第55話 王からの『栄誉』という名の召喚状

悪代官マルクスが王都へ連行されてから、一月が過ぎた。

ユキノシタ村には、まるで長い冬の終わりを告げる春のように、穏やかで活気に満ちた日々が戻ってきていた。


「よし、今日のノルマ達成だ! 若い衆、後片付け頼んだぞ!」

「おうよ、ゲルトの棟梁!」


私の設立した『知識の工場』からは、職人たちの威勢のいい声と、子供たちのはしゃぐ笑い声が絶え間なく聞こえてくる。

かつてマルクスに搾取されるためだけに動かされていた生産ラインは、今や村の未来を築くための希望のラインへと変わっていた。

生み出された石鹸は、レオニード様の商会を通じて適正な価格で取引され、村には着実に富が蓄積され始めている。飢えも、病の恐怖も、もうここにはない。


「あーう」

腕の中で、ユキが心地よさそうに声を上げる。すっかり首も据わり、最近では私の指を小さな手できゅっと掴むようになった。その確かな重みと温もりが、私の胸をじんわりと満たしていく。


(守れたんだ……。この穏やかな日常を、この子の未来を……)


私は、工場の入り口に立ち、この幸福な光景を目に焼き付けた。

だが、その幸福感の底に、消えない澱のように、あの男の最後の言葉がこびりついていた。


『閣下が本当に欲していたのは……石鹸を作る過程で出る、廃液の方だったのです!』

『あれで、これまでの戦争の形を塗り替える、強力な兵器を作る、と……!』


ニトログリセリン。

私がこの世界に持ち込んでしまった、禁断の知識。

宰相アーチボルド。あの冷たい目をした男は、まだ私を、私の知識を諦めてはいないはずだ。

嵐の前の静けさ。そんな言葉が、不吉に頭をよぎる。


(いや、考えすぎだ。今は、この平和を……)


私がそう自分に言い聞かせた、その時だった。

村の入り口の方から、馬の蹄の音と、人々のざわめきが聞こえてきた。

それは、行商人たちが立てるような賑やかな音ではなかった。統率の取れた、重々しい響き。

村人たちも異変に気づき、工場の外へと顔を出す。


村の広場に現れたのは、泥道には不釣り合いなほど豪奢な、一頭立ての馬車だった。

黒塗りの車体には、金糸で刺繍された王家の紋章が赫々と輝いている。

馬車から降りてきたのは、ビロードの上着をまとった、いかにも高位の役人といった風情の男だった。その両脇を、銀の甲冑に身を固めた二人の近衛騎士が固めている。


「……!」


空気が、凍った。

村人たちの顔から笑みが消え、緊張と不安が伝播していく。

私の隣には、いつの間にか音もなくクロードさんが立っていた。その目は、森の奥で獲物を見つけた狼のように、鋭く使者たちに向けられている。


役人の男は、集まった村人たちを一瞥すると、尊大な態度で口を開いた。

「この村のギルドマスター、リリア殿はおられるかな。国王陛下より、直々の書状をお持ちした」


その言葉に、村人たちの間にどよめきが広がる。

国王陛下から、直々に?

私は、ユキを隣にいた村の女性に預けると、意を決して一歩前に出た。

「……私が、リリアです」


役人は、私を頭のてっぺんからつま先まで値踏みするように見ると、懐から取り出した羊皮紙の巻物を、恭しく差し出した。王家の蝋印で、厳重に封がされている。

私は、震える指でそれを受け取り、封を解いた。

広場に集まった全ての村人が、固唾をのんで私の一挙手一投足を見守っている。


羊皮紙に流れるような筆跡で綴られていたのは、およそ辺境の村のギルドマスターが受け取るには、あまりにも過分な言葉の羅列だった。


「……『ユキノシタ村生産組合ギルドマスター、リリア殿。そなたが開発した技術は、我が国の公衆衛生に多大なる貢献をもたらした。その功績を讃え、ここに王家より最大の栄誉を与えるものなり』……」


私がそこまで読み上げると、村人たちの間から「おお……!」という感嘆の声が漏れた。

ゲルトさんが、目に涙を浮かべている。

だが、書状はまだ続いていた。私は、息を呑んで、その先へと視線を落とす。


「『ついては、その比類なき知識と技術を、我が王国のさらなる発展に活かすべく、リリア殿を王都、王立研究所の『技術顧問』として正式に招聘する。これは、国王陛下ご自身の決定である』……!」


読み終えた瞬間。

一瞬の静寂の後、広場は割れんばかりの大歓声に包まれた。


「うおおおおっ! やったぞ!」

「聖女様が、国に認められたんだ!」

「王立研究所の、技術顧問様だ!」


村人たちが、互いに肩を叩き合い、涙を流して喜んでいる。

彼らにとって、それはマルクスによる圧政を乗り越えた末に勝ち取った、最高の栄誉であり、正義の証明だった。

だが、その熱狂の渦の中心で。

私の頭の中は、急速に、絶対零度まで冷え切っていた。


(来た……!)


私の内なる高橋健太が、警鐘を乱打する。

これは、栄誉などではない。

これは、罠だ。


『功績を讃え』という甘い言葉で飾り立てられた、拒否権のない召喚状。

『技術顧問』という聞こえのいい肩書きを与えられた、監視付きの軟禁生活。

『王国のさらなる発展』という大義名分の下に隠された、おぞましい真の目的。


(―――兵器開発!)


宰相アーチボルド。あの男は、マルクスという駒を失ったことで、より直接的な手段に切り替えてきたのだ。

私自身を、王都という鳥籠に閉じ込め、その知識を根こそぎ搾り取るために。

マルクスの失脚は、勝利ではなかった。

それは、本当の戦いの始まりを告げる、ゴングの音に過ぎなかったのだ。


「……リリア?」


歓喜の輪から少し離れた場所で、クロードさんが、私の名を呼んだ。

彼の声だけが、やけに冷静に私の耳に届く。

私は、歓喜に沸く村人たちの方を、振り返ることができなかった。

彼らの純粋な喜びが、これから私が足を踏み入れなければならない地獄の残酷さを、より一層際立たせる。


「聖女様! これは、ユキノシタ村始まって以来の、めでたい日ですぞ!」

ゲルトさんが、興奮した様子で私の肩を叩く。

私は、羊皮紙を握りしめたまま、ただ、かろうじて笑みを作るのが精一杯だった。


これは栄誉ではない。

これは、宰相アーチボルドによる、『合法的な拉致』の宣告だ。

私の知識が生み出してしまった悪魔を巡る戦いが、今、静かに幕を開けようとしていた。

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お腹の子ごと死を待つだけだったメイド(元男子高校生)が、前世の知識で村を救ったら、愛する我が子と幸せスローライフを手に入れた件 ~私を捨てた男爵一家は、没落の果てに物乞いとなって凍え死んだそうです~ 人とAI [AI本文利用(99%)] @hitotoai

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