第11話 壊れた祈り
煙と血の匂いが肌にまとわりつき、冷たく生々しい感覚が指先や肩先まで残ったまま、ノアはイザナに荒々しく腕を掴まれた。
力強く車内へ押し込まれると、重厚な黒塗りの扉が鋭い金属音を立てて閉まる。
その瞬間、外界の夜の喧騒は完全に遮断され、車内は鉄と革の冷たさと、わずかな暖房の匂いが入り混じる、異世界のような空間に変わった。窓越しに見える街灯の光も、スモークガラス越しにはぼんやりと歪み、外の時間と空気はすでにここには届かない。
外ではまだ国家工作員たちの銃声が断続的に響いているはずなのに、この完全に密閉された車内には一音も届かない。
まるで現実そのものがイザナの強大な意志によって切り取られた密室と化しているようだった。
運転手はいない。イザナが自らハンドルを握っている。彼は淡々とギアを入れ、戦闘の痕跡が残る廃墟の街を滑るように抜けていく。
ノアは乱れた呼吸を整えようとしたが、肺の奥まで満ちているのは、火薬の残り香でも恐怖でもなく、イザナの濃密すぎる気配だった。
「……助けてくれたことには、感謝する。でも」
ノアがかろうじて言葉を絞り出すと、その瞬間、イザナの手がハンドルをぐっと切り、車は不意に急制動をかけた。
重力が胸と腹を押し潰すように襲い、シートベルトが鋭く胸郭に食い込む。左肩の傷が軽く痛み、ノアは思わず小さく息を詰めた。
視界には、イザナの冷たい横顔だけが静かに迫ってくる。
「“でも”のあとに続く言葉を、俺が許すと思うか?」
イザナの声は、囁くように低い。
しかしその声音には、抗い難い、山脈のような重圧があった。
「国の犬どもが、俺の所有物を使い潰そうとした。それは、俺の
「領分……?」
「そうだ。ノア。お前は、俺のものだ」
その冷たい断定の言葉が、刃物よりも鋭く響く。ノアは目を伏せ、無意識に拳を強く握った。
「俺は……任務でここにいる。あんたの所有物じゃない」
イザナは小さく、しかし明確に笑った。
その笑みには、氷のような冷たさと、手の届かないものへの悲しみが両方滲んでいた。
「そう強がって言えるうちは、まだいい」
そして、イザナは再び車を発進させる。
車はECLIPSE拠点の秘密の地下区画へと入っていく。
イザナ専用のプライベートルームに連れ込まれたノアは、壁一面の特注ガラス越しに広がる都市の夜景を見つめた。
無数の星のように散らばる人工の光が、かえって外界との断絶を強調し、鉄格子なき牢獄のように感じられる。
イザナはデスクの上にノアから奪った拳銃を冷たく置き、静かにノアへと歩み寄る。
ノアの左肩には、まだ乾ききらない血が滲んでいた。
イザナは言葉少なに手を伸ばし、傷口をそっと押さえて、最低限の処置を施す。包帯を軽く巻き、消毒液の匂いがかすかに漂う。
その所作は無駄がないのに、同時に心許ないほど親密な接触を含んでいた。
ノアは肩に触れられる感覚に、思わず肩を僅かにすくめたが、痛みが和らぐのを感じて息を整える。夜景の光が、赤く染まる傷口と対照的に彼の緊張した顔を淡く照らした。
「この街で、お前を完全に守れるのは俺だけだ。だが、同時に――お前を殺せるのも、俺だけだ」
ノアは一瞬、呼吸を忘れ、息を呑む。だが、すぐに冷静さを取り戻し、イザナを真正面から見返した。
「……それが保護のつもり?」
「違う。これは支配だ」
時計の秒針だけが、チク、チクと、二人の間を切り裂くように進む。
イザナはデスクの端に軽やかに腰をかけ、一転して柔らかな、しかし最も危険な声で続けた。
「国がお前を捨てた。あの連中に葬られるはずだった命を、俺が掬い取った。
お前の価値を決めるのは、あの腐った連中じゃない——俺だ」
ノアの瞳がわずかに揺れる。
理性が最後の抵抗を試みるが、その努力も虚しく、胸の奥で何かが音を立てて崩れる。
「……それで? 俺を飼って好きにしたいの?」
声に挑戦が混じるが、どこか生意気な軽さも残っていた。イザナは静かに笑みを浮かべる。
淡い光を帯びた瞳に、満足と確信が揺れる。
「もうそうなっている。気づいていないのは、お前だけだ」
その瞬間、部屋のメイン照明がふっと落ち、深遠な暗闇が二人を包み込む。
照らし出されたのは、闇の中で輝くイザナの瞳だけ。
それは、静かに、しかし確実に――ノアの世界を侵食していく、支配の光だった。
深遠な暗闇の中、イザナは静かに立ち上がった。彼の足音はほとんど響かない。
まるで床を踏むたびに、闇そのものがわずかに震え、彼の意志に呼応しているかのようだ。イザナは迷うことなく、光を失ったノアの場所へ、まっすぐに歩み寄る。
「なあ、ノア」
その声は、夜明け前の鐘のように低く、静かに揺れた。それは支配の言葉ではなく、深い場所からの問いかけだ。
「お前は、自分の過去をどこまで覚えている?」
ノアは喉の奥で息を詰めた。
何を問われているのか、理屈ではなく、魂が分かってしまったからだ。
「……過去?」
「そうだ。あの教会で、誰に何を言われたか。何を失って、何を願ったのか」
ノアの表情から、一瞬、色が消えた。
頭の奥底に、鋼鉄の扉で閉じ込めたはずの映像が、かすかに、しかし鮮烈に浮かび上がる。
ステンドグラス。鉛色の硝子を抜ける一筋の白光。祈るように手を組む、幼い自分と、その傍らにいた――“誰か”。
イザナの声が、その脆い記憶の縁を優しく、しかし確実になぞるように続く。
「俺はあの日お前に約束した。誰にどうされようと、俺だけがお前を守ると」
「……何を言ってるか、分からない」
ノアは小さく首を振った。だが、その否定は力を欠いていた。
理性では断固として拒絶しているのに、心の奥がズキンと痛む。まるで、真実を指摘された傷口のように。
イザナは、わずかに、しかし哀しく笑った。
その笑みは、優しさと狂気という、二つの感情が溶け合った中間色にあった。
「忘れてもいい。お前が覚えていないなら、それでも構わない。……俺がずっと覚えてるから」
ノアの胸の奥が、ぎゅっと軋んだ。
その言葉は、支配でも脅しでもなく――どうしようもなく、悲しい響きを帯びていた。それは失われた過去への、イザナの壊れた祈りだった。
イザナはゆっくりとノアの眼前にまで歩み寄り、停止する。彼の指先が、ノアの冷たい頬に鳥の羽のようにかすかに触れた。
「お前が俺の前から消えたあの日から、俺の世界は止まったままだ。……だから今度は、二度と逃がさない。お前の記憶ごと、俺の中で永遠に生きていればいい」
ノアの瞳が、激しく揺れる。その感情が恐怖なのか、イザナへの哀れみなのか、彼自身にも判然としなかった。
ただ確かなのは、イザナの極限の執着が単なる所有ではなく、失われた過去という名の自分を取り戻すための、狂気と純粋が溶け合った祈りそのものだということだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます