ケイオティックグッド ~コルテーゼと選ばれし勇者~

五五五 五(ごごもり いつつ)

第1話 あばよ、セリオス

 穏やかな夜だった。

 満天を埋め尽くすようにちりばめられた星々が瞬き、どこからか虫やフクロウの声が響いてくる。

 ここはすでに魔王の領域。危険なモンスターが徘徊する土地だが、殺伐とした戦いの中であっても、ささやかな安らぎを感じられる一時ひとときは存在している。

 野営の準備を終え、仲間と焚き火を囲みながら、何気ない言葉を交わす、この瞬間こそが勇者セリオスにとってのそれだった。

 もちろん、完全にリラックスできるわけではない。何しろ魔王の城は目と鼻の先だ。モンスター避けの聖水を周囲にまいた上で、見張りが交替で立つことになっている。

 明日にも始まる決戦の結果がどうなるにせよ、こんなふうに過ごせる夜はこれが最後に違いない。

 今夜の最初の見張りはセリオスがまだ一介の冒険者だった頃より、幾多の死線を共にくぐり抜けてきた戦士ゴウだ。

 剣の腕は一流にはやや届かないが、冒険者歴の長い熟練の男である。彼の知識は時として卓越した剣技や魔法よりも有用で、セリオスは彼に全幅の信頼を置いていた。

 しかし――、


「へへっ……悪く思うなよ、セリオス」


 揺れる焚き火の向こうで、その彼が歪な笑みを浮かべている。

 なんとか上体を起こそうとするが、全身の痺れがそれを許さなかった。かろうじて動く首を回して状況を確認するが、倒れているのはセリオスだけではない。

 強力な呪文を操る魔導師も、鉄壁を誇る重戦士も、聖なる力を持つ聖女までもが、同じように地に伏して動くことができずにいる。


「薬か……」


 信じ難い想いでつぶやく。

 戦士は答えることなく、手にした剣を魔導師の胸に突き立てた。


「ごふっ……」


 絶叫すら上げられないまま血を吐いて白目を剥く。強力な呪文を操り、幾度となく魔軍の群れを薙ぎ払った魔導師も、身動きを封じられれば為す術がなかった。


「なん……てことを……」


 セリオスは死力を振り絞って立ち上がろうとするが、身体はまるで言うことを聞いてくれない。それを嘲笑うかのように戦士は重戦士にもトドメを刺す。

 その仲間は用心深く、野営の時でさえ鎧を脱がなかったが、身動きできなければ急所を護るすべはない。


「なぜだ……」


 セリオスは擦れた声を響かせた。未だに目の前の状況が受け入れられない。すべてが悪い夢だと信じたかった。


「フンッ……まだ口が利けるなんて、さすがは聖女に選ばれし勇者だけのことはあるな」


 戦士ゴウは吐き捨てるように言うと、その視線を身動きできない聖女に向ける。


「知ってるだろ? 俺たち以前の勇者パーティーがどんな末路を辿ったか。その結果、聖女がどんな憂き目に遭ったか」


 聖女とはアガルマ神に認められし戦士だけが召喚できる神の子だ。彼女の召還を果たした者だけが勇者の称号を授かることができる。

 魔王との戦いが始まり、それに対抗すべく勇者となった人間はこれまで十四人。

 彼らは聖女と優れた仲間を連れて果敢に魔軍に挑み、そのすべての者が華々しい戦果を挙げた。

 だが、すでに十一人の勇者が命を落とし、十二番目の勇者にいたっては魔軍に寝返ったと噂されている。

 彼らの聖女は、ことごとく魔王に捕らわれ、その邪悪な力によって扇情的なクリスタルの彫像に変えられた。しかも魔王はそれを見せしめとして王都へと送り届けてきたのだ。

 それでもセリオスは臆することなく自らが喚び出した聖女リンと仲間を連れて魔王討伐の旅に出た。

 今日までの冒険の日々は決して平坦な道ではなかったが、数々の苦難を乗り越え、魔王の城まであとわずかのところまで漕ぎ着けたのだ。

 それなのに信じていた仲間の裏切りによって、すべてが水泡に帰してしまった。

 戦士ゴウは下卑た顔を隠そうともせずに聖女の身体を舐め回すように見つめている。


「どう見たって、せいぜい十五、六の小娘だが、やっぱ聖女さまっていうのは特別なのかね。不思議な色香がありやがる」

「リンに……何をするつもりだ」


 鼻の下を伸ばした戦士ゴウの顔を見れば、答えなど分かりきってはいたが、今は少しでも時間を稼ぎたい。


「そんなことも分からないほど、勇者さまはお子ちゃまなのかな?」


 これまで戦士ゴウはセリオスを勇者と呼ばず、対等の仲間として接してくれていた。そんなところも好ましく思っていたのだが、すべては幻想だったのかもしれない。


「リンに手を出すな……」


 ドスの利いたくぐもった声で告げるが、未だに身体は動かない。それでも凄まじい殺気を向けられて、戦士ゴウは息を呑んだようだった。

 だが、それも一瞬のことだ。すぐに嘲りの笑みを浮かべる。


「ハッ、そんなザマで何ができる。魔軍はこの俺なんかよりはるかに狡猾なんだ。こんな方法でしてやられるようなお前が、ここまで戦い抜いてこられたのは、単に運が良かっただけたぜ」

「それは違う」


 セリオスは鋭い眼光を戦士ゴウに向けた。再び息を呑んだ彼に向けてハッキリと告げる。


「僕が魔軍の狡猾さに敗れなかったのは、君がいてくれたからだ」


 この言葉は殺気や眼光以上に戦士を動揺させたようだった。

 和解を求めているわけではない。共に死線をくぐり抜けてきた仲間を裏切り、卑劣な方法で殺した彼を今さら赦せるはずもない。それでもセリオスが放った言葉は心からのものだ。

