第37話 ただいま、私の帰る場所
ガタン、ゴトン、と揺れる馬車の振動が、いつの間にか優しい子守唄に変わっていた。
窓の外を流れる景色から、王都の壮麗な石畳も、活気ある宿場町の喧騒も、とうに消え失せている。
代わりに目に映るのは、見慣れた針葉樹の森と、その枝の間にきらめく、どこまでも白い雪原。
私たちの故郷、ユキノシタ村へと続く道だ。
「……あ」
思わず、小さな声が漏れた。
森を抜けた丘の向こうに、雪に覆われた、素朴な家々の屋根が見える。
煙突からは、白い煙が細く、まっすぐに空へと昇っている。
ああ、帰ってきたんだ。
あの、全てが始まった場所に。
そして、私が命を懸けて守ると誓った、大切な場所に。
腕の中では、息子のユキがすうすうと穏やかな寝息を立てている。
王都での激闘の日々が、まるで遠い夢の中の出来事のように感じられた。
(宰相アーチボルド…)
心の中で、あの氷のような瞳を思い出す。
私という『道具』を手に入れた、この国で最も危険な権力者。
王家の後援という輝かしい『盾』は、同時に、彼の管理下に置かれたことを示す、冷たい『首輪』でもある。
本当の戦いは、まだ始まったばかりなのかもしれない。
でも。
「……リリア様。見えてきましたな」
向かいの席に座るレオニード様が、窓の外を眺めながら、穏やかな声で言った。
彼の表情には、王都で見せた獰猛な野心家の顔はなく、ただ、一つの事業を成功させた達成感に満ちた、晴れやかな笑みが浮かんでいる。
そうだ。今は、未来への不安よりも、勝ち取った勝利を噛みしめる時だ。
やがて、馬車が村の入り口に差し掛かった時、私は自分の目を疑った。
村の入り口から広場にかけて、見たこともないほどの人だかりができていたのだ。
子供も、大人も、年寄りも、村中の人間が、まるで王様のパレードでも待つかのように、私たちの馬車が来るのを今か今かと待ち構えている。
「な、なんでしょうか、あれは…!」
「ふふ、決まっていますでしょう。英雄の凱旋を、村を挙げて歓迎しているのですよ」
レオニード様が、楽しそうに笑う。
馬車がゆっくりと村の中へ入ると、地鳴りのような歓声が、私たちを包み込んだ。
「うおおおおっ! 聖女様だ!」
「リリア様が、お帰りになられたぞーっ!」
「ギルドマスター様! 万歳!」
村長が、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、馬車の扉に駆け寄ってくる。
「リリア殿…! いや、ギルドマスター殿! よくぞ…! よくぞご無事で…!」
「村長さん、ただいま戻りました」
私が馬車から降りると、村人たちがわっと私を取り囲んだ。
彼らの瞳には、以前の絶望の色などどこにもない。
あるのは、私という存在への、絶対的な信頼と、未来への輝かしい希望の光だけだった。
「リリア様のおかげで、商人たちがひっきりなしに村へやってくるようになったんだ!」
「おかげで、この冬は腹一杯飯が食えるよ!」
「ありがとう、聖女様!」
「ありがとう、ギルドマスター!」
もみくちゃにされながら、私は必死に笑顔を返す。
その喧騒の中で、少し離れた場所に、静かに佇む影を見つけた。
クロードさんだ。
彼は、腕を組んで柱に寄りかかり、いつもの無表情で、この熱狂を眺めている。
だけど、その瞳の奥に、ほんのわずかな、安堵のような光が灯っているのを、私は見逃さなかった。
私は、村人たちに「少しだけ、すみません」と断り、彼の方へと歩いていく。
そして、腕の中のユキを、そっと見せた。
「見てください、クロードさん。ユキも、こんなに大きくなりました」
「……ああ」
クロードさんは、短く応えると、ごつごつした指先で、ユキの柔らかな頬を、壊れ物を扱うかのように、そっと撫でた。
その、あまりにも不器用で、あまりにも優しい手つきに、私の胸がきゅっと熱くなる。
「……ただいま、なさい。クロードさん」
私の言葉に、彼は少しだけ目を見開いた。
そして、ふっと、本当にわずかに、その口元を緩ませた。
「ああ。……ただいま」
帰ってきた。
本当に、帰ってきたんだ。
私たちの、帰るべき場所に。
その夜、村では盛大な祝祭が開かれた。
広場には大きな焚き火が焚かれ、村人たちが持ち寄ったご馳走が、長テーブルの上に所狭しと並べられている。
私がもたらした発酵技術で作られたどぶろくが振る舞われ、あちこちで陽気な歌声や笑い声が響き渡っていた。
私は、村の女性たちに囲まれ、ユキを抱かせてもらいたいとせがまれていた。
「まあ、なんて可愛い赤子なんだべ!」
「さすがは聖女様のお子だ。神々しい…」
ユキは、たくさんの人に囲まれても物怖じすることなく、きゃっきゃと嬉しそうに笑っている。
その光景を、私は、心の底からの幸福感と共に眺めていた。
少し離れた場所では、レオニード様が、村長や職人たちを相手に、熱弁を振るっていた。
「…いいですか! 王都での需要は、皆さんの想像を遥かに超えています! この村の生産能力を、今後半年で、最低でも十倍に引き上げなければなりません!」
「じゅ、十倍ですかい!?」
「そのための資金援助は、我がギルドが惜しみません! さあ、ユキノシタ村の、輝かしい未来のために、乾杯!」
「「「おおーっ!」」」
誰もが、希望に満ちていた。
誰もが、輝かしい未来を信じて疑わなかった。
私も、そうだ。
この幸福な光景が、ずっと、ずっと続いていくのだと、信じていた。
祝祭の喧騒から少しだけ離れ、私は、夜空を見上げた。
満天の星が、澄み切った冬の空気の中で、宝石のように瞬いている。
王都の空とは比べ物にならないほど、美しい星空だった。
(見ていてね、ユキ。お母さん、やったよ)
心の中で、天国の息子に語りかける。
そして、腕の中の、もう一人のユキを、ぎゅっと抱きしめた。
ここが、私たちの帰る場所。
ここが、私たちが守り抜いた、かけがえのない日常。
これから、どんな困難が待ち受けていようとも。
この温もりと、この笑顔がある限り、私は、絶対に負けない。
私は、この村のギルドマスターとして、みんなの未来を、必ず守り抜いてみせる。
そう、固く、固く、誓った。
この、束の間の平和が、やがて、公権力という名の、より理不尽な悪意によって踏みにじられることになるなど、まだ、知る由もなかった。
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