第5話 杉本未来、恋する予感
〈第4話から続く〉
榎田
チラと見上げた駅前の液晶スクリーンのデジタル時計は、午後7時55分を表示している。
8時の約束にはあと5分あるが、相手は必ず遅れて来ると読んでいた。
なぜならジュードと待ち合わせをしているのが健司という男ではなく、男を
その本人が直接来るとは榎田にしても思ってはいなかったが、約束の時間近くになっても来ていないところをみると、代役にしろ、健司と名乗っている本人にしろ、必ず女が来ると榎田は確信していた。
男であれば、初対面の女と待ち合わせた時には、自分のように時間前に来て待っているはずである。
榎田は今日の昼、建築設計事務所を開いている学生時代からの友人である友原に呼び出されて、こう切り出された。
「最近、彼女と別れたようだからお前に女を1人紹介してやるよ」
友原は1枚の写真と、ジュードと健司のチャット内容を一部分印刷したものを、応接台の上に置いた。
榎田はまず写真を手に取った。
インスタか何かをプリントアウトしたものらしく、清楚で美しい女が写っていた。
続いてA4版のコピー用紙の内容に目をやった。
ジュードという女と健司という男がチャットしている内容を印刷したもので、性癖などをあけすけに自慢し合っていた。
「ジュードというのがこの写真の女か?」
と、榎田がたずねた。
「いや、その写真の女性が健司と名乗っているのだ」
友原は煙草に火をつけながら首を振った。
「健司と名乗っているけれど、実はオンナ?」
榎田は面食らった。
「そう。ネナベ。オンナが男の振りをして、相手をからかって喜んでいるという手合いだ」
「ジュードは?」
「それは俺だよ。男の俺がオンナの振りをしてネナベの相手をしている。ネットオカマとネットネナベ、そういう状況だ。2人はデイトをしようということになったが、1度目のデイトはお互いに代役を立てて、会っていない。そりゃあそうだろう、女の方が健司という男の名前を騙って女とデイトをしようとしたんだからな。会うわけにはいかんだろう。で、彼女は現場で男の代役を立てた。オレの方は女の代役を用意した。だから、本人同士は会っていない。それで今夜、2度目のデイトをすることになった。ジュードに急用が出来たのでお前は代役を頼まれた。それで通せばいい」
「この女が来るのか?」
「それはわからん」
「健司と名乗っているのだから、1回目のデイトの時のように男を代役に立ててくるのでは?」
「その可能性の方が断然高いが、その時は諦めるんだな」
友原がそう言って笑ったので榎田は鼻白んだが、どうせ付き合っていた彼女とは最近別れたばかりで、自身も暇な週末だった。
男が来るか女が来るか、確率半々の丁半バクチに賭けてみるのも一興か。
「なら、女を代役に立ててきたら?或いは本人が来たら?」
「その時はお前の腕の見せ所だ。一夜の遊び相手にするなと何なりと、好きにするがいいさ。真剣に結婚相手として考えてもいい女性だぞ」
「よせよ。こんな女と」
「性格もいいし、いい家のお嬢さんだぜ」
「性格のいい女がネナベを騙るかよ」
榎田は驚いた。
親の代からの建築設計事務所も盛況な友原がなぜこんな事をしているのか、理由が知りたくなって、
「なぜお前がネカマの振りをして、相手になっているんだ?」
「どうしようもなく寂しい女がいる。ネットに填り込んで大怪我をする前に助け出してくれ、と頼まれたのさ」
それ以上の会話はなかった。
2人は学生時代からの大の親友だった。
友原は榎田を決して無茶をするような男ではないと知っていたし、榎田も友原のことを怪しげな話を持ってくる男ではないと信じていた。
だから榎田はそれ以上健司というネナベを演じている女のことを聞かずに、万が一の幸運に巡り会う期待も僅かに持ちながら、1週間で1番のこんないい時間の、夜8時からの贅沢な暇つぶしにやって来たのだった。
どんな代役の男が、或いはどんな女が来るのか、そんなことを漠然と考えていた時に榎田は声をかけられて、驚いた。
期待を持ちすぎるとロクなことがないという自己防衛心から、男が代役として現れるものだと、最悪のケースを想定していたその予想を裏切ってくれたのもそうだが、写真で見た本人が来ていたのに驚き、しかもついさっき、東急プラザのスイーツ店で会った女性だったので、驚きは3倍になった。
同じようにショーケースを眺めながら買い物をして、同じようにレジへ向かい、榎田が前を譲ったのである。
