第12話 檻の中の獣
イザナの私室から強制的に自分の部屋に戻された瞬間、ノアの皮膚の表面が不快なざわつきを覚えた。静かすぎる。
いつもなら機器の微細な作動音や外の車のノイズがかすかに聞こえるはずなのに、今はまるで音が世界から削ぎ落とされている。
ノアが探るように視線を巡らせると、部屋のレイアウトそのものは変わらない。
だが、天井の角には見慣れない、光を反射しないセンサー。壁面のパネルには、微弱な通電反応。空調の吹き出し口にも新しい金属片が冷たく光った。
――監視。
ノアは無言のまま、端末を起動して信号を解析する。だが、アクセスは数秒で遮断された。
システムの奥には、イザナの署名データが、冷たい痕跡として残っている。
「……やっぱり、そういうことか」
皮肉混じりの呟きが、極度に冷えた空気に音もなく消えた。
ノアはすぐにドアへ歩み寄るが、ロックは完全に切り替えられている。
外部からしか開かない仕様。それは休息室ではなく、まさに捕虜用の隔離室を意味していた。
そこへ通信端末が短く、不穏なリズムで震えた。画面に浮かんだ《BOSS》の文字に、ノアの眉がぴくりと動く。
通話を繋げると、イザナの落ち着いた、しかし侵食するような低音が流れ込んだ。
『無理をしただろう。少し休め』
「……休息のために鍵をかける必要がある?」
ノアの声は氷のように冷たく、感情を排除した計測するような抑揚だった。
一瞬、空気が固まるような沈黙。
それからイザナが、まるで猫を可愛がるように、柔らかい笑いを漏らす。
『お前は、どうしても俺を悪役にしたいらしいな』
「事実を言っているだけ」
『そうか。だがな、ノア――お前は自分がどれほど狙われているか、まだわかっていない』
イザナの声が、優しさと圧力という二つの感情の境界線を巧みにすり抜ける。
『外に出せば、お前を連れ戻そうとする連中が必ず動く。だから、俺が保管しておく。それだけの安全策だ』
「保管、ね。随分と丁寧な言い回しじゃん」
『気に入らないか?』
「檻の中じゃ、風を感じられないからね」
通信越しに、イザナの満足げな笑みが広がるのがわかる。
『……猫は、自由を求めるものだからな。だが、外は獣だらけだ。少し落ち着くまで、ここで爪を研いでいろ』
通信が切れる。ノアはしばらく端末を見つめたまま、微動だにしなかった。
まるで今の会話を自分の中で再構築し、イザナの意図を分析しているように。
――可愛がるように話しながら、逃げ道は一つも残さない。イザナらしい、完璧な支配だ。
ノアは深く息を吐き、視線を壁のセンサーへ向ける。その瞳には諦めの色はなかった。
「……なら、見ていればいい。俺が、どう動くか」
その声には、静かな闘志が宿っていた。
ノアは理性の仮面を外し、剥き出しの獣の顔を覗かせる。
――檻の中でも、獣は牙を失わない。
ノアの内なる戦略は、すでにイザナの支配という名の壁を、内側から崩すことへと切り替わっていた。
数時間、部屋の冷たい床の上を一言も発さずに、規則的なリズムで動き回っている。まるで目に見えないイザナの檻の正確な形を確かめるかのように。
壁の裏配線を鋭い視線で探り、床材の接合部を調べ、空調の吹き出し口の微細な構造まで、すべてをスキャンする。どれも完璧すぎた。
イザナの異常なまでの完璧主義が、設計の隅々まで行き渡っている。彼の設計思想は、常に「逃げる余地を、指先一本分たりとも与えない」ことだ。
ノアは、苦笑すら浮かべなかった。無益な感情は切り捨てる。代わりに、ゆっくりと机に腰を下ろし、残されていた水のグラスを手に取る。氷が一つ、カランと乾いた音を立てた。その小さな音だけが、心臓の鼓動を際立たせる静寂を破る。
「本当に、手放す気がないんだな……」
思わず漏れた呟きに、自分で小さく鼻で笑った。イザナのやり方は常に支配的だ。
けれどその奥にあるのは、理性を超えた“確信”のような、根源的な感情。所有でも、庇護でもない。それは、ノアの存在そのものを飲み込もうとする執着。
天井の監視センサーがわずかに、しかし意図的に点滅した。イザナが見ている。
ノアはそれを明確にわかった上で、わざとゆっくりと目線をその冷たい光へ向けた。
「……イザナ。お前が俺を閉じ込めるなら、俺はその檻ごと壊す」
囁くような声だった。だが、その響きは刃のように鋭かった。
次の瞬間、部屋の照明がわずかに落ちた。
システムがノアの宣戦布告に反応したのか、あるいはイザナが遠隔で反応を返したのか――判断はつかない。ただ、ノアはこの闇を好都合だと受け取った。
すぐにデスク下のメンテナンス用パネルを、特殊なツールで音もなく外す。通常、アクセス権限のない者が触れれば即時警報が鳴るが、ノアは既に拠点の複雑なシステム構造を全て把握している。
イザナに見つかる前に、自分の存在を“薄める”。彼の完璧な支配下で生き残るには、監視の網から姿を消すしかない。
ノアの指先が精密機械のように動き、回路を繋ぎ変える。バチリと小さな火花が散る。
ノアの目は、暗闇の中でも一点の迷いもなかった。その表情には、恐怖よりも、むしろ戦略家の冷たい愉悦が宿っている。
――イザナ、お前の檻は美しい
けれど、俺はその中で飾られるほど従順じゃない。
外の闇が、一瞬、電気的な衝撃のようにわずかに揺れた。遠くで地鳴りのような雷鳴が低く響く。
その瞬間、ノアの唇がほのかに動いた。
「――さて。どっちが支配者か、試してみようか」
光の消えた部屋で、ひとりのスパイが静かに、そして確実に反逆の準備を始めた。
彼の胸の奥で、イザナの執着に対抗する静かな闘志が、雷鳴に呼応するように燃え上がっていた。
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