第26話 猫の牙
イザナの強く、窒息しそうなほどの抱擁の中で、ノアはしばらく何も言わなかった。
まるで世界の音がすべて遠ざかっていくようだった。背に回された腕は鉄のように重く、逃げ場を塞いでいるのに、不思議と温度は冷たく、肌の上でひやりと光を落とした。
瞳を閉じると、まぶたの裏に薄い光が差し込む。夜の名残を溶かしながら、夜明けの色がゆっくりと滲んでいく。
ノアはその微かな光を感じながら深く息を吐いた。抵抗でも服従でもない、ただ生存のための呼吸。
──このまま、息が止まるまで抱かれてもおかしくない。
そんな危うい静けさの中で、ノアはほんの一瞬だけ、すべてを諦めたようにまつ毛を伏せた。だがその沈黙の奥では、まだ小さな火がくすぶっている。
まだ、完全には折れていない。
次の瞬間、彼の指先がイザナの冷たい胸元を押し返す。ほんのわずかな力。
けれど、閉じ込められることへの確かな拒絶だった。
「……俺は、閉じ込められて飾られるためにここにいるわけじゃない」
その声は一切の震えを許さなかった。
言葉が空気を割くたび、部屋の温度がわずかに変わる。まるで光そのものがノアの意志に反応して、息を呑んでいるかのようだった。
イザナの肌に触れるノアの手は、冷たさに怯むどころか、逆にその冷気を押し返すように確かだった。
その掌には、逃避ではなく「存在の証明」が宿っていた。誰かに守られるためでも、従うためでもない。自分の足でこの世界に立つという、純粋で頑なな光が、血の奥から脈打っていた。
その瞬間、ノアの姿がほんのわずかに変わって見えた。弱く見えた体の輪郭に、言葉にならない力が宿る。光と影の狭間で、彼はひとりの「意思を持つ者」としてそこに立っていた。
その手の温もりが、イザナの氷の肌に小さな亀裂を刻んでいくようだった。
「外の風を感じたい。光を見たい。……あんたの傍にいることは、それと矛盾しないだろ?」
言い終えたあと、ノアはゆっくりとイザナの目を見た。夜のすべてを閉じ込めたような漆黒の瞳。そこに、ノアの言葉の波紋が静かに広がる。
イザナの腕の力が、ノアの体温に触れるたびに融解するかのように、わずかに緩む。その一瞬の隙を逃さず、ノアは呼吸をするように言葉を続けた。
「俺、猫みたいなもんだから。好きなように動けないと、息ができなくなるんだ」
口調は柔らかい。まるで古い絨毯を撫でるように穏やか。
けれど、その言葉の奥には、自由という名の檻を拒む、野良猫の静かな牙が隠されていた。
イザナは何も言わなかった。時間がこの部屋で再び凍結したように、ただノアを見つめていた。冷たく見えるその瞳の奥で、何か巨大なものが軋んでいる――所有と愛情、支配と赦し。彼の内面の境界線が、ノアの静かな抵抗によって音を立てて崩れそうだった。
「……ノア」
低く名前を呼ぶ声。そこには暴君の怒りも冷酷さもなかった。
ただ、喉の奥で誰かを失うことへの、原初的な恐怖が微かに震えていた。
それでもノアは、決して目を逸らさなかった。
長い沈黙の中、互いの呼吸だけがゆっくりと揺れる。
イザナの漆黒の瞳が夜そのものなら、ノアの瞳はその中に浮かぶ淡い月光のようだった。
脆く見えて、けれど決して消えない。
その透明な光は、イザナの狂気を恐れずに見つめ返す。怒りも嘆きもなく、ただ静かに受け止めながら、その奥で確かに、拒絶の意思が光っていた。呑み込まれることを拒む強さは、声にならずとも空気に滲み、イザナの周囲を包む闇にわずかなひびを入れていく。
ふたりの視線が交わるその刹那、世界は息を止めた。
夜と夜明けの境が曖昧になり、光と闇が静かにせめぎ合う。
それでもノアは、ほんの少し顎を上げ、揺るぎない眼差しでイザナを射抜いていた。まるで、「あなたの世界に囚われても、俺は俺で在り続ける」と告げるように。
夜明けの光がカーテンを透かして、淡い銀色の破片となって差し込む。
その光が、ノアの頬を優しく照らした。まるで外の世界がその小さな勇気を讃えているかのように。
イザナは掴んだノアの腕をほどき、視線を床に落とした。
彼は初めて、ノアの言葉の重みと、自分の孤独な独占がノアを再び失う原因になるかもしれないという恐れに直面していた。
「俺は……お前が檻に閉じ込める度に、それを蹴破ってでも出るよ」
ノアの声は低く、静かでありながら、夜明けの光を集めたような淡い輝きを帯びていた。
その言葉は、イザナの支配に対する、魂の自由の主張だった。
「……それでも、お前の傍にはいたいと思ってる。俺が自分で選んで、ここにいる」
イザナはその言葉に、一瞬だけ漆黒の瞳を細めた。それは静かな怒りとも、理性を削るような苦しい悦びとも判別できない、細やかな感情の波だった。
「矛盾してるだろ。俺の傍にいたいのに、俺に縛られるのは嫌なのか」
「そうだよ」
ノアは迷いなく頷いた。
その静かな肯定が、イザナの支配欲を両断する。
「縛られてまで誰かを想うなんて、俺には似合わない。お前が一番わかってるだろ」
その瞬間、イザナの唇が微かに歪んだ。
笑ったのか、諦めたような苦笑なのか、判別もできないほどの細やかな変化。彼の指先が、ノアの頬を冷たい軌跡でなぞる。氷のような冷たさの中に、触れたものを火傷させそうな熱が潜んでいた。
「……惚れた方が負けだな」
かすれた敗北の囁きが、夜明け前の空気に静かに漏れた。その言葉の裏には、理性を削り、魂を蝕むような甘い痛みが深く滲んでいる。ノアという存在が自分の思い通りにならないほど、イザナはその予測不能な魅力に深く、溺れていく。
ノアはわずかに目を細め、静かに微笑んだ。
その微笑みには、勝利を誇るような傲慢さも、挑発もない。ただ、世界の理不尽さを知った者の静かな諦念と、己の存在を賭けた確かな誇りが宿っていた。
イザナの掌が、もう一度ノアの頬を包み込む。その仕草は、所有のようでいて、失われたものへの痛切な祈りにも似ていた。
窓の外では夜明けが完全に始まり、薄紅の光がカーテンを透かして、ふたりの影を淡く、曖昧に染める。
光が闇を侵食していくたびに、イザナの瞳の奥で、狂気の法則と愛情の渇望がひっそりと軋む。それでも彼は、ノアをこの掌から手放せなかった。そしてノアもまた、その腕を完全には拒まなかった。
――それは、壊すことも救うこともできない、閉鎖された関係。狂気と愛、独占と自由が冷たい鎖で絡み合っている。
それでも、ふたりは夜明けの光の中で、その歪んだ現実を確かに呼吸していた。
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