2-3. 一五セントのフロンティア

アメリカの心と精神を知りたい者は、野球を学ぶのがよい。

歴史家 ジャック・バルザン



 そのフロンティアに、ケイシーたちは駆け出した。ポロ・グラウンズまではそう遠くない。セントラル・パークの北方の角に位置し、木造のスタンドの内側には広いグラウンドがあった。試合開始の間際なのか、ゲートには人だかりができている。馬車でやってきたシルクハットの男性やドレスの女性もいれば、ワイシャツを着た中流らしい男性、ほんの少しだが労働者もいる。その脇には入場料の案内らしき看板が掲げられていて、一番小さい数字では一五セントと書かれていた。


 だが、入場料が何セントだろうと関係ない。そもそも今は、一セントすら持っていないのだ。金もないのにどうしたものかと浮つくケイシーを尻目に、仲間たちは周りを確認すると、人だかりに紛れ込んだ。

「そんな、僕金ないって言ったろ、どうすんの」

「狼狽えんな、黙ってこっち来い」

 仕方なくケイシーも紛れ込むと、ほどなくしてゲートの下まで列が進んだ。そこでチケットの確認をしているのは、これも皆と同じくらいの年齢の少年だ。仲間の一人が彼に目配せすると、チケットを確認するふりだけをして通してくれた。

「なに、顔パス?」

「ああ、俺の兄貴」

 目配せしたリーダー格の少年がさらりと言う。「兄貴」が小遣い稼ぎにこの仕事をしているので、いわばコネでタダ見させてもらうというわけだ。もちろん、大人にばれるわけにはいかない裏口だ。


 そうして、足音が軋むスタンドに入り、初めてグラウンドを眺める。土だ。舗装されていない、広い土。雄大なフロンティア。


 まだ試合は始まっていないようだ。両チームの選手がウォームアップをしている。土によく映える白のユニフォーム。その姿に惹かれて、間近で見ようと一番前の通路に降りた。そして一塁側から、選手たちにより近いホームベースの方へ歩いてゆく。バックネットの前では、一人の投手が速球を投げ込んでいた。その腕はケイシーの胴体ほどもありそうな太さだ。それを目の前に見ると、ネットを越えてグラウンドに飛び込みたい衝動に駆られる。しかし、

「おい、そっちはだめだぜ」

 という仲間の声で我に返る。見回すと、ホームベースの側は正装の男女が居並ぶ席で、その一人がこっちを向いて眉を顰めていた。皆金持ちらしく、そのままパーティーにでも出られそうな恰好だ。


 当時の野球は、というよりだいたいの娯楽は、金と時間に余裕のある階級のためのものだった。ケイシーたちのような労働者の階級は、一日十時間以上を週六日働くのが普通だったから、今日のようにズルをしなくては贅沢な余暇活動の恩恵にはあずかれない。


 だからここの客たちは、ケイシーと少年たちに気が付くとしかめっ面をして、「なんでこんな小僧がここに」と顔に表す。


 ケイシーは癪だった。そりゃあ、タダ見をしている分際で文句を言うことはできないが、別に満員というわけでもないのだからそこまで嫌がらなくても良いのに、と思った。野球ぐらいで気にしなきゃいいのに、第一、

「同じアメリカ人なのに……」

 そこだけ口に出たところで、仲間に腕を引っ張られた。ゲートの方へ連れ戻され、足早に一塁側の端の席を目指す。

「あっちは高い席だ。ちょろちょろしてると文句言われて、チケット見せろだの言われたらおしまいだ」

 リーダーが小声で窘める。ケイシーたちが座ったこっちの席は、無造作な造りで軋むし、狭いし、高い席と違って日除けの屋根もない。ひじ掛けがついてボックスのような向こう側と比べて明らかに差のある席だ。憤懣やるかたなしというケイシーを見かねて、またリーダーが諭す。

「しょうがないだろ、金がなきゃ席なんか選べないんだ。タダで観れるだけありがたいと思わなきゃ」

「う、うん……、でもなんか、あの目だけはどうしても、嫌なんだよなあ……」

 あの目、とは金持ちが貧民を見るときの、蔑む目のことだ。金持ちと貧民に限らず、アメリカ人と移民だとか、白人と黒人だとか、そうやって自分と相手を区別して見下すとき、人は皆同じ目をする。そのことを、ケイシーは経験的に知っていた。

「ま、分かるけど。いつかチャンスがあれば見返してやりたいさ。その点野球はいいぜ。どっちが勝つか分からないからな」

「野球、そうだ、野球観に来たんだった。えーっと、メトロポリタンズと、相手は?」

「トロイ・トロージャンズ」

「それもプロ? どっちが強いの?」

「お前、ほんとに初めてなんだな。まあ、観てりゃ分かるって」

「あ、それもそうか……」

「それで、お前名前は? 俺はジョー。ジョー・エバースだ」

 皆でグラウンドに向き合いながら、やっと名前の交換だ。

「僕は、ケイシー・ディマジアーノ、よろしくね」

 イタリア系と分かりやすい名字を言うのは気が引けたが、差し出した手をジョーがしっかりと握り返してくれてほっとした。それどころか、俺もイタリア生まれだ、自分はポーランドだ、と仲間から嬉々とした声が飛ぶ。多分仲間たちも、ケイシーと同じ思いを腹に抱えていたのだろう。それを打ち消すために、わざと明るい声ではしゃぐのだ。ここでは、貧しさも出自も関係なかった。

「ほら、始まるぜ」

 ジョーのその言葉でおしゃべりが止み、皆の視線は登場してくる選手たちに注がれた。その瞳は、青、茶、黒、様々だった。


(野球って、こういうものなんだ)

 日々の苦境や過酷な労働、そして苦い顔をする金持ちのことも頭にはあったが、かぶりを振って、皆の目線が一つのボールを追うという理想の方を心に描いた。


 屋根がないからこそ浴びられる夏の暖かい日差し。ため息を洗ってくれる爽やかな風。ケイシーはこの日のことを、生涯忘れなかった。

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