第13話 静かなる事実

水曜・10:00。旧本社・大会議室。

廊下には朝いちのアルコールがまだ香りを残し、足裏に薄いワックスの抵抗がつく。非常口の矢印は真新しい緑で、案内板のフォントは角の丸いゴシック。ガラス扉を押すと、会議室の空気が冷たい層で迎えた。


床は鏡面に近く、蛍光灯を縦に何本も返す。

椅子の脚には黒いフェルト、列は糸で引いたみたいに揃う。

前列の背もたれに白いテープ——「ここまで」。

壁には角の立ったラミネートが気泡ゼロで四隅を止める。


・本日付=死亡のみ

・オンラインでも来社扱い

・“辞められた”禁止


その下に、きのう増えた一枚——来社にて説明完了。

青い養生テープの斜め45°は四隅でぴたりと向かい合い、ズレがない。


長机の上、朱色のスタンプは印面を上に十個、将棋の駒を裏返したみたいに整列。

電源タップの白いケーブルは直角の連続で這い、余った長さは八の字巻きで結ばれている。


席も、人も、整っていた。

時計の秒針は、一秒だけ長い一秒を刻む。咳払いはない。紙が擦れるくらいの音だけ。


監査がマイクに口を寄せ、高さの変わらない声で宣言する。


「公開の追加検証を始めます」


椅子の脚は一切きしまず、久世一馬が立つ。

ネイビーの袖口を親指で一度だけ整え、マイクのケーブルを直角に揃える。

笑顔の温度は一定。背広の肩は落ちず、靴音は出さない。

立ち位置は、スクリーンの白円と長机の角のちょうど中点。


久世のノートPCには、小さな窓が三つ重なっている。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎

社員台帳:

・在籍:佐伯◯◯(1)

・異動:保留(特例)

・メモ:内部承認・維持


入館管理:

・訪問者:佐伯/受付コード:有効(緑)


会議予約:

・「佐伯 1on1」10:15—10:30(仮)

⭐︎ ⭐︎ ⭐︎



「では——証人に“来て”いただきます」


一拍、場を測るように見渡し、勝ち筋を握った人間の歩幅で言葉を置く。


「十年前、“来て伸びた”佐伯さんを——この会議室に。会社で終わらせる原点に立ち返り、来社=説明完了を、ここで検証しましょう」


久世は朱色のスタンプ列に視線を落とし、一つだけくるりと回す。久世の笑顔は清潔だ。清潔すぎて、体温の輪郭が消える。


久世一馬は笑顔の形を保ったまま、ノートPCのカーソルを承認の角に置いている。

右下の小窓、入館管理が細い緑を点す。


「訪問者:佐伯/受付コード:有効」。

——これで来られる。(昨日、自分で有効化した。)  




しかし、一行に何か起きる気配はない。


「……受付は何をもたついているんだ」


誰にも届かない大きさで言い、ネイビーの袖口を親指で一度だけ整える。

ケーブルの直角をなぞり、喉仏を一回上下。舌先が上顎に短く貼りつき、離れる。


監査がマイクへ口を寄せ、同じ高さの声を落とす。


「……受付の問題ではありません」


空気が、一段沈む。総務が紙の角をそっと揃え、法務のペン先が紙繊維を潰す微音を立てる。ことねは配布クリップの銀から指を離し、紗良は視線を膝へ、ゆいの小指はトラックパッドの縁で小さく浮いて戻る。


監査は紙を一枚、平らに置いた。









「佐伯さんは三年前、急性心疾患でご自宅にて逝去されています。よって本日は社内記録(社内報・弔辞・運用ノート・メール抜粋)で証言します」


久世の口が開く。


「え……」


一音の先で、言葉が宙にほどけた。笑顔の輪郭は残る。温度は薄く落ちる。袖口を親指で整える癖の軌道は正確だが、戻りがわずかに遅い。


スクリーンに白地の黒い文字。



《訃報:佐伯◯◯さん(営業)》


弔辞の一節——「静かな人だった。仕事に生きがいを感じていた」


運用ノートの走り書きが寄る。


“心が折れそうになった時、久世さんに助けられたからここまで伸びた”

“だけど、あの人は誤解をしてしまっている。中には引き止めない方が良い人もいる”。

“だから、そんな人達のために逃げ道を作れるような仕組みを検討中だ、完成したら一番にあの人に見せてあげよう。無駄に不安を感じる人を減らすために”

