第4話 信頼できるお医者さんって、こんな人のこと?
〈第3話から続く〉
その週の水曜日の夜、未来が入浴を済ませて寝る準備を整えてからパソコンのメッセンジャーソフトにアクセスすると、1通のオフラインメッセージが届いていて、ほぼ同時にジュードからのメッセージも飛び込んできた。
オフメはロードという男性からのもので、これは未来が仕事上の悩みなどを訴えると必ず丁寧な返信をくれる、まだ見ぬ同業医師である。
やはりジュードと同じく2ヶ月くらい前から個人的にメールの遣り取りをしているが、未来の方が一方的に相談や質問をして、彼に回答を貰うという関係だった。
一方のジュードはおそらく未来がラインオンするのを待って、コンタクトしてきたものと思われた。
〈今週末、どう?金曜日〉
ジュードがいきなりそう聞いてきたので、未来はロードからのオフメの開封を後回しにした。
〈いいよ。OKだよ〉
未来はスケジュール表を思い浮かべて、二つ返事で了解する。
〈花金なのに健司ったら、やっぱり彼女、いないのね〉
〈君の方こそ、彼氏からのお誘いはなかったのかい?〉
未来も健司になり切ってからかう。
〈健司の方に興味があるの。前回のやり直し、ハチ公でいい?〉
〈OK。時間は?〉
〈8時で、どう?〉
〈いいよ〉
未来も答えて、2人の約束は軽く決定した。
やはり携帯の1文字入力よりは、キーボードの方が会話は遙かにはかどる。
次こそ未来は自分で現場へ行くつもりでいた。
ジュード本人が来ようと来まいと未来は健司の代役に徹すればいいし、前回、借りのような形になっていたそのお返しに、今回はスイーツの手土産を持って行こうと考えていた。
こんなたわいのない予定があるだけで、もう今週はスケジュールが目一杯詰まっているような充実感を覚えるから、不思議だった。
ロードからのオフラインメッセージが入っていたので未来はその方が気になって、ジュードとはデイトの約束だけをして、チャットを切り上げた。
そしてロードからのメールを開封した。
2ヶ月くらい前、SNSの医師の集まる掲示板で、政府の医療政策への疑問を未来が発信し、それに回答をくれたのがロードだった。
〈国の医療費抑制政策により、病院経営は悪化の一途を辿っています。しかし、経営改善のための経費削減は即医師の労働条件の悪化を招き、その結果激務によるミスの発生率も高まり、最悪民事訴訟に発展するという負のスパイラル連鎖に陥ってゆきかねません。この負の連鎖はどうしようもないことなのでしょうか?〉
と先週、未来が愚痴った。
それは未来の父親の経営する病院で実際に起きている事象でもあった。
それに対する処方箋として、米国ほか世界での現状を丁寧に説明してくれたのがロードだった。
〈医療費抑制政策は世界のどの国でも問題になっていて、それは明らかに政治の問題であり、医師は職業上の試練と思って耐えるしか手はないようです。医師の激務という問題は措くとして、医療費抑制政策によって線引きされた治療の限界点をどこまで患者のために、医療現場で合法的に、かつ良心的に上げてゆくかが、医師のもうひとつの腕と言えるでしょう〉
そんな風に諭された。
良心的かつ合法的な手法で治療の限界点を引き上げる。
まさにその通りだった。
未来は自分の思いつかないことは政策が悪いからだと思い上がっていたことを恥ずかしく思い、病院内のことを相談しようと、彼女の方からロードにメッセージを送って、その後個人的にメールの遣り取りをしていた。
〈フューチャーさんへ。自分の中に2つの顔があったっていいじゃないですか〉
と、オフメを開くと短い文言が飛び出してきた。
フューチャーというのは健司と
〈最近、理想の医療とは一体どんな医療なのかわからなくなりました。教えて下さい〉
直近のロードへのこの質問の回答が、送られてきていた。
こんな青臭い質問は公開の場では尚更のこと、誰にでも迂闊に聞けるものではなかった。顔が見えない相手だからこそ、素直に聞くことが出来るのである。
〈私は民間の総合病院の眼科医として治療に当たっています。医療って、やればきりがないし、やるだけの時間がありません。1人に時間をかければ多くの人を診られないし、多くの患者を診なければ病院の経営は成り立ちません。どこで線引きをすれば?〉
それに対してロードは、
〈あなたの気の済むまで、1人の患者の治療を行いましょう。医は仁術です。使い古された言葉ですが、これが基本だと思います〉
それが2日前の返信だった。
それに対して未来はこう送った。
〈それはわかりますが、そんなことをしているとすぐに事務長から呼び出され、眼科の診療報酬のグラフを見せられて、独立採算原理を求められるのです〉
それへの返信が、自分の中に2つの顔があったっていいじゃないですか、と続いていたのだ。
〈1人は事務長に怒られる医師。そしてもう1人は、それでも患者側に立って現場医療を黙々とこなす医師。事務長に対する時は仮面を被り、患者に対する時は自分の本当の顔を見せればいい。事務長への対応は
自分の中に2つの顔があってもいい。
確かにそうだと未来は思う。
自分の中に健司というネナベを装う狂った自分がいる一方で、フューチャーというハンドルネームでロードと名乗るまじめな医師と意見交換を行っている自分もいる。
ロードという、まだ見ぬ医師とメールの遣り取りをしていると、その的確なアドバイスに納得させられる。
医師にもいろいろあるが、もしかしたら美しい医師というのは彼のような医師かもしれない。一体このお医者さんはどこで診療しているのかしら、と未来はこの頃ひそかに思うのだった。
そんなことをして未来は乾燥しきった毎日に刺激の水をやりながら、何とかウィークデーを乗り切って、金曜日の夜8時、ハチ公へ向かった。
前回は手土産まで用意されて面目も丸潰れになっていたので、今日こそは絶対にジュードの前に立ってやるという、復讐戦のつもりで臨んでいた。
もちろん未来は健司の代理という立場だったが、相手のジュードに絶対に負けないように、29歳の年相応のスーツで決めていた。
そうやって未来は東急プラザ1Fのスイーツ店で手土産を買い、ハチ公へ向かったのである。
〈第5話へ続く〉
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