4-5. 社会の底で、心の底から

この世界で最も素晴らしいことは、

自立の方法を知ることである。

哲学者 ミシェル・ド・モンテーニュ



 男の名は、ブラウンというらしい。それが苗字か下の名前かすら語らなかった。他に、ケイシーがブラウンについて知ったことは、ほんのわずかである。


 その一つには、ブラウンは勤勉だ、という特徴があった。ケイシーと共に、作業の一環である家具製作に勤しみながら、その真面目さには看守らも驚くほどだった。


「お前、何が楽しくてそんなに精を出してやがる」


 ケイシーが訝しがって問いかけると、


「誠実に働くのが人間の性分ってものだろう」


 と返す。


 人間の性分、といったって、それができないから俺たちは囚人なんだろ、とケイシーは思ったが、口に出してしまうとあのよく分からない哲学の講義が始まりかねないから、止めておいた。


 自分がただただ見本を真似て作った木の籠と、ブラウンが作ったそれとを見比べて感心していると、ケイシーの背中に鞭が飛んできた。


「誰が休めと言った」


「……」


 これが刑務所内の日常である。ケイシーにはまた傷が増えたが、もはや痛みは感じない。こんな看守をぶん殴ってやりたくとも、あいにく足枷が付けられている。働かざるを得ないのだ。


 結局その日、ケイシーは七度鞭を振るわれたのに対し、ブラウンには口頭注意すら与えられなかった。その差も納得ができるほど、ブラウンは熱心に働いたのである。


 日課を一通り終えて、労働の対価として与えられたパンと水を、独房で食す。


「今日はよく働いたなあ」


 ブラウンがのんきに伸びをした。


「黙って食え」


「まあまあ、ケイシー君も頑張ったじゃないか」


「その呼び方は止めろ」


「いいだろう、私の方が年上なんだから」


 四十四歳のケイシーに対して、ブラウンは見たところ五十代前後か。顔に刻まれた年相応の皺が、彼の人生の苦労を物語っている。ケイシーは、そんなブラウンに興味を持ちつつあった。


「なあ、お前はどうやって生きてきたんだ。とても犯罪者には見えないが」


「うーん、知りたいのは分かるが、重大な罪だから話せないんだよ。どうしても。すまんね」


 ブラウンは改めって背筋を伸ばした。やはりその姿勢からしても、律儀な紳士といった風情である。


 いずれにせよこの男は、一度言わないと決めたら揺るぎなかった。


「そうかい。じゃあ、最近の外の様子でも聞かせてくれよ。何しろ十年もここに暮らしてるんでな」


 口を開いても看守と言い合うくらいしかなかったケイシーには、ブラウンは十年ぶりのまともな話し相手だった。なんだか癪だが、徐々にほだされていく自分を認めざるを得なかった。ケイシーの孤独な境遇ももちろん理由の一つだが、ブラウンは人の心を掴むのが上手い。自然と話を聞きたくなってしまう。


「おお、いいだろう。そうだな、今の大統領はウィルソンだ。ウッドロー・ウィルソン」


「それは知ってる。看守らが話してたのを聞いた」


「では、うむ、これはどうだ。クロスワードパズルというのが最近流行っていてな……」


 いつもは拷問のように感じられる夜が、この時ばかりはやけに短かった。



 一週間はすぐに過ぎた。


 土曜日の朝、つまり、ブラウンの死刑が執行される日、二人の看守が独房にやってきた。


「約束の日時だ。さあ、出ろ」


 看守は冷酷だ。最期に気持ちを整える時間をくれることさえない。職務に忠実である。


 だが、ブラウンはこれから死刑になるというのに、泣きも喚きもしない、やけに落ち着き払った様子だった。きっと覚悟は決まっていたのだろう。だとしても、強い男である。


 ケイシーはその様子を見ながら、自分の刑が執行される時にはどんな気分なのだろうかと想像した。しかし、ほとんど十年も延期状態で放置されてしまったせいで、現実感がなかった。


「ケイシー君、私に何か言い残したことはあるかい? 二度と会うことはないから、何でも言えるだろう?」


「特に何も」


 一週間同じ部屋にいて、長いこと語り合ったのだ。最近の外の事情。やはりブラウンは政治家だったのか、そういう分野の話題が多かった。組織と繋がりのあった警察長官なんかも続々と秘密が暴露されているらしい。


 出会ったときに言っていた「赤」というのは、社会主義者、共産主義者を指すものらしい。だからといって、その社会主義者というのが何だかはよく分からなかったが。ロシアで流行り始めているから、ボルシチと「赤」が繋がったジョークに聞こえたようだ。


 それに、少しばかり娯楽の話。ブラウンは、野球や酒場のような娯楽についてはあまり知らなかった。代わりに娯楽といえば、文学か音楽に関する話が多かった。これもケイシーにはさっぱりだったが、所内にいては耳に入らない情報に触れられるのは良いことだった。


