第2話:番犬の目覚め
お仕置きされた日から、さらに数日が過ぎた。
ミチルは、レベッカの定めたルール――「役に立たなくていい」「許可なく部屋から出てはいけない」「ただ愛でられていればいい」――という生活に、
前世で背負っていた「責任」や「プレッシャー」のすべてを剥ぎ取られ、ただ「所有物」として存在する「楽さ」。その甘美な感覚は、ミチルの社畜根性をゆっくりと
「(……今日も、レベッカさんはきれいだ……)」
ミチルは控室のベッドに座り、主寝室で身支度を整えるレベッカの姿を、
その夜、レベッカは皇宮で開かれる夜会に出席する予定だった。メイドたちが、彼女の銀色の髪を結い上げ、
「ミチル」
不意に、レベッカがミチルを呼んだ。
「は、はい!」
「私は今夜、出かけます。あなたはここで『お留守番』ですわ。いい子で、待っていられますね?」
レベッカはミチルの前に
「分かりました。……レベッカさん」
ミチルがこくりと
「(あ……甘い花の蜜の匂い……)」
ミチルの尻尾が、
「(……いかん、いかん)」
ミチルは慌てて尻尾を
「ふふ……本当に、あなたは分かりやすい子。すぐ戻りますから、誰かが来ても、決して部屋から出てはいけませんよ」
「は、はい!」
レベッカはミチルに優しいキスを
「(……行っちゃった)」
ぱたん、と扉が閉まる。レベッカの残り香だけが、かすかに漂っていた。
広い部屋に一人きりになると、急に心細さがこみ上げてくる。ミチルはベッドに
「(おれは、あの人の『所有物』……)」
その事実は、まだ恐怖と紙一重だ。だが、少なくとも理不尽に
「(疲れたら、寝よう。あの人が、そうしろって言ってた)」
言いつけを守ること。それが今のミチルの唯一の「仕事」だった。ミチルの意識は、安心感の中でゆっくりと沈んでいった。
***
――どれくらいの時間が過ぎたか。
カサッ。
「(ん……?)」
「(気のせいか……? いや、でも……)」
ミチルはベッドから
だが、その時。
「(……匂いがする)」
獣人の嗅覚が、レベッカの香りとは違う、
「(……誰か、いる!)」
ガチャリ。
静かに、控室の扉が開けられた。廊下の明かりを背に、複数の人影が
「(……! この部屋に? まさか……!)」
ミチルは息を殺し、ベッドの陰に身を
「おい、こっちだ。あの女は夜会で留守のはずだ」
「
「子爵様も人が悪い。女に競り負けた腹いせで、奴隷を盗んでこい、だなんてよ」
下品な男たちの
「(……おれを、盗みに……!?)」
ミチルの全身の毛が
「(嫌だ……! もう、あんなところに、戻ってたまるか……!)」
恐怖がミチルの心を
「(こいつら……レベッカさんの屋敷に、土足で……!)」
怒りが
「(おれは、あの人にまだ、何の『借り』も返せてないのに……!)」
恐怖と、恩人を裏切られることへの怒り。それが、ミチルの
「(おれの居場所も、あの人への『借り』も、てめえらに奪われてたまるか!)」
レベッカに与えられた完璧な食事とケア。それは、ミチル本来の獣人としての能力を、完全に
「あ? なんだ、いたぞ」
男の一人が、暗闇に
「
「ガアアアァァッ!!」
男の言葉は、最後まで続かなかった。
ミチルは、床を蹴った。前世の三十路の体では考えられない、
「ぐあっ!?」
「どこだ、どこにいやがる!」
「こっちだ!
男たちは
「(このまま、時間を稼げば……!)」
ミチルはそう判断し、ベッドの陰に身を
「チッ……! 散開しろ!
リーダー格の男が、ミチルの潜むベッドの方向を正確に指し示す。男たちは
「(まずい……!)」
ミチルは
「そこだ!」
リーダー格の男が
「(いっ……!?)」
「
三方から、ミチルに男たちが
「(しまった……! ここまで、か……!)」
ミチルが
バン!
背後で、控室と主寝室を
主寝室の眩い明かりが
「あら……」
レベッカが、部屋の惨状――
「レ、レベッカさん……!?」
ミチルが
「チッ……! 女一人だ、構うな! さっさと捕まえ――」
「――私のミチルに、その汚い手で触れないでくださる?」
氷のように冷たい声が響いた。
ミチルが目を見開くと、男たちはミチルの
「ぎ……あ……足が、足がぁ!?」
男たちの足元から這い上がった
「(すごい……!)」
レベッカは、控室の
「さて。どなたの差し金ですの?」
「ひっ……! し、知らねえ! 俺たちはただ……」
「そうですか」
レベッカは
「ぎゃあああああっ!? 冷たい! 痛い!
「もう一度だけ、お聞きします。誰の命令で、私の『所有物』を盗みに来たのですか?」
「(こ、こわい……)」
ミチルは震えた。自分に向けられる優しさとはまるで違う、敵対者への
「は、
「……そう。分かりました」
レベッカは、その答えを聞くと、
「衛兵を呼びなさい。この者たちを
後日、ミチルを盗もうとした子爵家が、皇国の歴史から
***
騒ぎが収まった後。侵入者たちが衛兵に引き渡され、部屋には静寂が戻った。
ミチルは、自分が控室から一歩も出ずに戦い抜いたことに安堵しつつも、腕の傷と、レベッカを騒がせてしまった事実に、
「(……おれ、結局、怪我しちゃったな……)」
その時。
「ミチル!」
衛兵への指示を終えたレベッカが、控室に足を踏み入れ、ミチルのもとへ駆け寄ってきた。さきほどまで侵入者たちに向けていた、氷のように冷たい表情は
「(あ……)」
レベッカはミチルの傷ついた腕を見るなり、その
「(え……?)」
「(あったかい……。爽やかで、甘い花の蜜の匂い……)」
ミチルの
レベッカはそっと体を離すと、ミチルの両頬に手を
「(……あ、怒って、ない……?)」
「あ、あの……!」
ミチルは
「おれ、戦って……でも、怪我しちゃって……騒ぎを起こして、すみません……!」
その言葉を聞いたレベッカは、きょとんとした顔で数回まばたきをした後、ふふっ、と
「いいえ。勇敢に戦ったのは、とても『いい子』ですわ」
「え……?」
「ですが」
レベッカは、ミチルの血の
「私の大切な『
「(あ……)」
「それに、私をこんなに心配させたのですから」
ミチルは、そこでようやく理解した。レベッカが怒っている(?)のは、「怪我をした(失敗した)」ことではなく、「ご主人様を心配させた」ことに対してなのだ、と。
「(おれが……この人を、心配させた……?)」
レベッカは、ミチルの傷にそっと手をかざした。
「(あ……すごい……)」
「……あとで、たーっぷり、『お仕置き』と『ご褒美』が必要なようですね?」
「(……!)」
ミチルは、
「(戦ったことへの『ご褒美』と、心配させたことへの『お仕置き』……どっちも、くれるのか……)」
失敗も、無茶も、戦った功績も、すべてを受け入れた上で、この人は「お仕置き」と「ご褒美」という形で自分を支配しようとしている。
「(……なんだ、それ……)」
「(……最高、じゃないか)」
ミチルは、自分の尻尾が、今度は
ミチルは、目の前の絶世の美女に向かい、心の底からこみ上げてくる感情のままに、
「(ああ……この人こそが、おれの……)」
「(……ご主人様だ)」
―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――
【あとがき】
本作品をお読みいただき、ありがとうございます!
さて次回は、レベッカの宣言通り、『お仕置き』と『ご褒美』回です。是非お楽しみに!
***
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