第2話 嫉妬の狂気と裏切りの烙印
執務室の扉が閉まる音は、まるで墓石が置かれる音のようだった。
私はその場にへたり込みそうになるのを必死でこらえ、震える足で廊下を歩く。
(嘘だ…嘘だと言って…)
さっきまでの男爵様の言葉が、頭の中で何度も何度も繰り返される。
『誰の子だ、それは』
『みすぼらしいメイド風情が』
『嫉妬深い私の妻にこのことが知れたら…』
最後の希望は、粉々に砕け散った。
それどころか、私は今、時限爆弾を抱えさせられたようなものだ。男爵夫人に知られたら、終わり。文字通り、私の人生は終わってしまう。
(どうしよう…どうすればいいの…?)
壁に手をつき、荒い息を整える。
吐き気がこみ上げてきて、口元を押さえた。悪阻なのか、それとも絶望のせいなのか、もうわからなかった。
ただ一つ確かなのは、この屋敷はもう、私の居場所ではないということ。
けれど、孤児院育ちの私に、他に帰る場所なんてどこにもない。お腹の子を抱えて、冬の街に放り出されたら、私たちは二日と持たずに凍え死んでしまうだろう。
(逃げないと…でも、どこへ…?)
思考はぐるぐると同じ場所を回り続け、答えなんて見つかりはしなかった。
◇
その日の午後、私は中庭の掃除を言いつけられていた。
冷たい風が容赦なく薄いメイド服を通り抜け、体の芯から凍えていく。悪阻のせいで朝から何も喉を通らず、ほうきを持つ手にも力が入らない。
「…リリア」
氷のように冷たい声に呼ばれ、びくりと肩が跳ねた。
振り向くと、そこには男爵夫人が、彫像のように無表情な顔で立っていた。
「お、奥様…! ごきげんようございます」
慌てて頭を下げると、夫人はゆっくりと私に近づいてくる。その足音だけが、やけに大きく響いた。
「あなた、最近顔色が優れないようだけれど。何かあったのかしら?」
「い、いえ! 何でもございません! 私の不注意です!」
心臓が早鐘のように鳴り響く。
(バレてない…まだ、バレてないはず…!)
自分に言い聞かせるが、夫人の目は、まるで私の心の中まで見透かしているかのように、鋭く細められていた。
「そう? けれど、他のメイドたちが噂していたわよ。『リリアは最近、食事の匂いを嗅いだだけで吐き気を催している』…と」
ひゅっ、と喉が鳴った。
血の気が一気に引いていくのがわかる。
「そ、それは…その…少し、お腹の調子が悪いだけで…」
「お腹、ですって?」
夫人の声の温度が、さらに数度下がった。
彼女の視線が、私の腹部へと突き刺さる。まだほとんど膨らみもないはずなのに、まるで全てを暴かれてしまったかのような羞恥と恐怖に襲われた。
「まさかとは思うけれど…あなた、身に覚えのない懐妊など、していないでしょうね?」
断罪の言葉だった。
もう、ごまかしはきかない。
私は、ただ青ざめて首を横に振ることしかできなかった。
「…そう。汚らわしい」
パァン!
乾いた音が響き、私の左頬に灼熱の痛みが走った。
何が起きたのか理解できず、呆然と頬を押さえる。
「この…泥棒猫がッ!」
今まで聞いたこともないような、憎悪に満ちた金切り声。
夫人の顔は、嫉妬の炎で醜く歪んでいた。
「よくも…! よくも私の夫を誘惑してくれたわね! あなたのような下賤の者が、このバルトロ家の血を汚すなど、万死に値するわ!」
「ち、違います…! 私は、誘惑なんて…!」
「まだ言うの!?」
二度目の平手打ちが、私の言葉を遮った。
口の中に鉄の味が広がる。
「誰の子とも知れぬ穢れた子を孕んでおいて、それを主人の子だと偽るつもりだったのでしょう! この家を乗っ取るつもりだったのでしょう! なんて浅ましい女!」
違う。違う、違う、違う!
あなたの夫が、私に無理やり…!
叫び出したいのに、声が出ない。恐怖で体が石のように固まってしまった。
その時だった。
「何事だ、騒々しい」
聞き覚えのある声に、私は最後の望みを託して顔を上げた。
中庭に現れたのは、騒ぎを聞きつけたバルトロ様だった。
「あ、あなた…!」
夫人が、涙ながらに男爵様に駆け寄る。
「聞いてくださいまし! この女が…このリリアが、不義の子を孕んだのです! きっと、私の夫であるあなたの子だと偽って、私たちを陥れるつもりだったに違いありません!」
(バルトロ様…! お願い、本当のことを言って…!)
心の中で、必死に祈った。
今、この場で彼が真実を話してくれさえすれば。奥様をなだめてくれさえすれば、まだ助かるかもしれない。
彼は、私の父親になる人なのだから。
男爵様は、一瞬だけ私に視線を向けた。その目には、憐憫も、後悔も、何の色も映ってはいなかった。
ただ、氷のように冷たい、計算だけがあった。
やがて彼は、悲劇の夫を演じるように、苦悶の表情で妻の肩を抱いた。
「おお、我が妻よ…! なんてことだ…!」
「あなた…!?」
「実は、私もこの女に言い寄られて困っていたのだ! 私が相手にしないものだから、腹いせにどこぞの馬の骨とも知れぬ男と子を作り、それを私の責任だと押し付けようとしていたに違いない!」
(え…?)
何を、言っているの…?
目の前で繰り広げられる光景が、信じられなかった。
「この淫らなメイドめ! 私の妻を悲しませたばかりか、バルトロ家の名誉まで汚すとは、万死に値するぞ!」
男爵様は、まるで私が長年の宿敵であったかのように、憎悪のこもった声で私を指さした。
その瞬間、私の世界から、完全に音が消えた。
ああ、そうか。
この人たちは、二人で私を悪者に仕立て上げるつもりなんだ。
全ての罪を私一人になすりつけて、自分たちは何も悪くない可哀想な被害者になるつもりなんだ。
周りに集まってきた他のメイドたちが、ひそひそと何かを囁いている。
『まあ、汚らわしい…』
『男爵様を誘惑するなんて、なんて厚かましい女』
『きっとお金目当てだったのよ』
軽蔑と嘲笑の視線が、無数の針となって私に突き刺さる。
味方は、どこにもいなかった。
私は、この屋敷でたった一人、裏切り者と不義を働いた女の烙印を押されたのだ。
男爵夫人が、勝ち誇ったような笑みを浮かべて私の前に立つ。
「聞こえましたか、リリア。あなたの罪は明らかになりました」
「……」
「ですが、すぐに追い出しては、あなたへの『躾』が足りませんわね」
夫人は私の髪を乱暴に掴むと、耳元で蛇のように囁いた。
「明日からは、その汚らわしい腹が目立たなくなるまで、みっちりと『教育』して差し上げます。感謝なさいな」
絶望という名の暗闇が、私の全てを飲み込んでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます