第5話 喪失
トゥヴァリは大階段の一番上の段に座り、下にある北の広場を見つめる。階段を誰かが上がってくる度に、目を凝らす。赤毛じゃない。あの歩き方は、ペルシュじゃない。
精霊王の像に祈る人や、木陰で休む人。宮殿の広場にやってくる人が何人かいることを知る。
「明日は宮殿に行こうよ! アイピレイス様に会えたら、本の書き方を教えてもらうんだ」
ペルシュはそう言っていたはずだ。けれど、ちっとも姿を現さない。
今度は北地区の子どもたちが、まとまって駆け上がってくる。上に座っているのがトゥヴァリだと気がつくと、子どもたちは遠巻きにして通り過ぎて行った。
約束を勘違いしたのかも、と北の広場へ降りてみる。通りすがりに、人々の声が耳に入った。
「西地区で、何かあったらしい」
「子どもが泣いていて…」
西地区、子ども。その言葉に胸がざわつき、トゥヴァリは無意識に歩みを速める。
もしかすると、またあの意地悪たちと喧嘩をしているのかもしれない。
(ペルシュは強いから、泣いてるのはきっと、あいつらの方だ)
西地区の広場に行くと、何故だか異様な雰囲気だった。子どもがいない。数人の大人たちが、トゥヴァリを見て囁き合っている。
色々と言われるのはいつものことだが、今日のこの視線には、息が詰まりそうになる。
トゥヴァリは林へ向かった。
(動物に襲われたあの日以来、入るのを怖がってたんだ。もし中にいるなら、早く見つけてやらないと……)
「トゥヴァリ!」
呼ぶ声に、振り返る。
トゥヴァリは眉間に皺を寄せた。立っていたのがペルシュではなく、嫌いな顔をした奴だったからだ。何故かいつもよりも酷く憎しみのこもった顔で、トゥヴァリを睨みつけている。
「ようやく覚えたのか。お前は、シツコイって名前だったっけ?」
トゥヴァリは鼻で笑って返す。
「…っ!」
次の瞬間、トゥヴァリは衝撃で落ち葉の上にへ倒れ込んでいた。何を言われるでもなく、いきなり殴られたのだ。頬と、地面で擦り切れた肘に痛みが広がる。
「…っ、この野郎!」
我慢出来ずに掴みかかる。取っ組み合いになり、地面を転がる。殴るので、殴り返す。
(何故こんな目に遭わなきゃならないんだ!)
しかし、歯を食い縛ってレニスが叫んだのは、意味のわからないことだった。
「お前のせいでペルシュが死んだんだ!」
「は?」
木々の合間に、荒い息遣いだけが聞こえている。精霊が飛んできて痛みが消えたことになど、二人とも気づきもしなかった。
「出て行けよ! 俺たちの地区から!」
「待てよ。何を言ってるんだ。ペルシュが、何……?」
トゥヴァリの胸ぐらを掴むレニスの頬から、涙がこぼれ落ちてくる。
「な……なんで泣いてるんだ? まるで、そんな……冗談じゃないみたいに」
「死んだんだよ! 昨日の夜、赤い精霊がやってきて、俺たちの見ている前で死んで、じいちゃんみたいに消えたんだ!」
「……嘘だろ。お前は俺が嫌いだから、そんなことを言うんだ!騙されないぞ、俺は、お前の言うことなんかっ!」
トゥヴァリはレニスを突き飛ばして、駆け出した。ペルシュはどこかで冒険に行くのを待っているはずだ。大きな毛むくじゃらの動物に襲われたときだって、精霊はすぐにペルシュを治しに来たじゃないか。
(見つからないだけだ。ペルシュが死ぬはずがない、死ぬはずがない、死ぬはずがない……)
トゥヴァリは南の広場へ行った。
ペルシュはいない。
「西地区でペルシュという子どもが死んだらしい」
先回りするように、噂が広まっている。この話のために、たくさんの人々が広場に集まっている。
東の広場へ走った。
人だかりに、赤毛の髪が見えた! すぐに、トゥヴァリは駆け寄る。
「ミルシュカ、元気を出して」
「順番を間違えてしまったのね……きっと」
人々が、口々に言う。
赤毛が、顔を上げる。一瞬、ペルシュだと思ったが、もっと背の高い、女の人だった。
泣いている。
「あなた……ルディの子……?」
トゥヴァリの心臓に、潰されたような痛みが走った。
逃げ出した。
お前のせいで、ペルシュが死んだんだ!
レニスの言葉が思い出される。
「はぁ、はぁっ…!」
トゥヴァリの家には、いない。
「はぁ、はぁっ…!」
北の広場にも、いない。
トゥヴァリの顔を見て、人々は驚く。そんな事はお構いなしに、階段を駆け上がった。宮殿の広場できっとペルシュが待っている。「遅いじゃないか、トゥヴァリ!」と言うはずだ。
(約束したんだ、約束……)
「はー、はー…」
息が切れても休まなかった。汗が目に入り、喉が熱くなり、足が止まりそうになっても、上り続けた。
いない。
どこを探しても、いない。
精霊王の像の前で、トゥヴァリは膝をついた。心臓は暴れて飛び出しそうだ。目が回り、世界が揺れた。
「うーん? トゥヴァリじゃないか。どうしたんだ、そんな格好で」
「アイピレイス様!」
トゥヴァリはアイピレイスに抱きついた。汗と涙でぐしゃぐしゃの顔を、その立派な服に押しつけていることにも気づかずに。
「ペルシュが死んじゃったって! 俺のたった一人の友達が! 生まれて初めて出来た友達なんだ! 大精霊様に頼んでよ、ペルシュを生き返らせて…っ!」
「何だって? ペルシュが死んだ?」
▪︎
アイピレイスは呆然とする。目の前の涙は虚言とは思えない。強がりも言わず素直に泣き崩れる姿に、幼かった頃のトゥヴァリを思い出す。
ペルシュを今すぐ連れて来るよう精霊に伝える。しかし、何も起こらない。
――本当に、ペルシュが死んだのか。
精霊王の像を見やる。
両手を差し出す、少女の姿。ペルシュはまだあれくらいの背丈しかない。
(順番を変えた者がいる)
アイピレイスは、憤った。だが、この泣き崩れている子どもを慰められる者は、自分しかいなかった。
やがて泣き疲れて眠ったトゥヴァリを、アイピレイスは抱き上げ、ルディの家へと運んでいった。
(誰の仕業だ…!)
宮殿に戻ったアイピレイスは、瑠璃色の扉を力任せに押し開けた。重厚な気配をまとった扉も、賢人には容易く応じる。魔法の光が静まり返った玄関ホールを淡く照らし出す。
正面の部屋。かつては五人が集い話し合うための賢人の間と呼んだ。ずいぶん前から、ただ通路と化している。
回廊の東翼。中世宮殿のような廊下の先に宇宙のような空間がある。大量に手に入るはずがない鉱石で出来たその空間に、異彩を放つステンレス製の扉。
「ロースウェイ! 話がある! ……いないのか?」
顔を合わせなくなって久しい。研究者の彼女ははじめから、部屋に篭りきりになることが多かった。この扉は彼女に招かれた時にしか開かない。
(もう百年近く会っていない気がするが……本当に、中にいるのか?)
二階、オーウェンの部屋。暖かみのある木製の扉がいつでも客人を迎えるが、この部屋の主が不在になって既に二百五十年が経過した。
自分の部屋を通り過ぎ、西の回廊。
廊下にはたくさんの扉がある。たった一つの本物を除いて、全てが芸術家ナリファネルの描いた絵だ。
「ナリファネル!」
アイピレイスは迷うことなく、本物の扉に手をかける。これも動かず、返事はない。
苛立ち、別の偽物の扉を蹴る。
「ア、アアイピレイス!? 何してるのよ!」
素っ頓狂な叫び声。寝間着姿のハーヴァが立っていた。慌てて服の前を合わせ、胸元を隠そうとしている。
「……起きていたのか」
ハーヴァは、アイピレイスを見て後退る。苛立って壁を蹴っていたことを思い出し、落ち着こうと努めた。
「町で、子どもが死んだ」
「……死んだ? なぜ? 精霊がいるのに」
「そうだ。なのに、ペルシュは死んだ」
「ペルシュ?……ああ! 死なせてしまったのね、そんなつもりではなかったのに」
「知っているのか?」
「昨日、その子が私の息子に怪我をさせたの。だから、
口にしただけよ」
ハーヴァは呆れたように、言う。
数十年に一度起きては町から気に入った男を連れてきて、記憶を消して戻す。子どもを産み、精霊が育てる。
すべてのルディの母親だ。
「……そういうことか」
精霊王セレニアは、賢人の願いを叶えると約束した。
それがこの世界の規則であり、時に、こうした間違いを引き起こす。
アイピレイスは目を伏せた。
いや――再びこういうことが起きないようにするために申し立てをするべきだ。賢人には役割がある。そう、アイピレイスにも。
早足で賢人の間に戻る。足早に通り抜けた先には、精霊王の間へ続く大理石の廊下がある。
高い天窓から降りる光。
白に金箔の装飾が施された両扉。
精霊王に相応しい神々しさだ。しかし、見覚えのない装飾にアイピレイスは顔をしかめた。
狼犬の頭。前に立つ者の影に牙を立てている。
「精霊王の間の扉に、よりによって狼とは……」
いつの間にか背後に立っていたルヨに気付き、振り向かぬまま言った。
「意地の悪い作品を芸術とは呼べないな」
「ふーん。君はそう感じるんだね」
ルヨは興味なさげに答える。何百年経っても子どもの姿をしている不気味な存在だ。
アイピレイスは扉を押し開け、目を見開いた。
濃く甘い酒の香りにまじり、鼻の奥を刺すような鋭い匂いが漂っている。
精霊王セレニアが座るはずの玉座から、気だるげに体を起こし、アイピレイスを出迎えた。
「何かと思えば……招かれざる客だ」
「君が何故そこにいるんだ、ナリファネル!」
乱れた前髪の隙間から不機嫌そうな灰色の瞳が、アイピレイスの頭から足元を
「何百年経ってもお前のセンスは理解できないな、アイピレイス」
「君が何故そこに座っているのか、理由を聞かせてもらいたい」
「精霊王が認めたからだ。それ以外に理由があるか? 理解出来るだろう、本当に優れた一握りの人間だったならば」
「その精霊王は何処にいる」
「今は留守にしているようだ」
「……なら、失礼する。君に用があったわけじゃないのでね」
アイピレイスは、踵を返し部屋を出る。ナリファネルの何を言っているのかわからない鼻歌のようなものが聞こえたが、二度と振り返らなかった。
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