第一章 四月 第五話 来るはずのない弔問者
アトリエの展示室で親族だけのお通夜が行なわれた。
『親族だけ』といっても、もともと親族などいない。
少なくとも水咲は父親以外の肉親に会ったことがない。
水咲にとって、会ったことのないものは、存在しないに等しい。
事実、通夜を行っていた間、アトリエにいるのは水咲と崇征だけだった。
一通りのことが終わった今も、水咲は奥の遺影の前で目を伏せたままじっと座っている。
その時、来るはずのない弔問者が訪れた。
人が入ったその気配に、崇征は入り口の方を見た。
そして、思わず息を飲んだ。
そこには、喪服の女性が立っていた。
頭にはつばの大きな黒い帽子を目深に被り、さらに濃い色の黒いベールで顔を覆っているのでその顔はわからない。
彼女は言葉もなく崇征の受付を通り過ぎ、真直ぐ奥に進む。
崇征は思わず立ち上がったが、何も言わず彼女を見送った。
彼女はそのまま遺影の前に座り、黙って手を合わせた。
遺影のすぐ脇にいた水咲は自然、目の前で彼女を見ることになった。
顔は見えないが、顔の前で合わされた手は小さく震えていた。
その左手の薬指には指輪。
光っているのはダイヤモンド。
——既婚者だ。
水咲は立ち居振る舞いや身なりから、彼女を『資産家の奥様』と直感した。
そんな人が、顔を隠して貧乏画家の通夜、それも『親族のみ』の通夜に訪れるなんて、ただならぬ事情があるに違いない。
「不倫」という言葉が浮かんだが、水咲はすぐに打ち消した。
本来なら彼女に水明との仲を訊ねてもいいところだが、水咲は何も言わず黙って彼女の動きを見詰めていた。
水咲にしてみれば、水明の人間関係はもう『関係ない』はずだった。
水咲の知らないところで、父の交際範囲は恐ろしく広がっている。
もう慣れたはずなのに、水咲は死んでもなお父に突き放されている気がした。
水咲らしくもなく感傷的な気持ちになった。
そんな時、一瞬だが水咲の注意が彼女から反れた。
その時、彼女は水咲のことも濃いベールの向こうから見詰めていたのだが、水咲はその視線に気付かない。
彼女は数分間手を合わせていただろうか、突然、ベールの下にあった手首にキラリと光が落ちた。
その正体がわかると、誰も気付かない程僅かに、水咲は息を飲んだ。
——涙、だ。
それをきっかけに、彼女はふわりと立ち上がるとアトリエを出ていった。
彼女が再度、振り返ることはなかった。
水咲は、彼女の完璧に感情を抑え込んだきれいな立ち居振る舞いが強く印象に残った。
後ろ姿に動揺は見えない。
鮮やかですらある。
その人のインパクトがあまりにも強く、水咲はその仕草の一つ一つが目に焼き付いて離れなくなった。
——彼女は誰だったのだろう?
水咲の知らない水明を知る人であるのは確かだ。
父を横取りされたような気がしないでもない。
しかし、水咲はなぜか彼女を憎めなかった。
翌日は告別式。
昨日の通夜とは全く違い、アトリエ内が白黒の幕や花輪等で飾り付けられてゆく。
お焼香の香りが立ち込める。
無名な画家の告別式とは思えないほど立派だった。
全て崇征の指示通りだ。
水咲の僅かな思い出の中にあるアトリエが、無関係な別のものに作り替えられてゆく様を、水咲は乾いた目で眺めていた。
告別式が始まっても、水咲は少しも泣かない。
参列者は意外に多く、中には大学教授や、画家として名の売れた人物もいた。
誰が挨拶をしても水咲の様子は変わらない。
水咲は乾いた目のまま、喪主として丁寧に挨拶した。
告別式の間も、一度も涙を見せることなく、目を伏せたまま終始喪主の席に端座していた。
たった一人の肉親の死に言葉も涙もないその姿は、参列者たちから見れば異様だっただろう。
ある人は気丈だと言い、またある人は冷たいと言った。
もっとも、後者の方が圧倒的に多かったのだが。
崇征にはその目が何も映していない様に思えた。
ガラス玉のように生気の無い黒目。
不気味なほどに青く澄んだ白目。
崇征は受付で黙ったまま、喪主席の水咲を見ていた。
水咲は先程と変わらない様子で座っている。
背筋がぴんと伸びてきれいな姿勢をしている。
整い過ぎている感じもするので、人形のようだといえばそうとも言える。
水咲という娘は、今のところ人間らしい部分を見たことがないことだけは確かだ。
あの桜の木の下で会うまで、崇征は水咲を見たことがなかった。
それなのに、あの桜の木の下に現われた少女が水咲だとすぐに判った。
あそこがアトリエのすぐ近くだからとか、少女が取り乱した様子だったからとかいう理由ではない。
その姿を見た瞬間、それが水咲だという答えが閃いたのだ。
崇征はすぐに声を掛けるつもりだったが、出来なかった。
その理由は水咲の視線。
崇征は家庭の事情で人に見られることには慣れていたのだが、水咲一人に見られているだけで金縛りにあったように体が動かなくなってしまった。
それは見るものの、その本質まで見抜くような真直ぐな視線。
水咲は殆ど人を見ないが、見る時は人を射抜くような目で見る。
そして一度見ればもう二度と見ようとしない。
変な娘だと言う人も多いと思うが、その態度はまるで水咲が人間よりずっと高い次元にいて、人間なんてまるで気に掛けていないようにも思える。
水咲は、自分の心から、人間としての「水咲」を切り離したのだと、崇征には思えた。
人間、水咲は一体どこにいるのだろう。
水咲がそんな目で崇征を見たのは桜の木の下で会った時と、その夜の二度。
どちらもあの一瞬、崇征はあの目に心の底まで全て見透かされたような気持ちになった。
——そういえば……
崇征は考えた。
——速水さんもあれと同じ目をすることがあったな。
記憶を辿ると、それは絵を描いている時だった。
あれは画家の目だ。
——彼女も画家なのか。
画家なら、感受性の強い心もあるのだろうか。
先程から微動だにせず、何物にも反応を示そうとしない水咲。
その心を動かすものとは何なのだろう。
そもそも、そんなものが存在するのだろうか……
展示室の内壁に張られた白黒の幕を見ながら、崇征はここで初めて水明に会った時のことを思い出していた。
その日は訳あって崇征の方から水明を訪ね、ある絵の前で話をした。
あれから一年、あの日、あの壁に掛けられていた絵を今でも覚えている。
壁一面に水辺の絵。
夏らしく涼しげだった。
その中で人物が描かれていたのはただ一つ描かれたあの一枚だけだった。
瞼の裏には水の青と木々の緑と、ただ一つ描かれた人物の白が、眩しく残っていた。
——あの絵はまだあの倉庫の中にあるのだろうか。
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