第22話 狂気の聖餐

 いつからだろう。

 イザナが人間という枠を、内側から静かに、そして完全に踏み外していたのは。


 倫理も愛も、命の境界さえも、彼の中ではただの冷たい「計算式」に冷徹に還元されていく。ノアを取り戻すためだけに続けた研究は、いつしか人の理を越え、世界のタブーを嘲笑う禁忌の領域に深く足を踏み入れていた。



 地下室は腐った薬品の匂いと、まだ生温かい血と臓物の腐敗臭が混ざり合い、重く粘りつく霧のように充満していた。

 息を吸うたび、肺の奥まで鋭く刺さる。壁には、狂気の痕跡として、血で描かれた数式と意味不明の呪文が皮膚のただれのように貼り付き、見る者の視界を侵す。


 床は血と肉片で汚れ、踏み込むたびにべとつく感触が靴底を支配する。

 何重にも重なったシミは、まるで過去の悲鳴や苦痛を記録する記憶の層となり、地下室全体が生き物のように呻き、踏み入った者の理性を喰らう。光の届かぬ暗がりからは、低く抑えられた不穏な響きが断続的に漏れ、空間そのものが禍々しい意思を宿しているかのようだった。


 そのすべてが――現実という名の理を蹂躙し、世界の秩序をねじ曲げながら、イザナ自身の内奥ないおうから生まれる邪神を形作り、己の意志で取り込もうとする、狂気の結晶だった。







 けれど、そんな異常は長くは隠せなかった。


 行方不明になった子ども、夜に聞こえる歪んだ悲鳴、異形の死体。

 人々の噂が黒い影となり重なり、教会を名乗る闇の執行者たちが動いた。



 イザナが実験場へ戻ったときには、すでにすべてが黒い炎で焼かれていた。

 書物も試薬も、血で描いた円も、業火に呑まれ、虚無を嗤う灰となって冷たい空気の中で舞っていた。焦げた匂いの中に立ち尽くしながら、イザナはただ、魂の底で呟く。


「まだ……終わってない」


 逃げるしかなかった。だが、逃げながらも思考は熱狂のまま止まらなかった。

 この世のどこかにまだ方法がある。


 ノアを取り戻せる、最後の術が。


 夜の森を、イザナは血に濡れた理性なき獣のように荒々しく進む。

 肩口には追跡者の刃が深く突き刺さり、息をするたびに鉄の味が喉の奥に滲んだ。

 生きているという感覚すら、もう痛みでしか確認できない。


 そして、追跡者の影を血痕と共に振り切ったその先――月光に白く、死人のように浮かぶ、崩れかけた神殿があった。

 蔦に覆われ、世界の時間にさえ忘れられたような、巨大な墓標。その奥へと這い進むイザナの手が、傷口から滴る血で冷たい石床を赤く、冒涜的に染める。



 ――そして、聞こえた。



 言葉ではない。嗤いとも泣き声ともつかぬ、太古の存在の音が、神殿の奥底から湿った空気と共に滲み出していた。


「……ノア。もしそこにいるなら――待たせたな」


 息が夜の冷気に白く、虚しく滲む。

 イザナの内面には、もはや後戻りも、償いも、赦しも存在しなかった。静寂の中、彼の魂が結論を下す。世界がノアを奪ったのならば、この世界ごと自分の掌で握り潰し、その残滓を喰らってでも、ノアを取り戻す――その静かな決意は、深淵の恐ろしさを帯びていた。



 祭壇の中央には、宇宙の闇を冷たく、すべてを否定するように閉じ込めた黒い石片があった。イザナは血まみれの指でそれに触れた。


 ――脈動。


 空気が裏返り、神殿が軋む。闇が初めて呼吸をした。


「……あぁ、これか」


 イザナの唇が、恍惚とした、歪んだ笑みを浮かべた。理解も理屈も不要。心臓が渇望した。魂が狂気と共に叫んだ。


“喰らえ”――と。


 イザナは深淵の声に迷いなく従い、黒い石片を、まるで砕けやすい骨のように握り潰した。

 裂ける闇が内部から暴れ出し、祭壇の紋様に凍りついた血が禍々しく、鮮烈な赤として染み渡る。世界はその冒涜的な力に息を呑み、空気は重く、風は震え、時間そのものが裂けるかのように凍りついた。

 闇の奥から響く呻きは、あらゆる理性を侵食し、存在そのものをねじ伏せるかのようだった。


「俺が、お前を喰らってやる」


 祭壇の周囲から、無数の影が生まれ、鋭利な刃のようにイザナの全身を容赦なく貫いた。

 骨が悲鳴を上げ、肉が業火に焼かれ、人間の意識が粉々に断ち切られる。


 だが、彼は抵抗しなかった。

 むしろ、歓喜の笑みを浮かべたまま、自ら闇の中心へ、その身を深々と沈めていった。

「奪われたものを奪い返す」――ただその、純粋で狂気じみた欲望のために。


 血が石床に落ち、滴り、紋様を完成させる。

 鉄の匂いが、地獄の門を開く呼び水のように深淵を揺らす。


 そして、世界は反転した。

 イザナは己の魂の奥で、何かと出会い、そして――その力を、傲慢に、自ら喰らい尽くした。

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