第36話 新たな火種と帰路
ガタン、ゴトン、と規則正しい馬車の振動が、心地よい眠りを誘う。
窓の外には、王都の壮麗な石造りの建物はもう見えない。どこまでも続く、緑豊かな田園風景が、ゆっくりと後ろへ流れていくだけだ。
腕の中では、息子のユキがすうすうと穏やかな寝息を立てている。あの王都での喧騒が、まるで遠い昔の出来事のようだ。
(…勝ったんだ。私たちは)
心の中で、前世の高橋健太が静かに呟く。
そうだ。私たちは勝った。
香料ギルドという巨大な壁を打ち破り、『ユキノシタ村生産組合』は王家の後援という、これ以上ないお墨付きまで手に入れた。
もう、私たちの仕事を邪魔する者はいない。
ユキノシタ村は、これからどんどん豊かになる。ユキも、村のみんなも、もう飢えや病に怯えることはないんだ。
そう思うと、胸の奥から温かいものがこみ上げてくる。
「……リリア様」
ふと、向かいの席に座っていたレオニード様が、静かに私を呼んだ。
彼の表情は、王都での勝利を祝うそれとは程遠い、硬く、そして険しいものだった。
そのただならぬ雰囲気に、私の心に浮かんでいた楽観的な考えは、すっと霧のように消え去った。
「はい。なんでしょうか」
「少し、お耳に入れておきたい情報がございまして」
彼は声を潜め、馬車の外を警戒するように一瞥した。
外では、クロードさんとレオニード様の部下たちが、馬に乗って周囲を固めている。その姿を確認すると、レオニード様は再び私に向き直った。
「王都を発つ直前に、確かな筋から報告が。―――エルネスト・ド・ヴァリエール卿が、失踪したそうです」
「…え?」
失踪?
あの、エルネスト卿が?
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「失踪、ですか? 夜逃げでもしたということでしょうか…」
「分かりません。屋敷からも、ギルドからも、忽然と姿を消した、と。まるで、神隠しにでもあったかのように」
神隠し。
その言葉の不穏な響きに、背筋がすっと冷たくなる。
あのプライドの高い老人が、全てを捨てて逃げ出すとは到底思えない。
ならば、一体…。
(まさか…消された?)
高橋健太の脳裏に、最悪の可能性がよぎる。
私たちが彼を失脚させたことで、誰かから恨みを買い、その報復を受けた…?
いや、それもおかしい。彼を恨む人間は多いだろうが、わざわざこのタイミングで、あんな権力者を消せる人間など、そういるはずがない。
私の混乱を見透かしたように、レオニード様は、さらに重い事実を告げた。
それは、点と点を繋ぎ、恐ろしい絵を完成させる、最後の一つのピースだった。
「そして、もう一つ。彼が失った香料ギルドの利権のほとんどは、現在、ある人物の派閥によって、速やかに吸収されつつあるとのことです」
ごくり、と私は息を呑んだ。
レオニード様の目が、私をまっすぐに見据えている。
彼の唇が、静かに、その人物の名前を紡いだ。
「―――宰相、アーチボルド卿、です」
その名前を聞いた瞬間、私の脳裏に、あの謁見の間の光景が、鮮明に蘇った。
玉座の隣に、影のように佇んでいた、あの老人。
能面のような無表情。
そして、私を、頭のてっぺんから爪先まで、値踏みするように見つめていた、氷のように冷たい瞳。
(ああ…そういう、ことか…)
全てのピースが、カチリ、と音を立ててはまった。
なぜ、あの時、あれほどの悪寒を感じたのか。
なぜ、彼の視線が、人間を見る目ではなかったのか。
その理由が、今、痛いほどに分かってしまった。
「…宰相閣下にとって、エルネスト卿は、もはや用済みだったのですね」
私の口から、乾いた声が漏れた。
レオニード様は、驚いたように少し目を見開いたが、すぐに静かに頷いた。
「…ご明察の通りです。エルネスト卿は、宰相閣下の派閥に連なる、古い駒の一つに過ぎなかった。そして、貴女という、より新しく、より有用な駒が手に入った今、古い駒は…ただ邪魔なだけだった」
駒。
そうだ。あの視線は、まさにそれだった。
手に入れた駒の価値を、冷徹に値踏みする目。
あの人にとって、私は『雪解けの聖女』でも、ギルドマスターでもない。
ただ、彼の権力闘争に利用できる、便利な『道具』なのだ。
国王陛下が与えてくださった、王家の後援。
それは、私たちの未来を守る『盾』であると同時に、宰相閣下が私という『道具』を、彼の管理下に置くための、巧妙な『首輪』でもあったのだ。
「私たちは、とんでもない相手に目をつけられてしまいましたね…」
「ええ。香料ギルドなど、ただの蜥蜴の尻尾に過ぎなかった。我々は、知らず知らずのうちに、この国で最も巨大な竜の顎(あぎと)に、自ら飛び込んでしまったのかもしれません」
レオニード様の静かな声が、馬車の中に重く響く。
勝利の余韻など、どこにもなかった。
私たちは、一つの戦いに勝っただけ。
そしてその勝利が、私たちを、さらに巨大で、さらに危険な、本当の戦場へと引きずり出してしまったのだ。
守るべきものが、増えた。
ユキノシタ村。
ギルドの仲間たち。
そして、私の隣で、絶対的な信頼を寄せてくれる、この人たちも。
ぞわり、と恐怖が背中を駆け上る。
だが、その恐怖を、腕の中の温もりが、ゆっくりと溶かしていく。
すやすやと眠る、ユキの寝顔。
この子の未来を守るためなら。
この子たちが笑って暮らせる世界を作るためなら。
(道具で、終わるつもりなんてない)
私の心の中で、高橋健太が、静かに、しかし燃えるような闘志を宿して呟いた。
利用されるだけなんて、ごめんだ。
あんたが私を駒として使うなら、私は、あんたのその盤上ごと、ひっくり返してやる。
私は、腕の中のユキを、ぎゅっと強く抱きしめた。
そして、窓の外に目を向ける。
遠ざかっていく王都。
そして、その先に広がる、私たちの故郷へと続く道。
本当の戦いは、きっと、これから始まる。
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