第4章 静寂の檻
第23話 渇望と贖罪
――イザナはふと視線を落とした
指先で冷淡にくゆらせていた煙草が、気づけばほとんど灰となって過去の残骸と化していた。紫煙が細い糸となって冷たい空気の中に溶けて消えていく。灰皿の縁で火を押し消すと、わずかな燐光がぱちりと虚しく弾けた。
静寂。部屋の空気は時計の音さえその存在を潜めさせたかのように張り詰めている。
遠くの風のうねりだけが、この密室がまだ世界とかろうじて繋がっていることを囁いていた。
ゆっくりと、重力に逆らうように立ち上がり、ベッドの方へ歩み寄った。
薄いシーツの下で、ノアは無防備に、安らかな微睡みの中にいた。
その呼吸はかすかで、今にも消えてしまいそうな幽かな吐息は、まるで精巧すぎるガラス細工のように危うい静けさを纏っている。月光が窓の隙間から銀の刃のように滑り込み、ノアの白い頬を淡く、透けるように照らしていた。
その脆弱すぎる美しさは、現実の痛みから切り離された、非現実的で、触れることさえ許されない崇高な芸術のようだった。
十数年。裏切りと血、そして闇に染まった祈りの果てに、ようやく取り戻した存在。
イザナは椅子に腰を下ろすように、その存在の重みを噛みしめるかのように慎重にベッドの端に身を沈めた。軋む音が夜の静寂をわずかに裂いた。
彼は指先でノアの頬をなぞった。
触れた瞬間、肌の冷たさが痛いほど愛おしかった。
「……やっと取り戻した」
かすれた声が夜気に溶けていく。
「もう二度と、誰にも、世界にも渡さない」
その言葉は、神への誓いでも祈りでもなく、世界という名の敵に向けた、絶対的な“所有”の宣告。この掌の中にあるものを、奪う権利など誰にもない。
かつて神の禁忌を喰らってまで得たこの力――世界の理を歪めるほどの代償を払っても、イザナは何ひとつ構わなかった。
ノアの瞼の裏には、いまだ失われた記憶の影が獣のように蠢いている。
夢の中で何を見ているのかは分からない。
ただ、時折その細い指がシーツを掴むように動くたび、イザナの胸の奥が疼いた。
あの日の呪いは、まだ終わっていない。
彼自身の中にも、ノアの中にも、闇は生きている。
それでもいい。
イザナは目を閉じた。闇の底で、かつて神殿で聞いたあの冷たい声が蘇る。
――「奪われたものを奪い返せ」
あの瞬間から、彼の時間は永遠に停止したままだった。
窓の外、夜明け前の空にわずかな、しかし無力な光が静かに滲み始めていた。世界はまた新しい一日を始めようとしている。
だがこの部屋だけは、時が閉じたまま。
イザナにとって、救いとは明日ではない。
ただこの永遠の夜の中で、ノアが息をしていること――それだけが、彼の現実のすべてだった。
そっと、ノアの髪を、まるで最も貴重な宝物のように撫でた。その微かな体温が、確かにここにあるという揺るぎない証拠のようで、イザナはわずかに笑みを浮かべた。
けれどその笑みの奥には、渇望、独占、そして叶わぬ贖罪が深く、区別がつかないほど沈殿している。
「……愛してる、ノア」
その声は孤独な祈りにも似ていた。
まるでこの平穏が、今にも破られる最後の夜であるかのように。
__________
ノアは、光の中にいた。
白い。どこまでも果てしなく白い世界。
それは雪のように柔らかい光が空気そのものに溶け込んで降り注ぎ、空気がまるで祈りの粒で構成されているかのようだった。
――懐かしい、忘れてはならない匂い。
古びた木の香りと、純粋な蝋燭の溶ける、ほのかな甘い匂いが、魂の奥底を優しく撫でるように懐かしさを運んだ。
遠くで厳かな鐘の音が時間という世俗の概念を否定するように、深く、静かに鳴り響いている。それが聖なる教会の調べだと、理屈ではなく、彼の魂が確かに知っていた。
けれど、どこの、いつの、失われた場所なのかは、記憶の霞の向こうで掴めない。
床に差し込む陽光は、色褪せたステンドグラスを通過するたびに祝福の虹色の欠片となり、静かに、優雅に揺れていた。
その神聖な光の端で、誰かの影が水面に映る幻のように静かに、しかし確かな存在感を持って動く。
「……ノア」
声。やさしいのに、底知れない深い悲しみが沈殿していた。その響きに、ノアの胸が理由もなく不思議に痛んだ。
名前を呼ばれるたびに、心臓の奥で何かが軋む。それは、失われた記憶が再構築を求めて発する悲鳴のようだった。
ノアは顔を上げようとする。
けれど、光が強すぎて、その輪郭を捉えられない。その人の形は白い靄に包まれて、指先すら形を結ばない。ただ、確かに微笑んでいた。
――その笑みを、俺は知っている。お前は、
そう思った瞬間、世界の光がわずかに揺らぎ、声が再び降ってきた。
「ノア、神さまはきっと見てるわ。だから……どんなに苦しくても、忘れちゃだめよ」
やさしい声。母の温もりを思い出すような、切ない響き。けれど、その次の言葉だけが思い出せない。記憶の奥で誰かが泣いている。
小さな自分が、必死に何かを掴もうとしている。
胸が締めつけられる。指を伸ばそうとした瞬間――眩しすぎる光が、ノアの視界のすべてを容赦なく飲み込んだ。
ノアは息を吸い込んだ。深い、現実の空気。
目を開けると、そこは慣れ親しんだ、すべてが制御された静まり返った部屋。
月の光が氷のような青白い色を帯びて、冷たく天井を照らし、その傍らには、彫刻のように動かないイザナの影が深く沈んでいた。夢の断片がまだ瞳の奥に、虹色の脆い残響となって微かに揺らめいていて、現実の冷たい空気が皮膚を刺すたびに、その幻影を少しずつ、容赦なく溶かしていくのを感じた。
「……夢、か……」
小さく呟いた声に、ベッドの端にいたイザナがわずかに目を開けた。
その瞳は、一瞬で覚醒の光を宿す。
イザナは何も言わなかった。その静かな動作に感情の波は一切見えず、まるで研ぎ澄まされた刃のように冷たさだ。
彼はノアの華奢な手をそっと、しかし逃がさないように掴んだ。
その手のひらは、夜の冷気をそのまま宿したようにひんやりとしていたが、ノアを包み込むその力には揺るぎない、強い熱が込められていた。それは間違いなく現実の温度であり、同時にイザナの底知れぬ愛おしさが冷たさの奥で燃えている証でもあった。
「大丈夫だ」
低く、静かな声。その言葉の響きが、ノアの魂を夢の淵から強く引き戻した。
ノアは微かに頷く。けれど胸の奥では、あの“白い世界”がまだ微かな息づきを残していた。
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