第29話 呼吸のための自由

 イザナは端末からゆっくりと顔を上げた。

 漆黒の瞳は、嵐のような激情を一瞬で氷の理性の奥底へと封じ込めていた。その瞳の奥には、燃え尽きた星の残光のような微かな揺らぎだけが、過去の痕跡として残っている。


 ノアは額に残るイザナの冷たい体温と歪んだ愛情を振り払うように、小さく首を振った。

 皮膚の奥にまで染みついた愛の跡――それはまるで、目には見えない、強烈な刻印のようだった。


「秘書って……」


 彼は口を尖らせ、声にわずかな皮肉を滲ませる。


「あんたの仕事、秘書なしでも回ってるだろ。それに、俺にそんなスキルはない。ただの飾りとして置いておく気?」


 静かに吐き出されたその言葉は、空気を震わせる低い唸りのようだった。

 刃よりも細く、しかし確実にイザナの支配の皮膚を裂いていく。ノアの瞳は凪いでいたが、獣のそれに似た光を宿していた。

 しなやかで、気まぐれで、決して服従を許さない。


 飾りにされること――それは檻に押し込められるのと同じ。ノアはその意味を誰よりも理解していながら、あえて冷たい声で告げた。

 理性を鎧にした威嚇。美しく、そして危険な拒絶だった。


 イザナは無言で端末をベッドサイドテーブルに置き、ノアの方へと身体を向け直した。

 朝焼けの光が薄いカーテンの隙間から銀色の糸となって差し込み、彼の硬質な横顔を半分だけ照らす。光と影の狭間で、イザナの輪郭はまるで二つの人格を抱えた彫像のようだった。


「スキルは不要だ」


 低い声が、張り詰めた空気を切り裂く。


「お前の役割は、秘書業務のサポートじゃない」


 イザナの指がノアの顎を捕らえた。

 冷えた金属のような指先が、皮膚の線を静かに辿る。その軌跡には熱がなく、まるで感情の代わりに支配の意志だけが宿っているかのようだった。ノアの喉元で、呼吸が小さく跳ねる。

 逃げるでも、抗うでもない。ただ、鋭く冷たい風のような指先が肌を撫でていくその感触を、目を逸らさずに受け止めていた。


 イザナの動きは緩やかで、しかし確信に満ちていた――触れることで、自分のものだと刻みつけるように。


「お前の業務は――ただひとつだ、ノア」


「……何さ」


 ノアはあえて挑発的に言い返す。


「俺の傍にいること」


 その一言は、呪いであり、魂への誓約でもあった。ノアの胸が小さく跳ね、呼吸が止まる。


「俺の視界から一歩も出るな。会議室でも、執務室でも、食事の時でも同じだ。お前を外の敵から守るため……そして二度と、俺の腕からお前という光が消えないように監視するために」


 イザナの瞳は、氷の静けさを湛えながら、その奥底に灼けるような熱を潜ませていた。

 その光は、逃げ場を与えぬ捕食者の眼差しでありながら、どこか幼い。獲物を支配しようとする本能と、愛するものを失うことを恐れる幼子の痛み。

 相反するふたつが、同じ闇の奥でせめぎ合っていた。


 その矛盾こそが、イザナという存在の歪な美しさを形づくっていた。


 ノアはゆっくりと目を閉じる。

 その沈黙には、諦めの重みと、静かな理解、そして微かに尖った反骨の火が、密かに混ざり合っていた。


「……わかったよ、イザナ」


 その声は乾いていたが、確かに生きていた。


「専属秘書、引き受ける。でも、条件がある」


 イザナの表情に微かな苛立ちと、興味を覚えた獣のような笑みが交じる。


「言ってみろ」


「業務時間外くらいは、自分の意志で動く。あんたの監視から、少しだけでも離れる時間が必要だ」


 ノアはそう言うと、イザナの顎を掴んでいた指をそっと外した。

 その仕草は拒絶ではなく、あくまで自分の呼吸を取り戻すための、静かな要求。しかしイザナには、それが最も美しい挑発にしか見えなかった。


 外された自分の手を見下ろしながら、イザナはゆっくりと目を細めた。

 その瞳には怒りでも苛立ちでもない、もっと危うい光が宿る。ノアの小さな反抗は、彼の支配欲を逆撫でする毒であり、同時に、崩壊しかけた心を現実に繋ぎ止める唯一の鎖だった。

 触れられない距離が、狂気を煮立たせる。

 その冷たい拒絶すら、美しくて――指先で砕きたくなるほど、愛しかった。


「いいだろう」


 イザナの声は静かで、どこか甘い。


「業務時間外の自由を、お前に与える。ただし――俺のシステムが許容する範囲で、だ。常に通信機を身につけておけ」


 ノアの瞳がわずかに揺れる。

 その瞬間、ふたりの間に新しい、歪んだ契約が成立した。それは自由の皮を被った拘束であり、愛の名を借りた監視。


 ノアはゆっくりと頷く。勝ち取った自由は、息一つぶんほどの狭い空間。

 けれど、それでも彼にとっては生き延びるための酸素だった。


「じゃあ、一時間で準備する。遅刻はしない。秘書は時間を守るからな」


 そう言い残し、ノアはドアノブに手をかける。朝の光が彼の白い首筋をなぞり、そのまま部屋の外へ、自由という名の世界へと溶けていく。


 イザナはその背中を見送りながら、唇の端にゆっくりと笑みを浮かべた。それは満足とも孤独ともつかない、静かな微笑。


 ――専属秘書。あの光はもう、俺の世界から逃れられない。


 部屋の中に残されたのは、朝の光と、イザナの深く、濃い影だけだった。

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