第2話:番犬の目覚め

お仕置きされた日から、さらに数日が過ぎた。


ミチルは、レベッカの定めたルール――「役に立たなくていい」「許可なく部屋から出てはいけない」「ただ愛でられていればいい」――という生活に、戸惑とまどいながらも順応し始めていた。


前世で背負っていた「責任」や「プレッシャー」のすべてを剥ぎ取られ、ただ「所有物」として存在する「楽さ」。その甘美な感覚は、ミチルの社畜根性をゆっくりと麻痺まひさせるには十分だった。


「(……今日も、レベッカさんはきれいだ……)」


ミチルは控室のベッドに座り、主寝室で身支度を整えるレベッカの姿を、あなくほど見つめていた。


その夜、レベッカは皇宮で開かれる夜会に出席する予定だった。メイドたちが、彼女の銀色の髪を結い上げ、豪奢ごうしゃなドレスに着せ替えていく。


「ミチル」


不意に、レベッカがミチルを呼んだ。


「は、はい!」


「私は今夜、出かけます。あなたはここで『お留守番』ですわ。いい子で、待っていられますね?」


レベッカはミチルの前にかがみ、その目をまっすぐに見つめた。


「分かりました。……レベッカさん」


ミチルがこくりとうなずくと、レベッカは満足そうに微笑み、そっとミチルの頭を撫でた。犬耳が、彼女の優しい手つきにぴくぴくと反応する。


「(あ……甘い花の蜜の匂い……)」


ミチルの尻尾が、無意識むいしきのうちに小さく揺れてしまう。


「(……いかん、いかん)」


ミチルは慌てて尻尾をおさえようとするが、本能的な反応は止まらない。


「ふふ……本当に、あなたは分かりやすい子。すぐ戻りますから、誰かが来ても、決して部屋から出てはいけませんよ」


「は、はい!」


レベッカはミチルに優しいキスをひたいに一つ落とすと、メイドたちを連れて部屋を出て行った。


「(……行っちゃった)」


ぱたん、と扉が閉まる。レベッカの残り香だけが、かすかに漂っていた。


広い部屋に一人きりになると、急に心細さがこみ上げてくる。ミチルはベッドにもぐり込み、枕に顔をうずめた。


「(おれは、あの人の『所有物』……)」


その事実は、まだ恐怖と紙一重だ。だが、少なくとも理不尽に怒鳴どなり散らす上司がいた前世より、おりに閉じ込められていた奴隷商人の元より、今の生活は「マシ」だった。今は、ここにしか居場所がない。


「(疲れたら、寝よう。あの人が、そうしろって言ってた)」


言いつけを守ること。それが今のミチルの唯一の「仕事」だった。ミチルの意識は、安心感の中でゆっくりと沈んでいった。


***


――どれくらいの時間が過ぎたか。


カサッ。


「(ん……?)」


かすかな物音に、ミチルの意識が覚醒かくせいした。獣人としての鋭敏な聴覚が、とらえた音。


「(気のせいか……? いや、でも……)」


ミチルはベッドからい出し、耳を澄ませる。レベッカの言いつけが頭をよぎる。


だが、その時。


「(……匂いがする)」


獣人の嗅覚が、レベッカの香りとは違う、不快ふかいな「異物いぶつ」の匂いを感知した。汗と、安物の酒と、鉄錆の匂い。


「(……誰か、いる!)」


咄嗟とっさに、ミチルは部屋の明かりを消した。暗闇の中、彼の瞳が、夜行性動物のように光をあつめる。


ガチャリ。


静かに、控室の扉が開けられた。廊下の明かりを背に、複数の人影が侵入しんにゅうしてくる。


「(……! この部屋に? まさか……!)」


ミチルは息を殺し、ベッドの陰に身をひそめた。


「おい、こっちだ。あの女は夜会で留守のはずだ」


稀少きしょうな犬っころは、こっちの控室にいるっていてるぞ」


「子爵様も人が悪い。女に競り負けた腹いせで、奴隷を盗んでこい、だなんてよ」


下品な男たちのささやき声。


「(……おれを、盗みに……!?)」


ミチルの全身の毛が逆立さかだった。血の気が引いていく。こいつらに捕まれば、またあのオークションに、あの薄汚いおりに戻されるかもしれない。


「(嫌だ……! もう、あんなところに、戻ってたまるか……!)」


恐怖がミチルの心を支配しはいする。だが、それと同時に。


「(こいつら……レベッカさんの屋敷に、土足で……!)」


怒りがみ上げてきた。あの人は、自分を買い、食事を与え、安全な寝床をくれた。わけのわからないルールで自分を縛るが、それでも、あの冷たいおりから救い出してくれた恩人だ。


