第8話 カイの正体と逃亡の過去
闇に包まれた静けさが王都に訪れる。まだ子供ながらに王子という名の重荷を背負わされた、カイウス・アーデンが部屋の窓辺に立ち尽くしていた。窓の外では雪が静かに降り注いでいる。ベッドには弟のユリウスが眠っており、穏やかな寝息が聞こえる。かつてはこの寝顔を見ることが僕にとって唯一の救いだった。
前にユリウスがあどけない声で尋ねてきたことがあった。
『兄上は、どうしていつもそんな顔をしているの?』
僕はその問いに答えることができなかった。王宮という檻の中で“自由”も“愛”も与えられずに育った僕は、笑い方さえも忘れてしまったのだ。
欲望と権力が渦巻く王宮で兄弟の立場は分かれた。僕が王位継承者である限りユリウスは予備に過ぎなかった。毎日息をつく暇もないほどの教養や鍛錬の習得、政治や礼法までも叩き込まれた。八歳の子供にとって、その重圧は耐えがたいものだった。
それに反して、弟のユリウスは両親に甘やかされて自由に育った。自分のことを慕ってくれる弟を可愛がっていたが、いつしか構う余裕もなく存在自体が鬱陶しくなっていた。僕の心は闇に閉ざされ感情が消えていた。まるで機械のように命じられたことを繰り返すだけの日々がただ過ぎていった。
だが、つい数分前、僕は思わぬ会話を耳にしてしまったのだ。
ふとした物音で目を覚まし、廊下へ出ると隣から両親の話し声が聞こえてきた。
「あなた、カイウスって本当におかしいわ。あの子ときたら母親のわたくしを見ても笑顔も見せないし、近寄ろうともしないのよ? 感情ってものが欠けているのかしら」
「……それは我も感じておった。国民に対しても関心が薄いようであるな。それに比べ、ユリウスの方がはるかに慈悲深い。先日、我と街に出た際にスラム街の少女を不憫だと涙しておった。そのため少女を保護し、子を望んでいた伯爵家の養子として迎えてもらったのだ。あれこそ、王子として当然備えるべき慈悲の表れであり、あの子が真に優しい子である証拠であろう」
「まあ……やはり、跡継ぎはユリウスにした方がいいんじゃないかしら?」
「うむ、王位継承者はカイウスと定めておったが……この件に関しては状況を見極め、ユリウスの方が適任と判断すれば、その可能性も考慮しよう」
僕は物音を立てないようにそっと部屋に戻った。荒くなった呼吸を整えようとするが、両親の会話が一語一句思い出され、頭の中で耳鳴りのように響く。後継者になるために息が詰まるような生活を強いられてきたのに、この八年間は無意味なものだと突きつけられているようだった。
「お前さえいなければ……」
布団にくるまっているユリウスの前に立ち、六歳の幼い弟の寝顔を憎しみのこもった目で見下ろす。指先がかすかに小さな体に触れた瞬間――
「にいに、いっしょに……あそぼぉ……」
ユリウスの無邪気な寝言に、僕の頬に温かいものが伝った。
いまだに兄弟で寝ているのも、ユリウスが「兄上と寝るときは一緒にいたい!」と駄々をこね続けているからだ。もう……涙なんて出ないと思っていたのに。このままでは、僕は弟に危害を加えてしまうかもしれない。
そんな確信めいた気持ちが頭の中を埋め尽くし、ひとりで決意を固める。
――全てを手放そう。
僕はありったけの服を重ね着し、手元にあったわずかなお金をポケットに押し込むと、前に見つけた抜け道を迷わず駆け抜けた。王宮を振り返ることもなく、ただ真っ直ぐに走り続ける。寒さで朦朧としながらも、心の奥では不思議な高揚感で胸がいっぱいだった。
やがて、大きな庭園に足を踏み入れた。凛として咲く花々は、降り積もる雪にも負けずに美しく立っていた。その真っ赤な花が僕の青い瞳に映ると、胸の奥の高揚感がわずかに柔らぎ安堵のようなものが押し寄せてきた。
もう僕は王子じゃない。これからは自分自身の道を歩くんだ。
その時、目の前に暖かな灯りが差した。
「……大丈夫?」
そう言って手を差し伸べてくれたのがリリアナだった。灯りに揺れる彼女の瞳は漆黒の宝石のように澄んでいて、真っ白な雪がまるで小さな羽のように見えた。
僕は目を逸らすことができなかった。傍にいたいと思った。
この子は、僕の”天使”だ。
この日以来、リリアナの執事カイとして生きることを選んだ。ただ一人の少女のそばにいるために。
彼女の心を削っていく元凶のユリウスとアメリアには、心の底から怒りを覚えていた。だからこそあの夜――彼女が堂々と婚約を破棄し自分の人生を切り開いた瞬間、カイは誰よりも誇らしかった。彼女が自由を手にしたその横で一緒にいられる喜びを噛み締めていた。
粉雪を纏い、月光に輝く一輪の真っ赤な薔薇にそっと微笑みかけた。
「……お嬢様。あなたが選んだ道こそ、わたくしの希望の光です」
婚約破棄してスローライフを目指します! seika @seika1
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