その時も綺麗な女がいると思ったものだが、実際に正面から見て、写真で見るよりもうんと美しかったので、殆ど彼は有頂天になった。
一方の未来も驚いていた。
男性の顔をジロジロ見るような品のない女に未来は生まれついてはいなかったので、100均の赤い布袋を目印に男性の前に行ったのだが、彼の手にある同じスイーツ店の小箱を見て、さっきレジで前を譲ってくれた男性だと気づいたのである。
しかし、てっきりジュードが来るか、代役であれば女性を仕立ててくると思っていたので、なぜここに男性がいるのかと戸惑ったが、ジュードが男の代役を立ててきたと察したので、却って自分も代役になりきるのが楽になった。
「あのぅ・・・私、原田健司クンの代理の者ですが」
未来はおずおずと声をかけながら、今度は真正面から素早く男を観察した。
ストライプのカッターシャツの上からラフに着たコットンの白っぽい上着が、よく日に焼けた顔に似合っていた。
端正な顔立ちの中の目は穏やかで、皮肉なことだが、ネットで男を漁っていた時には、出会おうと願っても出会えなかったタイプの男性である。
ああ。
男の顔が綻んだ。
笑うと陽に焼けた口元から白い健康的な皓歯が覗いた。
「ぼく、ジュードさんって女の人に頼まれたんです。さっき、東急プラザで」
「ええ。こんなことって、あるのですね」
「ぼくが聞いたのは原田健司という名前の男性だったのだけれど、良かったです」
おまけにこんな美人だし、と付け加えた榎田は、捨て金になるかもしれないぜ、だけど、と東急プラザでスイーツを買ってゆくことを勧めてくれた友原の助言に、感謝していた。
「待ち合わせのお相手がジュードさんという女性だと聞いていて、約束を守れなかったお詫びに何か買って行くように言われたそのお店で、あなたとお会いしていたなんて」
と、未来も話を合わせた。
「榎田です。名刺はありますけれど、お渡ししないでおきます。でも本名です」
でも本名ですって言い方、おかしくない?
と、未来はその言葉尻に引っ掛かった。
そもそも単に代役でこの場にいるのだから、目的を果たしたらさっさと帰ればいいのに、名刺のことなんか持ち出して、まるでジュード本人が告白しているみたいだ、と気を回したが、
「私も本名で杉本です」
と、ごく自然に同じ台詞を言ってしまっていた。
考えてみれば2人ともが代役同士という状況ではあったが、未来の方から言えば、未来だけが本人で、それを彼女だけが知っていて、もう片方は何も知らないという妙な設定になっていた。
とは言え、榎田の方から言えば、目の前の女は原田健司と騙っている本人だし、それを知っているのは自分だけで、相手の女は何も知らないという不思議な状況だった。
「私も一応名刺は持っておりますけれど、それがいいですね」
どうぞ。
と、未来は相手が好印象の男性だったので、いま感じた不自然な状況の中でお芝居でもするように、手土産を突きだした。
どちらにしてもこの時間が過ぎてしまえば、敢え無く消え去るワンシーンなのだ。
恋人と恋人が逢瀬を重ねて記憶を積み重ねてゆくのではなく、この出会い自体が架空のものであるからには、今日という日も過ぎてしまえばいつもの平凡な1日になり、痕跡さえも残らずに消え去ってしまうのだ。
だから未来にとってはどうでもいいと言えばその通りなのだが、ただひとつ残念なのは、ジュードという女性を直接見ることが出来なかった、それだけである。
じゃあこれを。
と、榎田も同じスイーツ店の同じ小箱を差し出して、交換した。
交換すると、ほんの少し間が空き、2人はその間を持て余すように同時に苦笑した。
「この箱の中を見れば、あなたの好みがわかるというわけだ」
榎田が言った。
「そうですね。たとえ頼まれ物でも、自然に自分好みのものを選んでしまうようですね」
「今日は金曜日で世間は賑わっているじゃないですか。こんな時間に帰るのはもったいないし、代役同士だけどそこらでお茶でも飲みませんか。それとも居酒屋の方がいいかな」
「居酒屋の方がいいわ」
榎田が口ずさむような軽い調子で誘ったので、未来も軽く頷いた。
こんなことは深刻になってはお互いにやりきれない。どうせ演技をしている身なのだから、堂々と演技をするだけだ。
2人はそのままスクランブル交差点が青になるのを待って、交差点の人混みの中に紛れ込んだ。
