第14話 標準の朝/退職フォーム
木曜・9:02。旧本社。
会議室の扉を押すと、ベリ、と青い養生テープがきちんとした音で剥がれた。
壁のラミネートは三枚に戻り、昨日まで貼ってあった「来社にて説明完了」は、総務の段ボールの中になって沈んでいる。
長机の端では朱色のスタンプが印面を下に伏せられたまま——押される予定のない赤は、最初から眠っていた。
総務が短く告げる。
「全社告知、送信しました」
スクリーンに一枚。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
標準運用 v11(出典固定)
1.“顔なし”で完結:身元確認/貸与品返却/最終精算
2.来社扱いの廃止:“来たら終わる”は運用外
3.ログは本人・会社へ同報:提出→受領→差し戻し→再提出
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
カチ。保存音が一つ。
空調は低い呼吸で続いた。
――廊下の隅、コピー機の横。
ふたりの声がひそひそと、紙より薄い音で交わる。
「……あの“退職は死亡のみ”、いつから久世さん言い始めてた?」
「三年前の春。貼り紙の作成履歴データだとそうなってたってさ」
「三年前……佐伯さんの訃報のあと?」
「そこから、だよ」
五秒だけ静かになる。誰も頷かない。会議室へ戻る靴が、音を立てない。
♢ ♢ ♢
午前/公開レクチャ
講師台に、ことね・紗良・ゆい。俺(雨宮)は横でログを見守る。
ことね(配布担当)がA4を配る。角は落とさない。
「いちばん上の三行から読んでください。出所/計算根拠/承認履歴、文章で明記されています」
前列のベテランが手を上げる。
「顔を見ないと誤魔化され——」
「誤魔化しは“見えない定義”で起きます。定義を見える文にします」
紗良(返却担当)が台車で箱を押す。封はしていない。
「返却キットは“入れるべきもの”だけ図解。玄関完結で集荷、受領ログは同時。対面で引き留めることはなし」
ゆい(UI担当)が続ける。
「規定フォーマットによる申請ですぐに退職ができます、もちろん間違った場合は取り消せます」
提出——受領——差し戻し——再提出。
カチ、カチ、カチ。三拍の保存音がきれいに揃った。
監査がマイクへ。
「本日、“顔みせなし”三件の完了を確認。ログは本人・会社に同時報告。“来社=説明完了”掲示は運用外、撤去済み」
——また、廊下のひそひそ。
「久世さん、今日、静かだな」
「うん……完全に折れちゃったな」
♢ ♢ ♢
同時刻/久世
私物の少ないデスクに、返却キットが置かれた。
薄い段ボール。中にはラベル、図解、緩衝材。
久世は蓋を直角で開け、水平で並べる。
掌の真ん中の薄い朱はもう輪郭だけになっていた。
ノートPCを起動。ポータルを開く。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
退職手続 v11(出典:雨宮/ことね/紗良/ゆい)
最上段に出所/計算根拠/承認履歴。
押せるのは承認とコメント(一言)だけ。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
画面が光に負けない明瞭さで並んでいるのを、久世は一分だけ眺めた。その顔には、勝ち負けの色がない。ただ、見ている。
コメントを開く。入力欄に、短く打つ。
「辞めます」
カチ。保存。承認へカーソルが戻る。カチ。
画面に静かな文字。
「受領:会社/本人(同時)」
「承認:一次」
「完了:提出ログへ連結」
——久世はぼんやりと感心したように、小さく息を漏らした。
「……こんなに静かに、終わるのか、こんなにも、簡単に」
彼は引き出しを開け、旧“来社済”のスタンプを取り出す。
親指で印面を一秒撫で、箱へそっと入れる。
ガラスに自分の顔が二重に映る。
「……なんで、辞めたいんだっけ」
声は自分にも届かない大きさ。答えはない。
強制はされていない。脅しもない。
ただ、全部のやる気が落ちたみたいに感じる——電源ではなく音量だけがゼロになった感じ。
世界は動いているのに、再生マークが押されていない。
会議室・空き時間
ポータルを開く。退職理由(任意)の欄が白い。
カーソルが点滅する。
「母の介護」→消す。
「新しい挑戦」→消す。
「体調」→消す。
「よくわからないが、全部がやる気にならない」→指が止まり、また消す。
空欄はきれいだ。きれいなまま提出された。
カチ。
受領:会社/本人(同時)——短い文字が並ぶ。
胸の内側は、無風。
ロッカー前
制服の名札、社員証ホルダー、折り畳み傘。
重さが全部軽い。
ロッカーの扉を閉める角度はいつも通りなのに、
最後のマグネットが吸い付く音が、半拍遅れて聞こえた。
退出ゲート
読み取り機にカードはもう要らない。
通路ががらんと空いていて、風除室のドアが二重に開く。
外の光はまっすぐで、影の輪郭は硬い。
久世は一歩だけ外に出て、引き返す。
用事はない。確認したかったのは、外に出られるかどうかだけ。
夕暮れ・駅前
横断歩道の信号が赤→青に変わる。
会社の入館の緑と、信号の青は、同じじゃない。
体がそれを、今日初めて理解する。
青になっても、歩き出す理由は誰もくれない。
歩き出しても、止まる理由は誰も奪わない。
自宅・玄関
靴を左右で揃える。
いつもはつま先の線が揃わないと気持ち悪かったのに、今日は雑でも平気だと気づき、
それが少しだけ怖い。
洗面所で手を洗う。朱はとっくに落ちて、石鹸の匂いだけが残る。
鏡の中の自分はいつもの笑顔の形を作らない。
輪郭だけで立っている。
机・ノートPC
癖で社内ポータルを開こうとして、
ブックマークに鍵マークがついているのを見て手を止める。
代わりに、ブラウザの新規タブが真っ白で開く。
検索窓に「——」何も打たない。
無音の長い一分。
そのあと、デスクライトを一段落とす。
部屋の空気が浅くなる。
冷蔵庫
水をコップに注ぐ。
味は水だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
今日のどの瞬間よりも、分かりやすい。
ベッドサイド
スマホの通知は穏やか。
誰も責めず、誰も褒めない。
“夜に返したやつが一番褒められる”世界は、
画面の向こうに置いてきた。
耳の奥で保存音が鳴る気がして、枕に掌を押し当てる。
朱はもう、どこにもつかない。
「……なんで、辞めたんだろう」
天井に向かって言ってみる。
答えは出ない。
でも、答えがないことが、今日はそのままで良かった。
明日の自分が、一行で書ければそれでいい。
“先に退職手順を配る”——その手順を利用した最初の人間として自分の名を置けたのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます