第28話 支配者の独白
――やはり、外に出ようとするのか。
ノアの透明な視線が、ゆっくりと窓の外へと向けられる。薄いカーテンの隙間から差し込む朝焼けの光が、頬の輪郭をなぞるように滑り落ちていく。
その瞬間、イザナの胸の奥で――軋んだ。
鋼鉄の鎖が、無理やり引き延ばされるような、鈍い痛みを伴う音を立てる。
彼は息をすることさえ忘れていた。
ノアの指先が、カーテンの布地にわずかに触れただけで、世界の均衡が揺らぐ。
光がノアの髪を透かし、闇の中で微かに輝く。その美しさは、イザナにとって赦されざる誘惑だった。
――このままでは、また奪われる。
その確信が、冷たい恐怖として喉を締めつける。
ノアが外を見つめるたび、イザナの中の何かが崩壊に近づいていく。
彼には見えない。ノアがほんの一歩、この部屋の外へ踏み出すだけで、イザナの世界が愛も理性もすべてを巻き込みながら、静かに、音を立てて崩れていくことを。
支配。それは、イザナにとって本質ではなかった。狂気の影を帯びた管理欲は、外から見る者には切れ味鋭い刃そのものに映っただろう。
だがその本体は、ただひとつの感情の裏返しに過ぎなかった。
手放したくない、失いたくない。
世界の隅々まで浸透させるほどの熱量をもって守ろうとするのは、他でもない、ノアという光。
狂気は愛に化け、愛は執着に変わる。
その境界線が、彼の胸の奥で絶えず揺れ、凍てついた理性の薄氷を削りながら、ひそかに震えている。
支配の刃の先にあるのは、勝利でも秩序でもなく、ただ、触れれば消えそうな小さな存在を抱きとめて離さないという、歪んだ決意だけだった。
それが狂気ならば、彼は甘んじてその狂気に身を沈める。悲哀が混じる静かな夜に、唯一確かなのは、ノアの光を失いたくないという衝動――すべてを破壊してでも守り抜く、彼だけの禁断の誓いだった。
あの白い指を、あの穏やかな声を、再び誰かの手に奪われるくらいなら、世界ごと焼き尽くす方がまだましだと思っていた。
イザナにとって、それは激情ではなく最終手段の論理。ノアという一点の光を護るために、世界を自らの支配下に置くことこそが、残された唯一の防御策に他ならなかった。
燃え盛る闇の中でさえ、イザナは冷静に計算する。愛を暴力で包み込むその所作は、狂気というよりは執念の戦略だった。
だからこそ、彼はひとつの真実に固く縛られている。ノアを守るためなら、世界を敵に回す覚悟さえいとわない。
ノアが微かに口元を緩める。
その刹那、室内の空気までが震えるように、イザナの理性という薄氷が音を立てて砕け散った。制御の鎖が断ち切られ、全身を駆け巡るのは破壊衝動と欲望の洪水。
すべてを壊し尽くしたい、世界を塵に変えてしまいたいという衝動が、神のような掌を握りしめさせる。それでも手を伸ばし、抱き寄せたい、失いたくないという渇望だけは、理性の残骸の中でひときわ鮮やかに光った。
世界を燃やし尽くす炎の中心に、ただひとつ、ノアだけが守るべき光として輝いていた。
イザナにとってノアは、永続的な救いであり、手放せぬ呪いであり、生きる存在理由そのもの。
“愛している”――その、あまりにも強すぎる感情が、自由を許さない、歪んだ鎖の形でしか存在できないことを、彼は誰よりも深く知っていた。
それでもいい。ノアがこの部屋で呼吸し、自分の名前を呼ぶ限り、イザナはまだ、世界に存在を許されている。
狂っているのは自分ではない。イザナはそう信じ込もうとしていた。この手を血で汚してでも守りたいものがあるのなら、それは正気の証だと。
奪おうとしているのは、自分ではない。
世界そのものだ。
あまりに純粋で、あまりに眩しいその光、ノアという存在を、無数の影が渇ききった牙で貪ろうとしている。
偽りの笑顔に隠れた毒、優しさを装う刃、他者の「善意」と呼ばれる
世界の腐敗と
触れようとするすべての手を、見えぬ壁で粉砕し、狂おしいほどに守りたい。その衝動は、理性の縁を削り落とし、肉体と精神を熱狂に変える。
夜の闇と街の光が混ざる世界の片隅で、ノアはひとり、ただその美しい光を放つ。
それを汚すことを許す者は誰もいない。ノアは世界に蹂躙されるべき存在ではない。光そのものなのだ――そして、世界がその光を呑もうとするたび、イザナの心は怒りの蜜で震え、甘く危険な嵐となって渦巻く。
イザナの指が画面の上を静かに滑るたび、端末の中に新たな命令が刻まれていく。
監視システムの制御コード、通信経路の遮断設定、アクセス制限の階層化。
指先から流れ出す数字の羅列は、まるで呪文のようにノアの生活を覆い尽くしていった。
「これでいい」――彼はそう呟く。
ノアが笑う時間、息をする音、眠りに沈む瞬間までも、すべて自分の掌の内で管理される。
その完璧な構築を前に、イザナの胸の奥で、鈍い歓喜と吐き気が同時に湧き上がる。
残酷なのは、行為そのものではない。
それを愛と呼び、正義の名に変換してしまう自分の心の深淵――そこに潜む歪みを、彼は薄々理解していた。
それでも彼は指を止めない。ノアを守るという狂気は、もはや自らの呼吸と溶け合い、血潮のように全身を巡っていた。
最後のコマンドを打ち終えた瞬間、端末の青白い光が頬を撫でる。冷たく、しかしどこか熱を帯びた光。
その微かな揺らぎの中で、イザナの瞳は、静かに、けれど確かに、何かを解きほぐすように揺れた。
――これは檻ではない。救済だ。
そう自らに言い聞かせながら、彼は指を離さなかった。
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