生き残るために
午後の講堂。
窓の外では、薄霧をまとった山の稜線がゆっくりと揺れ、昨日の“浮遊実験”で焦げた天井の黒痕が、夕陽を吸い込んでいた。
その下で、訓練生たちは自然と背筋を伸ばす。
笑っていた昨日とは違う――空気が重い。
教壇に立つ男は、筋肉でできた岩壁のようだった。
――グレイ=ハーヴェイ。
元・冒険者ギルド《鉄路隊》所属。
国防省がわざわざ“借りた”実戦教官。
首筋に走る深い爪痕が、夕陽を受けて血に似た色を放つ。
「――いいか。今日のテーマは“生き残る靴の選び方”だ」
「……く、靴?」
莉音が呟いた声は、講堂の柱に吸い込まれた。
「昨日の魔法と温度差ありすぎ……」
美月は椅子に沈み、思わず膝を抱える。
「でも、講義だぞ。……意味あるだろ」
ユウは囁くように返したが、声は微妙に震えていた。
緊張の余白を断ち切るように、グレイの低い声が落ちる。
「命は靴から失われる。最初に壊れるのはメンタルでも武器でもねぇ――靴だ」
誰も笑えなかった。
その声には、死体を踏んで歩いてきた者の重みがあった。
「靴が壊れりゃ歩けねえ。歩けねえ奴は……死ぬ。――だから、靴を見繕う時間を惜しむな」
鷹真が真剣そのものの顔でメモを走らせ、直人は「理にかなってますね……」と小さく呟く。
美月は机の下で自分のスニーカーを握り、そっと足を組み直した。
グレイが机にドスンと置いたのは二種類の靴だった。
――現代製の分厚い登山靴と、異世界産“サンドリザード革”のブーツ。
どちらも、命の重さで研ぎ上げられた道具だ。
「お前らは二つの世界を歩く。地球の舗装路と、異世界の“牙の生えた荒野”。――合わない靴ってのは、死刑宣告と大差ねぇ」
チョークの粉が夕陽を浴びて金砂のように舞った。
ユウの胸の奥で、ざらりとした不安が鳴る。
(昨日は球を浮かせただけで笑ってたのに……今日は、命の話か)
「次に服装だ」
スクリーンには、派手なパーカーの青年が路地で冒険者に囲まれる映像。
字幕には《脱サラ冒険者、初級冒険者に財布を盗まれる》と乾いた文字。
講堂に苦い笑いが広がる。
「地球ファッションは一部地域じゃ流行ってる。だが異世界じゃ――“奇妙な布を着た金持ち”に見られる。見た目で死ぬ奴は、意外と多い」
続いて黒板に刻まれた三つの文字。
【収納圧縮魔法】【翻訳魔法】【自己強化系統】
「この三つは、どんな適性でも最優先で覚えろ。収納圧縮は“生存する荷物”を持つため。翻訳魔法は命綱。取引を誤れば、魔物より早く死ぬ」
「じ、自己強化って……筋肉のことですか?」
鷹真が勢いで手を挙げた。
「筋肉も手段だが、本質は“理解”だ。自分の体の動き、限界、呼吸――全部理解して初めて強化は意味を持つ」
その言葉と同時に、グレイの視線がユウを射抜く。
冷たいのに、不思議と温度のある視線。
――試すようで、期待しているような。
胸の底で、ざわり、と何かが反応する。
(……なんだ、この感覚)
「お前ら、自分をどう戦わせるか考えろ。魔法か、身体か。どっちつかずなら、“どっちの世界でも”通用しない」
講堂に静寂が降りた。
ユウは拳を握りしめていた。
気づけば、美咲が横で笑っていた。
「……昨日の天井クラッシャーとは別人みたいだね」
「うるせぇよ」
小声で返すが、胸の奥にだけ熱が残っていた。
講義の終わり。
夕焼けが窓辺を真紅に染め、グレイの影が長く伸びる。
「冒険者ってのはな――死にかけてから後悔するバカの集まりだ。だが、生き残った奴だけが“次”を見る。お前らも……せいぜいバカをやりながら生き延びろ」
その背中は、爪痕よりも深い“生の刻印”を刻んでいた。
廊下に出ると、美月がふらりと肩を寄せる。
「ねえ、今日の講義……なんか重かったね」
「ああ。昨日までは空を浮かせてたのにな」
「次は“生き残り方”か……いいじゃん。燃えてきた!」
美月が笑えば、ユウも自然と笑った。
だが、笑顔の奥に、小さな影が落ちる。
――明日、また誰かの靴が壊れて。
そして、誰かが戻ってこないかもしれない。
その予感が、足元で静かにきしんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます