6-6. 後の祭りにこそ
生きるとは呼吸することではない。
行動することだ。
哲学者 ジャン=ジャック・ルソー
初代大統領、マシューの統治が始まって、一週間が経った。その頃には、はじめはケイシーほど憤っていなかった面々も、徐々に熱っぽく語るようになっていた。
「いくらなんでもおかしいよ、労働の成果次第で食事の量が決まるなんてさ」
新品のボールを投げつつ、ジョーが口火を切った。倉庫という倉庫を探し回って、やっと見つけたボールである。おかげでケイシーがシャツを丸めなくても済むようになった。九月第二週の日差しはまだまだ暖かいが、雪の降る冬までに手に入れられて、ケイシーはほっとした。それにしても、誰が何のために仕入れたボールなのか、判然としない。ほとんど新品同然の白球が一ダースほど、加えてバットも何本か発見した。しっかりスポルディングのロゴが刻印された、正規品だ。
「成果ってのもはっきりしねえしな。基準がねえと困るぜ」
ジョーの投げたボールを受け取ったフリンが追随する。グローブだけは見当たらなかったので、作業用の固い皮手袋で代用している。素手で硬球を取るのは、大人になったでは危険すぎるからだ。フリンはマシューへの怒りを込めて、その硬球をクーニーへぶん投げた。
「おっつ、いってえなこら。練習なんだからふわっと投げろ」
「すまんすまん」
クーニーはお手本を見せるように、四十二番へ山なりに送った。
「まあまあ、こうして野球ができるようになっただけで、十分ではありませんか……と、言うべきかもしれませんが」
そこまで言って言葉を切った四十二番は、セットポジションに構えた。左肩越しに見据えるのは、ケイシーである。
「お、おい。本気で投げるなよ」
そんなケイシーの注意は聞こえていないかのようだ。四十二番が挙げた左の腿は、直立した体幹と直角に静止。ボールを握った右手を胸の前から広げていく。そのしなやかな動作に一瞬見とれたケイシーだったが、ハッとして身の危険を感じた。
「おい、待て待て! 思いっ切り投げたら……」
四十二番の投球動作は、途切れることなく流れた。右腕のしなりがうまくためをつくって、ばねの役割を果たす。
「待て! おい!」
その砲台から剛球が放たれ、ケイシーは死を覚悟して身をかがめる。最後までボールから目を離さなかったのが、男ケイシーの生き様だった。
……と、しかし、ケイシーに届いたのはふんわりした山なりの軌道だった。
「おわあっ、え、あ?」
時が止まったかと錯覚するほど低速の球に、ケイシーは腰を抜かしてしまった。尻もちをつきながら、何とかワンバウンドでキャッチする。
「ふふっ、驚いたでしょう」
四十二番はいたずらっぽい笑顔を見せた。
「あ、ああ。何だ今の」
「チェンジアップか! ティム・キーフの!」
四十二番が答える前に、ジョーが嬉々として声を挙げた。ティム・キーフとは、初めてその球を投げた投手の名だ。メトロポリタンズにも所属していたことがある。
「チェンジアップと言うんですね」
「どうやって投げたんだお前」
ケイシーがポイっとボールを投げ渡す。
「こっそり練習していたんです……、こんな風に握って」
「ほう、すごいな」
「あのさ、ちょっとピッチャーやってよ。俺打つからさ」
あの球を見せられれば、ジョーでなくとも打席に立ってみたくなるだろう。ケイシーももちろん交えて、代わる代わるバットを構えて挑戦する。そんな姿に、子供時代のイノセントな風景を思い起こしたのは、至極当然のことだった。
こうして野球の才を伸ばしていた四十二番は、同時に勉学にも励み、単語を読む分にはほとんど困らなくなっていた。
「これじゃあ俺も形無しだな」
四十二番の独房で、彼の先生役を務めていたケイシーがそう漏らしたのは、本心からであった。
「そんなことありませんよ。ケイシーさんを見習わねばならないことが山ほどあります」
四十二番がそう言うのもまた本心であったが、ケイシーにとってはわずかな慰めにしかならなかった。何も持っていないと思っていた自分が、文字を教えるという形で四十二番の役に立つ。これは新鮮な経験で、当面の存在意義になった。だが、野球にしろ文字にしろ、おそらく四十二番は一人でも成長していけるだろう。であれば、
(これから俺は、何を目的にすればいいんだろう)
となるのは必定であった。死刑囚である身の上を客観的に考えれば、生きていられるだけマシなのだ。しかし、下手に自由とか意志というものを獲得してしまった今、やはり己の罪と向き合わねばならないのである。
(このままふらふら野球して、いつか来る執行を待つってのは嫌だ。俺は何人もの人を不幸にしてきた。いや、それ以上だ。そんな俺が未だこうして生かされていることには、自己満足だけじゃない、何か大きな意味があるはずだ。いずれ死ぬにしても、何か、何かしなければ)
「どうかしましたか、ケイシーさん」
思考の沈降から掬い上げたのは、四十二番の呼びかけであった。
「いや、何でもない」
「それなら良いのですが。ところで、これからはこの本を読み進めていきたいなと思っています」
四十二番が大切にしていた、タイトル不明のあの本だ。
「おう、そうか。じゃあ声に出して読んでいくか」
(やれやれ。頭の中で考えこんじまう癖はなかなか直らんな)
ケイシーは気持ちを切り替えるように息を吐いた。
きっとどこかでこの様子を見ているオズ所長は、満足げに頷いていることだろう。
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