「(おれは、あの人にまだ、何の『借り』も返せてないのに……!)」


恐怖と、恩人を裏切られることへの怒り。それが、ミチルのうち爆発ばくはつした。


「(おれの居場所も、あの人への『借り』も、てめえらに奪われてたまるか!)」


レベッカに与えられた完璧な食事とケア。それは、ミチル本来の獣人としての能力を、完全に覚醒かくせいさせていた。


「あ? なんだ、いたぞ」


男の一人が、暗闇にひかる二つの瞳(ミチル)に気づいた。


とらえろ! さわがれる前に――」


「ガアアアァァッ!!」


男の言葉は、最後まで続かなかった。


ミチルは、床を蹴った。前世の三十路の体では考えられない、けもののような瞬発力。ミチルはゆかにあった椅子を蹴り倒し、男たちの進路を塞ぐ。一人がそれにひるんだすきを見逃さず、死角からたい当たりを仕掛け、体勢たいせいを崩させた。


「ぐあっ!?」


「どこだ、どこにいやがる!」

「こっちだ! かこめ!」


男たちは無様ぶざまに剣を振り回すが、暗闇の中ではミチルをとらえられない。


「(このまま、時間を稼げば……!)」


ミチルはそう判断し、ベッドの陰に身をひそめ、次の動きをうかがった。だが、侵入者たちもプロだった。


「チッ……! 散開しろ! やつはそこにいる!」


リーダー格の男が、ミチルの潜むベッドの方向を正確に指し示す。男たちは連携れんけいし、徐々にミチルを追い詰めてくる。


「(まずい……!)」


ミチルは咄嗟とっさにベッドから飛び出し、別の暗がりへ逃れようとした。その瞬間。


「そこだ!」


リーダー格の男が闇雲やみくもに振るった短剣のきっさきが、ミチルの腕を浅くかすめた。


「(いっ……!?)」


けるような痛みに、ミチルの動きが一瞬、にぶる。そのすきを、男たちが見逃すはずがなかった。


とらえろ!」「今だ!」


三方から、ミチルに男たちがおそいかかる。


「(しまった……! ここまで、か……!)」


ミチルが絶体絶命ぜったいぜつめいを覚悟した、その時だった。


バン!


背後で、控室と主寝室をつなぐ扉が、勢いよく開け放たれた。


主寝室の眩い明かりが逆光ぎゃっこうとなり、ミチルにおそいかかろうとしていた男たちの姿を白日はくじつもとさらす。そこに立っていたのは、夜会用のドレスを着たレベッカだった。


