2-5. グラウンド上の平等

アメリカの心と精神を知りたい者は、野球を学ぶのがよい。

歴史家 ジャック・バルザン



 次の日からケイシーは、今までにもまして懸命に働いた。二つだった仕事は三つに増やした。そのうち二つが休みになる毎週日曜日だけは、半日くらいジョーや仲間たちと野球をした。母の負担を増やしたくはないし、野球もやりたい。その二兎を追う手段だった。


 体力的にも精神的にもきついけれど、野球の時間は最高の気晴らしだ。家にいると、その不憫や不幸、世の中の理不尽さに押しつぶされそうになるし、働いているときもそうだった。だから、背伸びをしないで済む仲間たちと共に、空き地を駆け回る。仲間たちもそれぞれ事情は違うが、厳しい中で無理をして集まっていた。


 ポロ・グラウンズのような広さはない、家一つ分の空き地にフロンティアを見出して、水栓と灰の樽をベース代わりにし、ユニフォームはおろかグローブすら持ち合わせない、みすぼらしいチーム。それでもこのダイヤモンドは、文字通り宝石のような居場所だった。

「ケイシーお前、みるみる上手くなるな。俺もすぐ抜かれちまうかも」

 とジョーに言われるほど、野球は彼に合っていた。ケイシーはスタミナと筋力で鳴らし、セカンドを守ってしなやかな動きをするジョーとは対照的なコンビだった。性格も、ケイシーは活発ながら生真面目、ジョーは明るくはつらつとした感じで、似て非なる二人だったが、野球に対する情熱は同じだった。


 二人は同じ十二歳だが、野球ではジョーが先輩にあたる。そのジョーに褒められて嬉しくなったケイシーは、どこかで見つけてきた板材を粗削りしただけのバットを振り回した。

「でもちょっと大振りすぎ」

 全力の空振りに、ジョーがからかった。ボテボテと弾んだボールを素手のジョーに投げ返す。


 そしてまたジョーがこちらに投げ込んでくるのを、今度は真芯で捉えてかっ飛ばした。テネメント街の四角い空を、ボールは無限のアーチを描いて飛んで行く。見事なホームランだった。

 両腕をVの字に挙げて得意げなケイシーとはこれまた対照的に、

「おい、どこまで飛ばすんだよ」

 とジョーは慌てた。そういえば、ポロ・グラウンズで盗んだんだか拾ったんだかという大事なボールだった。それに気が付いた仲間たちが、一斉に走って探し始めた。

「うーん、どこにも見当たらないぞ」

 小一時間探し回ったものの、結局困り果ててしまった。見つからないでは済まない。自分でボールを買えない彼らにとっては、絶対に失くせないものだった。


 側溝にでも落ちたのかと、荒れた石畳を這いずり回って探していると、ケイシーの背中から声が掛かった。

「あの、探してるのこれでしょ?」

 見上げると、男の子がケイシーたちの探し物を手にしていた。が、ケイシーの目線はそのボールよりも、余りにも整った彼の顔立ちに吸い寄せられた。顔だけじゃない、日曜日だから教会の帰りか、すらっとした体形にぴったりと仕立てられたテールコートを身にまとって、まるで人形みたいな美しさだった。もっとも、ケイシーが見たことのある人形は、打ち捨てられて汚れたものだけだったが。

「そこに落ちてた」

 空き地から通りを一つ挟んだ先まで転がってしまっていたらしい。そちらを指で示されて、その子に見とれかけていたケイシーも我に返り、お礼を言った。

「わ。ありがとう、見つけてくれて」

「全然、たまたまだから。それより、僕も一緒に混ぜてよ」

 男の子は満面の笑みでそう言った。

 一応リーダーであるジョーが頷くより先に、ケイシーは、

「もちろんもちろん! 一緒にやろうよ! ね、いいでしょ?」

 とやる気まんまんだ。他の仲間も頷いた。

「ねえ君、野球やったことは? あ、名前はなんて言うの?」

 空き地に帰りながら、ケイシーは上機嫌に問いを投げた。

「クリスだよ。野球は初めて……」

 そう言うクリスは、控えめな雰囲気だった。それか、おそらく年上のケイシーたちに少し気が引けているのかもしれない。

「そっかそっかあ、でも大丈夫だよ! ここの皆優しいから」

 それに呼応するように、ジョーや仲間たちもクリスに言葉をかける。

「ほら、じゃあ僕がバッターやるから、この辺に向かって投げてみて」

 そう言ってケイシーは右打席でバットを構えた。最初は全然思ったように投げられないんだよな、と少し前の自分を懐かしみつつ、よく考えればキャッチボールから始めた方が良かったかな、などと思ってもいた。


 だが、その心配は無用だった。クリスは、左足を引きながら、頭上に両腕を掲げて体を反らした。見事なワインドアップのモーションである。まるで太陽の光が彼だけを照らしているような錯覚を覚える。そして左足を上げ、流れるような動きでボールを放つ。そのボールは、仲間たちの誰よりも速く、ストライクゾーンに収まった。

