第一章 四月 第六話 届かぬ青

 初七日も過ぎて、日常が戻ってきたある日、水咲が午後から学校に行こうとすると、アパートの外に黒い車が一台止まっていた。


 運転席側のドアに、黒いスーツの人物が一人立っている。

 その人は水咲の姿を見ると、帽子を脱いで深々とお辞儀をした。

 それを見て、水咲はようやく思い出した、あれが三堂家の車だと。


 車はアパートへの出入りを阻むように停まっている。

 水咲はその強引さに負けた。いや、負けたというより、抵抗する事の方に無意味さを覚えたのだ。


 水咲が乗り込むと、車は静かに動き出した。


 行く先は、学校ではなかった。

 車は水咲の住む郊外からどんどん離れ、中心部へ向かう。

 水咲はただ、無表情に窓の外の景色を見ていた。


 辿り着いたのは、高層ビルだ。

 既に連絡が届いていたのか、スーツ姿の男性が一人、正面で待っていた。

 その人は水咲を招き入れると、エレベーターで最上階まで案内した。


 案内された部屋には、プレートが無く、誰の部屋かは判らなかったが、水咲にはそこで待っているのが誰か判っていた。


 男性はドアをノックし、水咲が来た旨を伝えた。

 そして、ドアを開け、水咲だけを中へ通した。


 水咲の目に飛び込んできたのは、目の前にある革張りの高級応接ソファ。

 足元にはふかふかの高級絨毯が敷かれていた。

 部屋の両脇にも応接ソファと合わせた、落ち着いた色合いのチェストなどの調度品。


 しかし、水咲にはそれらの高級品よりも、一番奥の窓際に立っている崇征が一番高級に見えた。


 このビルの周りには、このビルより高いビルは殆ど無い。

 崇征は青空を背にするように立っている。

 それが狙いだとしたら、あまりに周到だが、効果は十分あるだろう。

 だが水咲には通用しない。


「突然呼んですまない。少し話したい事があったんだ。どうぞ、そこに掛けて」


 崇征はそう言ってソファを指したが、水咲は座らなかった。

 ドアの近くに立ったまま、真直ぐ正面を見ている。

 但し、真直ぐ顔を上げて前を見ているだけで、崇征を見ている訳ではない。


 それを見て、崇征も座らなかった。

「あの日以来だね。その後、どうだろう?何か困った事があれば、言って欲しい」

 崇征は忍耐強く話を続けた。

 しかし、水咲の様子は変わらない。


 それでも聞いているはずだ。


 崇征はそう信じて本題に入った。

「実は、僕が所有している速水さんの絵があるんだ。君が見たことのないものだよ。君も見たいだろう?」


 水咲は何も答えない。

 表情も変わらない。


 崇征は言葉が吸い込まれてゆく、壁に向かって話しているような虚しさを覚えた。


「やはり、娘である君の元にあるべきものだと思うから、僕は君に譲りたいと思っている」


 それを聞いてほんの僅かでも水咲の様子は変わっただろうか。

 変わったと思いたかったが、崇征には判断しかねた。


 駆け引き相手の心境が読めないなどという事は、崇征には今までに一度もなかった。


「しかし、そこに一つ条件をつけたい」

 内心の焦燥を感じながら、それでも崇征はそれを悟られないよう冷静に続けた。


「絵を描いて欲しい」

 崇征は水咲の様子を細かく観察しながら続けた。

「これから一年間君を雇いたい、そして僕のために君に速水さんを超える絵を描いて欲しい」


 何を言っても、水咲は崇征を見ない。

 きりりと結ばれた口の端が印象的だった。

 意志が強そうでもあり、何かに耐えているようでもある。


 水咲の目に、ふと、極僅かな翳りが生じたように感じた。崇征はそれを見逃さず続けた。


「なぜ、僕が君を一年間だけ雇いたいのかというと——」


 その瞬間、水咲は初めて口を開いた。


 崇征の言葉を遮るように、たった一言、

「お断りします」

と言い、重ねて

「絵は二度と描きません」

と続けた。


 その言葉でこの場を打ち切るようにきっぱりと。


 そして崇征に背を向けた。


 その言葉の強さに崇征は一瞬圧倒されかけたが、すぐに持ち直し、なお強気にその背中に声を掛けた。

「悪いが、君のことはよく知ってる」

 その言葉を聞いて水咲は足を止めた。

「生後間もなく母を亡くし父と二人暮らし。画家である父の影響で幼い頃から絵を描き、才能もあった。」

 小中学と、水咲がどんな賞を取ってきたのか崇征は語った。


「中学二年を最後に描いてないね」

 水咲は背を向けたまま動かない。

「でも、絵が嫌いになった訳ではないだろう?」


 水咲は振り返ることもなく、なお変わらない調子で、

「絵は二度と描きません」

と、もう一度その言葉を繰り返した。


 水咲はそのまま部屋を出ていってしまった。

 崇征は、一人残された後、閉じたドアを呆然と眺めるしかなかった。


 そして、出てゆく刹那に見せた水咲の表情を思い出すと、何とも言えない後味の悪さを感じていた。

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