まるで小さな入り江の中で波が真ん中へ向かって満ちてゆくように集まり、そこで1度撹拌され、また引き潮に乗って去って行くように四散する時、未来は並んで歩く榎田とのこんな出会いは
未来自身もそうだとは思えなかったのだから、他人の目から見ても自分たち2人がたった5分前に、奇妙な出会いをした者同士には見えないはずだった。
とすれば思う存分親しい者同士、或いは恋人同士の演技が出来るので、ますます未来は気が楽になった。
通りがかった居酒屋の前で榎田が、ここでどう?という目を向けてきたので未来は、いいわよ、というように頷いた。
渋谷の駅前も人で賑わっていたが、居酒屋も混んでいた。
炉端焼き形式の居酒屋で、炉端をコの字で囲むようにカウンターがあり、2人はやっと見つけたカウンターの端の空席に滑り込んだ。
生ビールで乾杯をして、すぐに2人とも焼酎のサワーを頼んだ。
「ぼくはサラリーマンとだけ言っておきます」
と、榎田が言った。
「私も月々お給料を戴いているとだけ申しておきます」
未来も微笑した。
榎田の好印象がそのまま続いていた。
これ以上観察の必要はなかった。このまま1杯飲んで別れるか、そのままホテルへ流れ込むかは誘われ方次第だ。
そして束の間、相手の肌の温もりを感じて別れれば、それで終わりだ。
2度会うことはない。
今まで5回SNSで知り合った男と会って、その中の2人と寝た。
今日はジュードの代役を務める榎田と、健司の代役の自分の思ってもみないシチュエーションだったが、見た目には今日が1番の相手であることに疑いの余地はない。
短時間の恋の相手として求め続けていた時には巡り会えず、諦めて脇道に逸れたとたん目の前に現れたのは、ままならない人生の1コマを象徴するかのような皮肉な出来事という以外にないが、こんなことがあるからまた人生は面白い。
行き着くところまで行って、この男が豹変して暴力的にならなければの話だが。
「でも不思議ね。今そこの駅の改札口で偶然にチラと目と目が合った原田健司クンなる人物に代役を頼まれて、こんなことになるなんて」
本当ですね、と榎田も応じた。
「ぼくは駅のコインロッカーで隣り合った女性が急に頼んできたので面白半分代役を引き受けたのだけれど、こんな幸運に巡りあうなんてね。売れない役者がいきなり主役に抜擢されたみたいだ、って、
彼は杉本と名乗ったこの女が健司その人であることは百も承知していたが、おくびにも出さなかった。
彼も今夜、楽しければそれで良かった。
友原は結婚を考えてもいい女だと言ったが、榎田には冗談にせよ、そんな気はなかった。
たとえデビューしたてだろうが気まぐれだろうが、ネットでネナベを演じている女と真剣な付き合いはどう考えても出来ない。
「相手があなたのような男性だとわかっていれば、1度家へ帰って違う服を着てきたのに」
未来は本当にそう思っていた。
チャット相手のジュードが女性だったので、本人が来るか、身代わりを立てたとしても女性が来るだろうと勝手に確信していたので、その時は絶対に負けないようにと一張羅のスーツを着込んで来たのがやり過ぎだった。色気が足りないのはわかっている。
「充分に美しいです。ぼくの方こそこんなラフな格好で申し訳ないと思っています。ネクタイを締めて、もっとフォーマルな服装で来るべきだった」
「そうしたら居酒屋には入れないわ」
未来は榎田との会話を楽しんでいた。これでいいのだ。
未来が原田健司なる架空の人物を
作り話というよりも、もしかしたら榎田はジュード本人かもしれない、と、ふと妄想する。
でも、誰であろうと構わない。
この出会いそのものが架空のもので、ワンシーンの瞬間的な演技が終わればどうせ消え去って、2度共演する相手ではないのだから。
「どうやら、やっとぼくは人並みの〈花金〉を楽しんでいるようだな」
「私も乾燥しきった心に、1滴の水が滴り落ちてきたような感じがするわ」
未来は積極的に好意をあらわした。
自分は人並みに人生を楽しんでいるのだという実感が湧いていた。
2人は顔を見合わせて、どちらからともなくグラスを挙げてまた乾杯をした。
2度目のグラスの触れ合う柔らかな音には、この夜の行き先をお互いが了解した、というようなドキドキする響きが籠もっていた。
〈第6話へ続く〉
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