——佐伯



後列から、控えめな声。


「久世さん、訃報……見てましたよね。既読にお名前が」


監査がもう一枚めくる。


「社内報の閲覧ログ:三年前 08:12、閲覧者=久世一馬。既読者一覧に記録」



——ここから、言葉と操作が絡み合う。



(久世、小声/マイクに乗らない)

久世「いや、彼は死んでいない……、会社に在籍があれば——生きてるはずだ」


久世「だって退職は本日付=死亡のみ。なら退職しなければ生きていることになるはず……」


久世「だから彼の在籍フラグ=1を残す。この在籍データさえあれば彼は生き続ける」


監査「在籍の根拠を」


久世(声量を少し上げる)「社員台帳=1、承認者KUSE_01。この数字が“ここにいる”を示す」


総務「運用逸脱では」


久世「逸脱じゃない。生命の維持だ」


雨宮「あなたは訃報を読んでいて、亡くなったことはご存知のはず」


久世「過去は過去、今の状態はここ(画面)の在籍フラグ1」


ことね「生死の状態は個人の意思では決められません」


久世「個人の意思ではなく社会のルールだ。退職者は“死亡のみ”、それ以外は在籍という」



(ここから速度が上がる/タブ連打)


久世「だから在籍=生存。1が灯ってる限り、彼はここにいる、生きている。台帳:在籍=1/保留(特例)、入館:受付コード 有効——入口は開いてるだから、早く入ってきてくれ」


監査「再度言います、貴方は社内報の訃報は既読です」

久世「既読≠死亡。半角saeki、全角SAEKI、旧字佐伯——一致、1」


(さらにキーボードを叩く)「仮在→仮在(再)、在籍フラグ=1、会議予約『佐伯 1on1』——参加者検索……該当 0だと?」


人事「入館:無効に切替しました」

受付「いま検索しましたが参加者は見つかりません」


監査は平らに言い切る。


「在籍修正を実施。佐伯の情報を退職(死亡)へ遡及反映」


人事の端末が小さくポップ音。

社員検索に「佐伯◯◯」——Enter。


該当 0 件、佐伯は社員データから削除された。

すると入館の小窓が緑→黄→灰に沈み、文字が静かに替わる。


「受付コード:無効」


久世の親指が机上の“来社済”に吸い付く。

印面の縁を撫で、朱が掌に薄く移る。

次の瞬間、彼は立ち上がり、椅子が布の摩擦音を一つだけ残す。



「——人殺しいいいいいっ!!!!」



声は蛍光に当たって跳ね、一拍遅れて壁に戻る。

総務が紙の角を止め、法務のペン先が空中で凍る。ブラインドの縞は五線譜のまま動かない。


俺はマイクを奪わない。ただ、同じ高さで置く。


「……もう、亡くなっているんですよ。三年前に。在籍は呼吸じゃない、数字は生死じゃない」


ことねが一行だけ足す。


「もう佐伯さんも在籍で縛るのはやめましょう」


紗良が重ねる。


「亡くなってまで働き続けるのはかわいそう」


ゆいが小さく。


「退職させてあげようよ」


久世は笑顔の輪郭を保ったまま、温度だけが落ちる。


名刺入れの水平を胸ポケットで何度も正し、

掌の朱を自分の掌に押し当てる。音はしない。


——押す場所のない印を、自分に押す。

朱がじわり滲み、小さな火傷みたいな楕円になる。


「……在籍が、ない」


彼は右上の社員コードの空枠を見つめた。

数字で証明してきた“生きている”が、初期値へ戻る。


ゆっくりと腰を下ろす。音を立てない角度で。

ネイビーの生地は折り目を作らず落ち、膝の上で両手の指の腹だけが触れ合う。

掌の朱は冷え、指紋の渦の中で薄い楕円に固まった。


カチ。どこかで保存音が一つ。


少し間を置いて、カチ。もう一つ。


拍手はない。ざわめきもない。

青い養生テープの角は揺れない。


壁の三枚——『本日付=死亡のみ』は白いまま、彼をもう守らない。


十年前の“成功の人”は、この部屋にはいない。


社員検索:該当 0 件。入館:無効。在籍:なし。


数字と四角だけの静かな事実が、久世の中で退職の意味に置き換わる。


彼は笑顔の輪郭を保ったまま、目だけを閉じた。

——在籍という呪いを、今日で手放すみたいに。

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