第28話 非合理的だ!ばかーーー!!
俺は、コンビニの袋を片手に、津島先輩に教えてもらった住所の前に立ち尽くしていた。
「……」
そこは、どう見ても家というより屋敷だった。 どこまでも続きそうな高い塀。その上には、いかめしい瓦屋根。 そして、門柱に掲げられた木の表札。
(……マジか。ガチのお屋敷だ)
俺は、手元のコンビニ袋のカサカサという音を、妙に場違いに感じていた。
(……コンビニのプリンで、良かったのか……?)
だが、ここまで来て引き返すという選択肢もない。 俺は意を決し、その重厚そうな門構えのインターホンに、恐る恐る指を伸ばした。
ピンポーン、と、やけに上品なチャイムが鳴る。 数秒後、静かに玄関の引き戸が開き、中から一人の女性が現れた。
黒江先輩……ではなかった。 上品な薄紫色の和服を、きっちりと着こなした、彼女の『母親』らしき女性だった。黒江先輩と目元がよく似ている。
「……はい。どちら様でいらっしゃいますか?」
静かで、涼やかな声だった。
「あ、えっと、学校の……同じ部活の者です!」
俺は、背筋を伸ばし、慌ててまくし立てた。
「黒江先輩が風邪で休まれたと聞いて、部活の資料を渡しに……!」
俺の制服を見た彼女の母親は、少しだけ驚いたように目を見開いた。
「まあ、文芸部の……」
彼女は、ふわりと黒江先輩とは違う、柔らかな笑みを浮かべた。
「あの子の、お友達が来てくださるなんて、初めてで……」
(え、友達……初……?)
「立ち話もなんですものね。どうぞ、お入りくださいな。あの子の部屋までご案内します」
俺は、断る隙もなく、その城の内部へと招き入れられることになった。
「どうぞ、こちらです」
母親に案内され、俺はビクビクしながらお屋敷の奥にある襖の前に立った。 静かに襖が開けられる。
「……っ」
俺は、その部屋の光景に、息を飲んだ。 広々とした、畳敷きの和室。
だが、その壁という壁が、床から天井まで、ぎっしりと本で埋め尽くされていた。 『日本文学全集』『世界哲学大系』『〇〇選集』……。
難解なタイトルが、背表紙をずらりと並べている。
ここはまさに、彼女の『合理的』な思考で築き上げられた、知識の『城』だった。
そして、その『城』の中心。 部屋の真ん中に敷かれた布団の山から、その城の主が、顔だけを真っ赤にして出していた。
黒江先輩だった。
彼女は、熱で目が潤み、いつも綺麗に下ろされている黒髪も、今は枕との摩擦でぐしゃぐしゃに乱れている。 きわめて『非合理的』で、無防備な姿を晒していた。
「……ん……」
来客の気配に気づいたのか、彼女はゆっくりと重そうにまぶたを開け、そちらを見た。
そして、俺と目が合った。
「………………え?」
黒江先輩の潤んだ目が、カッと見開かれる。 数秒間の、完璧なフリーズ。
次の瞬間、彼女は、自分が風邪で寝込んでいる無防備な姿を、俺に見られたという事実に気づいた。
「ゲホッ! ゲホッ!」
彼女は、布団から勢いよく跳ね起きようとして、激しく咳き込んだ。 そして、真っ赤な顔で俺を指差した。
「な、な、な、なぜ君がいる!?合理的説明を!」
ゲホッ、と激しく咳き込みながらも、黒江先輩は、布団を胸元まで引き上げ、まるで盾にするかのように俺を睨みつけた。
「こ、ここは僕のプライベート空間だ!『合理的分析』の対象外だぞ!侵入だ!」
「お、落ち着いてください、水持ってきましょうか」
あまりのパニックぶりに、俺は慌ててコンビニの袋を彼女の枕元――積み上げられた文学全集のタワの前に置いた。
そして、あえて、ここ数日彼女に叩き込まれた口調を真似て、キリッとした顔で言った。
「落ち着いてください、黒江先輩。俺は、編集長の『責務』として、部員の体調管理に来ました」
「なっ……!そんな『責務』は存在しない!」
「あと、これ」
俺は、彼女のツッコミをスルーし、自分のカバンから数枚のルーズリーフを取り出した。
例の『合理的会議』のレジュメ。俺なりに、次のコンクールのこと、まとめてみたんで」