「わ……」

 ケイシーは見とれてしまい、皆もあっけにとられた。

「お、おお……」

「すげえ……」

 驚いてそんな言葉しか発せない彼らの代わりに、ジョーが口を開いた。

「お前、野球は初めてだって……」

「うん、でも、お兄ちゃんがやってるの見てたから」

 初めてと言いつつ、こんな剛速球を見せられたら、誰だって疑いたくもなる。けれどクリスの純朴な目と、褒められて照れる顔を見れば、こちらが気恥ずかしくなるくらいだ。

「すげえ才能だ……」

 またジョーが皆の気持ちを代弁した。


 それから何度投げさせてみても、ここの誰も手が出なかった。住む世界の違いは、輝かんばかりの服や容姿だけでなく、ボールに表れたのである。子供心に純粋な尊敬とか感服といった念を抱いた。


 また何球か投げるうちに、クリスはコースを突くコントロールまで見せ始めて、これはもう、驚く以外にない。そのうち、誰が最初にクリスを捉えるのか、という勝負で盛り上った。

「いやあ、ほんとすげえよお前」

 仲間の誰かが言う。

 夕暮れになってもその勝負に湧いているとき、

「クリス、こんなところにいたのね」

 なんて言いながら、いかにも品のいいマダムがやってきた。クリスと紡がれた会話からすると、そのマダムはクリスの母親で、迷子になった彼を探していたらしい。


 それだけなら何も問題はなかった。解散するにはいい時間だったし、皆クリスに、また今度な、と言おうとした。

 だが、そんな無邪気さは簡単に打ち砕かれた。

「ほら、こんな人たちと一緒にいちゃだめでしょう、早く帰りますよ」

 クリスの母は、何気ない風にこんなことを口にするのだった。ちょうど、ポロ・グラウンズでも客の属する階級で席が分かれているのと同じこと。当然の言葉だ。子供心にも分かっていることだったが、面と向かって病原菌のように扱われれば内心腹が立った。


 それでもクリスの母だからと我慢していた彼らに追い打ちをかけたのが、後からやってきたクリスの兄だった。

「ああママ、クリス見つかったんだ」

 と言って安堵の表情を見せた次の瞬間には、ケイシーたちを見て露骨に顔をしかめ、それどころかわざわざ鼻をつまむ仕草までして挑発してきたのである。

「おいおい、こんなところにいたら貧乏がうつっちまう。さっさと帰ろうぜ」

 我慢している彼らと見比べると、どちらが子供だか分からないような態度だが、金持ちというのを鼻にかけて傍若無人に振る舞う。

「くっそ、お前……」

「おや? 君たちはグローブも持っていないのかい? それ、何て遊び? まさか野球じゃあないよね?」

 グローブのない左手を指して笑う。

「なに? もう一遍言ってみろ!」

「ああ、何度でも言ってやるさ。君たちがあんまりみすぼらしくって可哀そうだってね」

 ここまでくると母も窘めて去ろうとするが、ケイシーの方は収まりがつかなかった。

「おいお前、そこまで言うなら僕と勝負しろ」

 怒りに任せてこんなことを口走った。貧民と見下されても、野球では劣らないんだと証明したかった。

「そうだ、勝負しやがれ! グラウンドでは金持ちも貧乏も関係ねえんだぞ!」

 ジョーが加勢する。

「勝負? 別にいいけど」

 てっきり断ると思っていたが、あっさり乗ってきた。むしろそれを望んでいた風でさえある。


 野球ではどっちが勝つか分からない、といういつかのジョーの言葉を思い出して、ケイシーは板材のバットを握る手に力を込めた。空き地のダイヤモンドで、クリスの兄が投手、ケイシーが打者の一打席勝負。ジョーや仲間がケイシーを応援して囃し立てる。クリスはどうすればいいのか困っているという様子だった。


 しかし、結果は火を見るより明らかだった。あのクリスの兄なのだから、その数倍は凄かった。


 胸元に突っ込まれた初球には驚いて手が出ず、二球目も見逃し、これでタイミングは取れたと思って全力で振った三球目は、ケイシーの膝元に鋭く落ち曲がって消えた。ケイシーたちは見たこともない変化球だった。


 当時の彼らには知る由もないが、後の時代にはスクリューボールと呼ばれる球だった。右投げから繰り出されるスクリューは、右打者のケイシーからすれば膝元に消えていく魔球だった。


 壁に当たって跳ね返るボールが転がる先は、当たり前に投手の方だ。勝者がそのボールを蹴り返して言う。

「グラウンドでは金持ちかなんて関係ない、そう言ったね。確かにそうさ、強い奴が勝つ。強いってのは正義なのさ」


 圧倒的強者が勝ち誇ってそう宣言する。高笑いを響かせ、クリスを引いて去っていった。悔しくても、何も言い返せない。


 ケイシーたちは、日が暮れてもその場を動けなかった。

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