが一段落ちた。夜が完全に来たのだと気づく。

 外の世界は封鎖され、通りは静かで、海は波を忘れ、空は灰のまま。

 でも、この小さな部屋の真ん中に、二人分の体温がある。

 優はそのことだけを確かめるように、美凪の名前を、声にならない声で呼んだ。


 美凪。

 美凪。


 返事はない。眠っている。

 それでも、指先の風は、わずかに強くなった気がした。

 優は目を閉じ、同じリズムで息をした。

 ——扉の外には、まだ何人もの気配がある。管理、観測、記録。

 この町はもう、一枚のページでは足りないのだろう。

 けれど、ページが増えるたび、そこに書かれる字が、彼女の笑顔を追い越さないでほしいと願う。


 眠りに落ちる直前、優はふいに気づいた。

 自分の耳鳴りの奥に、ほんの少しだけ、潮騒に似た音が混じっている。

 風がないのに、海が笑っているような、小さな音。

 それは多分、彼女の中で起きた何かと、優の中に芽を出した何かが、こっそり握手している音だった。


 世界は終わりに向かっているはずなのに、こんなふうに、ひとつだけ始まるものがある。

 封鎖区画の夜に、恋人たちは、すこしだけ眠った。

 明日が来る保証はなくても、朝は、来る。

 誰かがアナウンスを流し、誰かが紙に印を押し、誰かが新しいページを開く。

 その真ん中に、彼女の名前を書けますように、と優は願った。

 手のひらの振動は、願いに合わせて、とても静かに脈を打ち続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る