第2話 嫉妬の狂気と裏切りの烙印

執務室の扉が閉まる音は、まるで墓石が置かれる音のようだった。

私はその場にへたり込みそうになるのを必死でこらえ、震える足で廊下を歩く。


(嘘だ…嘘だと言って…)


さっきまでの男爵様の言葉が、頭の中で何度も何度も繰り返される。

『誰の子だ、それは』

『みすぼらしいメイド風情が』

『嫉妬深い私の妻にこのことが知れたら…』


最後の希望は、粉々に砕け散った。

それどころか、私は今、時限爆弾を抱えさせられたようなものだ。男爵夫人に知られたら、終わり。文字通り、私の人生は終わってしまう。


(どうしよう…どうすればいいの…?)


壁に手をつき、荒い息を整える。

吐き気がこみ上げてきて、口元を押さえた。悪阻なのか、それとも絶望のせいなのか、もうわからなかった。

ただ一つ確かなのは、この屋敷はもう、私の居場所ではないということ。

けれど、孤児院育ちの私に、他に帰る場所なんてどこにもない。お腹の子を抱えて、冬の街に放り出されたら、私たちは二日と持たずに凍え死んでしまうだろう。


(逃げないと…でも、どこへ…?)


思考はぐるぐると同じ場所を回り続け、答えなんて見つかりはしなかった。



その日の午後、私は中庭の掃除を言いつけられていた。

冷たい風が容赦なく薄いメイド服を通り抜け、体の芯から凍えていく。悪阻のせいで朝から何も喉を通らず、ほうきを持つ手にも力が入らない。


「…リリア」


氷のように冷たい声に呼ばれ、びくりと肩が跳ねた。

振り向くと、そこには男爵夫人が、彫像のように無表情な顔で立っていた。


「お、奥様…! ごきげんようございます」

慌てて頭を下げると、夫人はゆっくりと私に近づいてくる。その足音だけが、やけに大きく響いた。


「あなた、最近顔色が優れないようだけれど。何かあったのかしら?」

「い、いえ! 何でもございません! 私の不注意です!」


心臓が早鐘のように鳴り響く。

(バレてない…まだ、バレてないはず…!)


自分に言い聞かせるが、夫人の目は、まるで私の心の中まで見透かしているかのように、鋭く細められていた。


「そう? けれど、他のメイドたちが噂していたわよ。『リリアは最近、食事の匂いを嗅いだだけで吐き気を催している』…と」


ひゅっ、と喉が鳴った。

血の気が一気に引いていくのがわかる。


「そ、それは…その…少し、お腹の調子が悪いだけで…」

「お腹、ですって?」


夫人の声の温度が、さらに数度下がった。

彼女の視線が、私の腹部へと突き刺さる。まだほとんど膨らみもないはずなのに、まるで全てを暴かれてしまったかのような羞恥と恐怖に襲われた。


「まさかとは思うけれど…あなた、身に覚えのない懐妊など、していないでしょうね?」


断罪の言葉だった。

もう、ごまかしはきかない。

私は、ただ青ざめて首を横に振ることしかできなかった。


「…そう。汚らわしい」


パァン!

乾いた音が響き、私の左頬に灼熱の痛みが走った。

何が起きたのか理解できず、呆然と頬を押さえる。


「この…泥棒猫がッ!」


今まで聞いたこともないような、憎悪に満ちた金切り声。

夫人の顔は、嫉妬の炎で醜く歪んでいた。


「よくも…! よくも私の夫を誘惑してくれたわね! あなたのような下賤の者が、このバルトロ家の血を汚すなど、万死に値するわ!」

「ち、違います…! 私は、誘惑なんて…!」

「まだ言うの!?」


二度目の平手打ちが、私の言葉を遮った。

口の中に鉄の味が広がる。


「誰の子とも知れぬ穢れた子を孕んでおいて、それを主人の子だと偽るつもりだったのでしょう! この家を乗っ取るつもりだったのでしょう! なんて浅ましい女!」


違う。違う、違う、違う!

あなたの夫が、私に無理やり…!


叫び出したいのに、声が出ない。恐怖で体が石のように固まってしまった。

その時だった。


「何事だ、騒々しい」


聞き覚えのある声に、私は最後の望みを託して顔を上げた。

中庭に現れたのは、騒ぎを聞きつけたバルトロ様だった。


「あ、あなた…!」

夫人が、涙ながらに男爵様に駆け寄る。

「聞いてくださいまし! この女が…このリリアが、不義の子を孕んだのです! きっと、私の夫であるあなたの子だと偽って、私たちを陥れるつもりだったに違いありません!」


(バルトロ様…! お願い、本当のことを言って…!)


心の中で、必死に祈った。

今、この場で彼が真実を話してくれさえすれば。奥様をなだめてくれさえすれば、まだ助かるかもしれない。

彼は、私の父親になる人なのだから。


男爵様は、一瞬だけ私に視線を向けた。その目には、憐憫も、後悔も、何の色も映ってはいなかった。

ただ、氷のように冷たい、計算だけがあった。


やがて彼は、悲劇の夫を演じるように、苦悶の表情で妻の肩を抱いた。


「おお、我が妻よ…! なんてことだ…!」

「あなた…!?」

「実は、私もこの女に言い寄られて困っていたのだ! 私が相手にしないものだから、腹いせにどこぞの馬の骨とも知れぬ男と子を作り、それを私の責任だと押し付けようとしていたに違いない!」


(え…?)


何を、言っているの…?

目の前で繰り広げられる光景が、信じられなかった。


「この淫らなメイドめ! 私の妻を悲しませたばかりか、バルトロ家の名誉まで汚すとは、万死に値するぞ!」


男爵様は、まるで私が長年の宿敵であったかのように、憎悪のこもった声で私を指さした。

その瞬間、私の世界から、完全に音が消えた。


ああ、そうか。

この人たちは、二人で私を悪者に仕立て上げるつもりなんだ。

全ての罪を私一人になすりつけて、自分たちは何も悪くない可哀想な被害者になるつもりなんだ。


周りに集まってきた他のメイドたちが、ひそひそと何かを囁いている。

『まあ、汚らわしい…』

『男爵様を誘惑するなんて、なんて厚かましい女』

『きっとお金目当てだったのよ』


軽蔑と嘲笑の視線が、無数の針となって私に突き刺さる。

味方は、どこにもいなかった。

私は、この屋敷でたった一人、裏切り者と不義を働いた女の烙印を押されたのだ。


男爵夫人が、勝ち誇ったような笑みを浮かべて私の前に立つ。


「聞こえましたか、リリア。あなたの罪は明らかになりました」

「……」

「ですが、すぐに追い出しては、あなたへの『躾』が足りませんわね」


夫人は私の髪を乱暴に掴むと、耳元で蛇のように囁いた。


「明日からは、その汚らわしい腹が目立たなくなるまで、みっちりと『教育』して差し上げます。感謝なさいな」


絶望という名の暗闇が、私の全てを飲み込んでいった。

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