 何といっても、ケイシー自身が隔離されている間にも、壁の外では普通の暮らしが営まれているのだ。所内の単調な日々と比べれば、どんな些細な小話でも新鮮で鮮やかな冒険譚に聞こえた。


「そうか」


 未練はないと答えたケイシーに、ブラウンは落胆するでもなく、引き締まった表情を一切変えなかった。その潔さに、これで終わっては惜しい、とケイシーは感じた。


「……逆に、お前は何もないのか」


「ああ、ないよ」


「そうか」


 ケイシーは目を合わせなかった。


 しかし、何か忘れている気がする。何か言い残したこと、話しておきたいこと。


「もういいだろう、早く立ち上がれ」


 看守が急かした。ブラウンはまだ座ったままだ。


「おい、呼ばれてるぜ、早く行きな」


 ケイシーが急かすと、ブラウンは、きょとんとした顔を見せる。


 その表情に、ケイシーはもしかして、と感づいた。


「え、まさか今日、俺……?」


「何を言っている。当然だろう」


「立ち上がらないなら、引きずっても行くぞ」


 看守が二人して苛立ちを見せた。ケイシーは立ち上がって抗議する。


「そんな……、急すぎるだろ! 俺はまだ何の準備も……」


「十年もあったのに?」


 ブラウンが冷酷に言い放った。


「待てよ、お前じゃなかったのか、一週間ってのは」


「一週間とは言ったが、私が執行されるとは言っていないよ。君の希望的観測じゃないか」


「くそっ……」


 言われてもみれば、その通りだ。勝手にブラウンがかけられるんだと思い込んだのはケイシー自身である。結局、独房の暮らしに慣れてしまったからだ。こんな命がいつまでも続くのだと、自然に考えていた。


「ほら、早く行きなさい。生きていてもやることはないと言っていたじゃないか」


 ブラウンまでが急かす。確かに、早く殺してくれれば、とまで思っていたのに。


「待ってくれ! 俺にはまだ……」


 この土壇場になって、命が惜しくなってしまった。


「やり残したことがあるとでも言うのかね?」


 いつの間にか、看守が黙りこくって、代わりにブラウンが対話の相手となっていた。この男は、ケイシーを早く死地に送りたいかのように、容赦なく問い詰める。


「一体、何をやり残したんだ。もし命を長らえ、最後に何か一つさせてもらえるとするなら、何をする?」


「何をするか……?」


 ケイシーは二重に戸惑った。一つは、ブラウンがこれほど執拗に問うてくることに。もう一つは、未練があるにはあるが、いざ何をしたいのか問われると、答えに窮してしまうことに。


「さあ、答えなさい」


 追い詰められたケイシーは、またもや希望的観測に縋りたくなった。もしやもすれば、この問いに上手く答えれば、最後の思い出作りくらいはさせてもらえるのかもしれない、という情けない希望だ。


 だが、ケイシーは自分で自分の惨めさに気が付いていた。いつ死んでもいいというふりをしておきながら、間際になって足掻く自分自身に、失望した。


「もういいよ……」


「ふむ、答えに困っているね。では、問いを変えよう。君の人生で一番の思い出は?」


 問いが易しくなるのと対照的に、ケイシーは急速に冷めてしまった。もう、どうにでもなれ、という諦観が一気に襲ってきた。思えばこの諦観は、ケイシーが何かに耐えられなくなった時に選択する逃げ道だったのである。あの時父が「仕方がない」と首を振ったのと同じ。


 だから、鉄格子の扉の方に自ら歩みを進めつつ、ブラウンの問いへの答えを投げやりに捨てた。その分、本音が出たのかもしれない。


「思い出ねえ……。はあ、せいぜい言うなら、野球、してえなあ……」


 何とも言えない、不思議な気持ちだった。


「そうか、よく言った!」


 ブラウンは膝を打った。


「あ……?」


 ケイシーは、いよいよ理解が及ばなくなった。引き攣った苦笑を見せて、ブラウンに向き直る。


「いやあ、ケイシー君には悪いことをしたね。君たちも、そこら辺で戻っていいよ」


 そう言われて、看守たちが頷き、去って行った。続いて、ブラウンが立ち上がる。ケイシーは何か言ってやりたい気持ちはあったが、目の前を通り過ぎて扉を出たブラウンを、為す術もなく見送ってしまった。


「じゃ、種明かしはいずれ、ね」


 ブラウンは尻のポケットから鍵を取り出して、独房の扉を閉ざした。無論、ケイシーは中に残されたままだ。


「何だ……?」


 ケイシーは首を傾げるのも忘れてしまった。ただ口を開けて、廊下を歩いて行くブラウンを眺めていた。


 少し後になって、刑を免れた安心感と、自分が何をしていたのか分からないという戸惑いと、そして、少しずつ湧き出した生気の存在に、気が付いた。何の気なしに、自分の手の平を見つめる。錆びた鉄格子に掛けていたその手は、わずかに血の匂いがした。

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