「あら……」


レベッカが、部屋の惨状――血腥ちなまぐさい匂い、武器を構える男たち、そして腕から血を流すミチル――を見て、目をほそめた。


「レ、レベッカさん……!?」


ミチルが呆然ぼうぜんと彼女の名を呼んだ。


「チッ……! 女一人だ、構うな! さっさと捕まえ――」


「――私のミチルに、その汚い手で触れないでくださる?」


氷のように冷たい声が響いた。


ミチルが目を見開くと、男たちはミチルの寸前すんぜんで、奇妙きみょうな体勢のまま凍り付いていた。レベッカの首元で、ネックレスの魔石があわい光を放っている。


「ぎ……あ……足が、足がぁ!?」


男たちの足元から這い上がった分厚ぶあつい氷が、彼らの膝までを完全に床と一体化させていた。


「(すごい……!)」


レベッカは、控室の入口いりぐちにドレス姿のまま優雅ゆうがに立つと、その氷のように冷たい黄金色の瞳で、リーダー格の男を見下ろした。


「さて。どなたの差し金ですの?」


「ひっ……! し、知らねえ! 俺たちはただ……」


「そうですか」


レベッカは無感情むかんじょうつぶやくと、男を拘束する氷の温度を、さらに数度下げた。


「ぎゃあああああっ!? 冷たい! 痛い! こごえる!」


「もう一度だけ、お聞きします。誰の命令で、私の『所有物』を盗みに来たのですか?」


「(こ、こわい……)」


ミチルは震えた。自分に向けられる優しさとはまるで違う、敵対者への一切いっさい容赦ようしゃがない姿。


「は、きます! きますから! 子爵ししゃく様です! あなたにオークションで競り負けた、子爵様の命令で……!」


「……そう。分かりました」


レベッカは、その答えを聞くと、興味きょうみを失ったように男から視線を外し、メイドに命じた。


「衛兵を呼びなさい。この者たちをき渡して」


後日、ミチルを盗もうとした子爵家が、皇国の歴史から忽然こつぜんとして姿を消したことを、ミチルはまだ知らない。


***


騒ぎが収まった後。侵入者たちが衛兵に引き渡され、部屋には静寂が戻った。


ミチルは、自分が控室から一歩も出ずに戦い抜いたことに安堵しつつも、腕の傷と、レベッカを騒がせてしまった事実に、悄然しょうぜんとしていた。


「(……おれ、結局、怪我しちゃったな……)」


その時。


「ミチル!」


衛兵への指示を終えたレベッカが、控室に足を踏み入れ、ミチルのもとへ駆け寄ってきた。さきほどまで侵入者たちに向けていた、氷のように冷たい表情は欠片かけらもなく、ただただ心配そうに顔をゆがめている。


「(あ……)」


レベッカはミチルの傷ついた腕を見るなり、その華奢きゃしゃな体で、ミチルを強く抱きしめた。


「(え……?)」


「(あったかい……。爽やかで、甘い花の蜜の匂い……)」


ミチルの鼻腔びこうを、庇護ひごの香りが満たす。その匂いに、張り詰めていた糸が切れ、ミチルの全身から力が抜けていく。


レベッカはそっと体を離すと、ミチルの両頬に手をえ、心配そうにその顔をのぞき込んだ。


「(……あ、怒って、ない……?)」


「あ、あの……!」


ミチルは混乱こんらんしながらも、咄嗟とっさに謝罪の言葉を口にした。


「おれ、戦って……でも、怪我しちゃって……騒ぎを起こして、すみません……!」


その言葉を聞いたレベッカは、きょとんとした顔で数回まばたきをした後、ふふっ、と悪戯いたずらっぽく微笑んだ。そして、ミチルの頬を優しく、ぷに、とつねった。


「いいえ。勇敢に戦ったのは、とても『いい子』ですわ」


「え……?」


「ですが」


レベッカは、ミチルの血のにじむ腕を、そっといつくしむように撫でる。


「私の大切な『所有物ミチル』が、私の許可なく傷つくのは……感心しませんわね?」


「(あ……)」


「それに、私をこんなに心配させたのですから」


ミチルは、そこでようやく理解した。レベッカが怒っている(?)のは、「怪我をした(失敗した)」ことではなく、「ご主人様を心配させた」ことに対してなのだ、と。


「(おれが……この人を、心配させた……?)」


レベッカは、ミチルの傷にそっと手をかざした。あわい光が溢れ、切り傷がうそのようにふさがっていく。


「(あ……すごい……)」


呆然ぼうぜんとするミチルに、レベッカは少し楽しそうに、悪戯いたずらっぽく片目かためじた。


「……あとで、たーっぷり、『お仕置き』と『ご褒美』が必要なようですね?」


「(……!)」


ミチルは、混乱こんらんした。


「(戦ったことへの『ご褒美』と、心配させたことへの『お仕置き』……どっちも、くれるのか……)」


失敗も、無茶も、戦った功績も、すべてを受け入れた上で、この人は「お仕置き」と「ご褒美」という形で自分を支配しようとしている。


「(……なんだ、それ……)」


理不尽りふじん叱責しっせきも、無意味むいみなプレッシャーもない。ただ、絶対的な主人のために牙を剥き、その働きを認められ、そして心配させた罰という名の愛情を与えられる。


「(……最高、じゃないか)」


ミチルは、自分の尻尾が、今度は羞恥しゅうじ遠慮えんりょもなく、ちぎれんばかりに振られているのを自覚した。レベッカは、その様子を実に愛おしそうに見つめている。


ミチルは、目の前の絶世の美女に向かい、心の底からこみ上げてくる感情のままに、つぶやいた。


「(ああ……この人こそが、おれの……)」


「(……ご主人様だ)」


―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――

【あとがき】

本作品をお読みいただき、ありがとうございます!


さて次回は、レベッカの宣言通り、『お仕置き』と『ご褒美』回です。是非お楽しみに!


***


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