第25話 現実への渇望

 ノアの胸の奥に微かに残っていた夢の残響は、イザナの冷たい唇と支配的な声によって鎮められていた。

 彼は重い瞼を再び閉じていたが、身体はすでに夜明けの気配を細胞レベルで感じ取っていた。


 窓の向こうで、夜明けの光がゆっくりと息を吹き返していた。薄いカーテンを透かし、凍りついた部屋の闇を、指先でなぞるように静かに侵食していく。

 その淡い光は、まるで世界が差し出す微睡みの誘惑。閉ざされた夜の中にいる者だけが感じ取れる、残酷なほど優しい呼び声だった。


 ノアはシーツをそっと払い、ゆっくりとベッドから起き上がった。

 体は病弱で、魂はいつまでも休んでいたいと訴えているが、組織で与えられた任務や業務は、ノアの生活を成り立たせるための唯一の現実的な繋がりだった。


「……まだ、業務残ってるから」


 彼はほとんど無意識にそう呟き、部屋の扉へと現実への一歩を踏み出すように足を向けた。


 その一瞬だった。

 背後から、氷のように冷たい、深い声が部屋の空気のすべてを凍らせた。


「行くな」


 イザナはベッドの端に腰を下ろしたまま、まるで時間の外に取り残された彫像のように微動だにしなかった。ただ、その唇から零れた一言が、部屋の空気を一瞬で変えた。

 夜明け前の闇――その静寂と凍てつく気配、すべてがその声に凝縮されていた。

 ノアの背筋を、見えない刃のような冷気が這い上がっていく。彼は呼吸を忘れたまま、軋むように首を巡らせてゆっくりとその声の主を振り返った。


 イザナはノアの背中をまっすぐに、獲物を見定めるように見据えていた。

 彼の瞳は、夜明けの光に一切侵されていない、純粋な闇の色をしていた。


「もう何もしなくていい」


 イザナは静かに立ち上がり、ノアへと歩み寄る。その足音は冷たく、そして必然のように確実だった。


「任務も、社会も、お前には不要だ」


「……でも、」


 ノアは言葉に詰まった。

 イザナの存在がすべての言葉を飲み込んでいく。


「お前がすべきことは、俺の傍にいることだけだ」


 イザナの指先が、静かにノアの髪へと触れた。

 冷たいはずのその手が、奇妙に熱を帯びて感じられる。一本一本の髪をなぞるたび、ノアの呼吸が浅く揺れた。

 撫でる動作は穏やかで、まるで壊れものを扱うように優しい。――けれど、その優しさの奥には逃れようのない重さが潜んでいた。


 掌が後頭部から首筋へと滑り、指が喉元のすぐ上に留まる。そこは、生命と自由の境界線。

 撫でるというより、確かめるような、支配の触れ方だった。その手の温度は、まるで目に見えない首輪をかける儀式のようで、ノアの鼓動を静かに縛り上げていく。


 イザナは目を細めた。愛しさと独占の境界が曖昧に滲むその瞳に、ノアは微かに息を呑んだ。

 優しさと恐怖が、同じ指先の中でゆっくりと溶け合っていた。


「ノア。お前は俺が、世界の理を壊してまで、何故ここに取り戻したか忘れたのか?」


 イザナの眼差しは、愛という曖昧な言葉では括れない、狂気的な独占欲に焼かれていた。

 ノアが外の世界と繋がろうとするすべてが、彼にとってはノアを奪い去る可能性を持つ「敵」に他ならない。


「もう、何処にも行かなくていい。お前が欲しがるものはすべて、この部屋で俺が与える。永遠に」


 イザナの腕が、音もなくノアの身体を包み込んだ。その抱擁は、守るためではなく閉じ込めるためのもの。逃げ場など、初めから存在しなかった。


 細い肋骨の隙間にまで入り込むような圧力で、イザナの腕がノアを締め上げる。まるで、自分の胸の奥にノアを沈め、そのまま取り込んでしまおうとするかのように。


 冷たい肌が肌に触れた瞬間、ノアの背筋を電流のような震えが駆け抜けた。イザナの体温は氷のように低い。それなのに、そこに潜む熱は狂気的なほどに熱かった。

 血の流れを止めるような力で抱かれながらも、ノアは声を出せない。

 ただ、呼吸のたびにイザナの鼓動が微かに伝わり、その律動が「逃がさない」と言葉より雄弁に告げていた。


 空気は二人の間で歪み、時間すら呼吸を潜める。それは愛の抱擁ではなく、世界の外でただ二人だけが存在するための冷たく、永遠の檻だった。


「俺の傍から離れるな。二度と、この部屋から出るな」


 その囁きは愛の言葉であると同時に、ノアの自由を永遠に奪う、冷たい鎖の音。

 ノアはイザナの腕の中で身動きが取れず、窓の外の夜明けの光を、既に閉ざされた遠い世界の出来事のように無力に見つめていた。

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