それは、黒江先輩との文学論争を反芻しながら、こっそりまとめていた今後の活動方針メモ。 もちろん、俺のラノベ的解釈も少し入った反論もバッチリ書き込んである。 俺は、それをスポーツドリンクの横に、そっと差し出した。
「……レジュメ……?」
黒江は、熱にうなされ、潤んだ目で俺の差し出したルーズリーフを見た。 その『レジュメ』という単語に、彼女の鈍った思考が反応する。
彼女は、布団から震える手をそろそろと伸ばし、そのレジュメを受け取った。
そこには、几帳面な彼女の文字とは違う、男子高校生らしい文字で、ここ数日の『合理的会議』の要点がまとめられていた。 彼女の文学論と、軽井沢のラノベ論が、奇妙に融合したように見える分析が。
「……ばか……」
彼女は、レジュメを見つめたまま、か細い声で呟いた。
「え?」
俺は、あまりに唐突な悪態に聞き返す。
「……軽井沢の、ばか……」
その声は、怒っているというより、拗ねている子供のようだった。
そして、熱に浮かされたまま、彼女の本音が合理的な堰を越えて、そのまま漏れ出した。
「……君が、津島とばかり、楽しそうに話すから……」
「え……?」
「……私の『合理化』が、……追いつかなくて……」
「え……?」
俺は、一瞬、何を言われたのか分からなかった。 『津島とばかり話すから』? 『合理化が、追いつかない』? ……それって、つまり。
俺は、その『非合理』な本音に気づき、心臓が激しく跳ね上がった。
俺のその反応を見て、黒江先輩も、自分が何を言ったのかをようやく理解したらしい。
「……あ」
しん、と静まり返った和室。 数秒間の、完璧な沈黙。
(カアアアァァッ……!)
黒江先輩の顔が、熱のせいなのか、羞恥のせいなのか、もはや判別がつかないほどに爆発したように真っ赤になった。
「……!」
彼女は、次の瞬間、 バサッッ!! と、布団乾燥機にかけたかのような勢いで、布団を頭まですっぽりとかぶってしまった。
部屋の中心に、ただ、もぞもぞと動く布団の山だけが残された。
「……か、帰れ!」
布団の中から、くぐもった大声が響いた。
「いや、でも、プリン……」
俺は、枕元に置いたお見舞い品を指差すが、布団の山は当然それを見ない。
「今すぐ帰れ!!合理的判断だ!」
「いや、どう考えても非合理的……」
「非合理的だ!ばかーーー!!」
布団の中から聞こえてくるもはや論理が破綻した絶叫に、俺はこの状況でどうしろと……と呆然と立ち尽くすしかなかった。
「……っ、じゃあ、プリンとスポドリ、ここに置いときますね!」
俺は、枕元にコンビニの袋をそっと置いた。
「あと、レジュメも!目、通しておいてください! お大事に!」
俺はそそくさと部屋を後にした。
廊下まで見送りに出てきてくれた黒江先輩の母親に、「あ、お騒がせしました……」と深々と頭を下げ、俺は、あの立派すぎるお屋敷から、ようやく解放された。
カタン、と重い門が閉まる。 外に出ると、秋の冷たい風が、さっきまで黒江先輩の部屋の熱気と、俺自身の緊張で火照っていた頬に、やけに心地よかった。
「……なんだったんだ、今の」
俺は、とぼとぼと駅への道を歩きながら、さっきの光景を反芻する。
――熱で潤んだ瞳。 ――いつもとはまったく違う、乱れた髪と、無防備な浴衣姿。 ――そして、爆発したように真っ赤になった、あの顔。
『……君が、津島とばかり、楽しそうに話すから……』
『……私の『合理化』が、……追いつかなくて……』
(……あれって、つまり……)
ラノベ的な解釈をするなら、どう考えても、アレは……。
(……いや、でも、あの黒江先輩が? 俺に?まさか……)
熱にうなされた、ただのうわごとか。
「……わかんねえよ……」
俺は、自分の顔まで黒江先輩の顔を思い出して赤くなっているのをごまかすように、ガシガシと頭をかきむしった。
昨日、俺に「編集長さん」と嬉しそうに笑った津島先輩の顔と、今、布団にくるまって「ばかー!」と叫んだ黒江先輩の顔が、頭の中で『非合理的』に交錯する。
(……マジで、どうなってんだ)
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