 戦士ゴウはうつむいて視線を逸らす。


「俺もお前のことは気に入ってたんだ……けどよ、やっぱり無理だぜ。人間が魔王に勝てるわけがねえんだ。どう考えたって連中は遊んでやがる」

「……遊んでいる?」

「ずっと考えていたんだよ。これまでの勇者の活躍と敗れた理由を」

「なんの話だ……?」

「お前らはいいよな。俺たちがここまで来られたことを実力だなんて、脳天気に信じていられるんだからよ」


 戦士ゴウの言葉は非難がましくもあるが、それ以上に泣き言のようでもあった。


「誰だって知ってるはずのことだぜ。魔族は人の怖れや悲しみを喰らうんだ。それを糧にして力を増して、どんどん強大になっていく」


 それ自体は子供でも知っている話だが、セリオスには彼が言わんとしていることがピンと来ない。

 戦士ゴウは物わかりの悪い弟分を見るような目を向けてくる。


「分からねえか? 奴らはそのために俺たちに手心を加えているんだよ。適度に勇者を活躍させて人類にありもしない希望を持たせた上で、それをぶっ壊して絶望を啜り取る」

「まさか、そんな……」


 息を呑むセリオス。ようやく話が見えてきた。


「間違いねえよ。だからこれまで勇者は、その全員が華々しく活躍して名を馳せることができたんだ。けど、しょせんはまやかしだ。その気になれば奴らはいつでも俺たちを皆殺しにできるんだよ」


 信じ難い話であり、それ以上に信じたくない推察だ。しかし、裏切ったとはいえ、戦士ゴウの頭の冴えをセリオスはまだ信じている。その彼の言葉だ。ただの思い込みだと切って捨てることはできない。


「聖女は人々の憎しみと悲しみを煽るための絶好の生贄なのさ。考えてもみろよ。勇者とその仲間は裏切り者を除いてみんな戦死したのに、なんで聖女だけは毎回生きたまま囚われているんだ?」

「それは……」


 確かに不自然だった。これまで考えたことはなかったが、過去の聖女が全員生け捕りにされているという事実は無視していいものではない。戦士ゴウの推察があたっているのだとすれば、それほどまでに魔軍には余裕があるということになる。


「でもなぜだ……? そんな疑念を抱いていたのなら、どうしてこんなことをする前に話してくれなかったんだ……?」

「話せば信じてくれたか? いや、たぶんお前は信じてくれただろうな。けどよ……信じたって、お前は前に進もうとしただろ? たとえわずかでも可能性があるならとか、脳天気なことを言ってよぉ」

「それは……」


 やはり戦士ゴウは頭がキレる。彼の目算はまったく持って正しい。魔王の城を前にして、今さら戦いをやめることなどセリオスにできるはずがなかった。たとえ、勝算が皆無に等しいと知っても愚直に突き進もうとしただろう。


「お前らは勇敢だよ。利口とは言えねえけど高潔な精神ってものを持っているのさ。けど俺にはねえ。どうせ死ぬなら、その前に少しでもいい思いをしたいんだよ!」


 悲痛な声を上げると戦士は剣を振り上げた。その両の眼からは涙が溢れ出している。


「あばよ、セリオス。どうせ俺もすぐに行くって言いてえけど、お前みたいな奴はきっと天国で俺は地獄行きだろうから、これで永遠におさらばだな」


 掲げられた凶刃を前にしても、セリオスにはどうすることもできない。

 自らの命を絶とうとする、裏切り者の瞳を真っ直ぐに見据えながら胸に去来する想いを噛みしめる。それは未練でも絶望でもなく憐れみだった。

 戦士ゴウは気づいている。

 たとえ、セリオスを殺して聖女を辱めたとしても、その結果待ち受けるのは魔族がもたらす死のみだ。

 この魔軍の領域の奥深くから、彼ひとりで逃げ戻れるはずがない。

 仮に運良く帰還できたとしても、勇者パーティーの一員である彼は、審問官に魔法を使った取り調べを受けることになるだろう。魔軍の領域からたったひとりで逃げ戻ったとなれば、彼個人の信用とは関係なく、魔族による入れ替わりや洗脳を疑われるからだ。

 その結果、ここでの所業が明るみに出れば彼は間違いなく処刑されることになる。

 結局は命と引き替えに刹那の快楽を選んだに過ぎない。

 本当にこれで良かったのか――そう問いかけたいところだが、その機会は永遠に訪れなかった。

 戦士の剣がセリオスに突き立てられたためではない。

 それが振り下ろされる前に戦士の頭が消し飛んでいたからだ。


「なっ……!?」


 セリオスは驚愕に目を見開くが、彼の目を以てしても何が起きたのかを正確に把握することはできなかった。

 ひとつだけ理解できたのは凄まじい速度で飛来した何かが戦士の頭を一撃で粉砕してしまったということだ。

 だからといって、こんなところに助けが来るなどとは考え難い。


(モンスターか!?)


 他には考えられないが、すぐに第二撃が飛んでくる様子はない。

 それでも、さほど猶予があるとは思えなかった。

 未だ力の戻らない四肢を、それでも必死で動かして地面を這いずり始める。カタツムリにも後れを取りそうな動きだが、ただ黙って死を待つことはできない。


「リン……」


 聖女に向かって呼びかけると、彼女もゆっくりと首を動かしてセリオスに目を向けた。薬の影響か意識も曖昧なようだが、間違いなく生きている。


(まだだ。まだ死ねない。必ず生きて戻る。必ず君を連れて……)


 決意を胸にセリオスは気の遠くなるような前進を続けた。

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