第五章 合理的な訪問
第25話 君と僕の『責務』だ
あの体育祭以来、文芸部室の空気は、微妙に変化していた。
特に、津島先輩だ。
以前のように机に突っ伏して「……ごめんなさい……」と呟いている時間が目に見えて減った。 その代わりに。 何かと理由をつけては、俺の席の近くをうろついたり、視線を感じて振り向くと、バッと顔をそらされたりすることが増えた。
その日も、俺がラノベを読んでいると、おずおずとした足音が近づいてきた。 津島先輩だった。 彼女は、両手で小さな紙袋を握りしめている。
「……あ、軽井沢くん……」
「あ、はい。どうしました?」
俺が顔を上げると、津島先輩は、顔を赤らめながら、その紙袋をそっと俺の机に差し出した。
「……こ、これ、この間のハンカチのお礼の……クッキー……」
「え?」
「私が焼いたんだけど……迷惑、かな……」
差し出されたのは、形は少し不格好だが、丁寧に、彼女の『美学』が発揮されたかのようにラッピングされた手作りクッキーだった。
「うわ、手作りですか!」
俺は、思わず素で喜んでしまった。
「ありがとうございます! めちゃくちゃ嬉しいです!」
俺が素直に喜んでクッキーを受け取ると、津島先輩は安心したようにふわりと笑った。 その笑顔は、体育祭で走り切った時のものよりも、さらに自然になっていた。
◇
その和気あいあいとした二人のやり取り。
軽井沢がクッキーに喜び、津島が素直な笑顔を見せる、その一部始終を。
部室の奥、黒江が顔を上げずに、その視線だけを動かして横目でじっと見ていた。
彼女の冷徹な視線は、軽井沢が受け取ったクッキーと、津島の無防備な笑顔に突き刺さっている。
カチリ。
彼女は、握りしめていた万年筆のキャップを、静まり返った部室に、小さな音を立てて閉めた。
(……非合理的だ)
黒江の内心は、冷静なはずの分析を始めていた。
(体育祭以降、軽井沢の『リソース』が、津島一人の『ケア』に偏って消費されている。クッキーを受け取る時間、会話する時間、ハンカチの貸し借り……それらの時間的コストが、すべて蓄積している)
(……なぜだ)
だが、その冷静な分析とは裏腹に、胸の奥が、あの体育祭の日のように『非合理的』に、ざわつく。 あの二人が笑い合っている光景が思考をかき乱す。
(……いかん)
黒江は、その胸のもやもやを、無理やりロジックで蓋をした。
(このままでは、文芸部全体の『合理的運営』に、明確な支障をきたす。……早急に、軌道修正が必要だ)
◇
黒江先輩は、本を音もなく閉じると、静かに立ち上がった。
そして、俺と津島先輩が談笑している空間に、なんの躊躇もなく、ズカズカと割り込んできた。 文字通り、俺と津島先輩の間に物理的に体をねじ込むように。
「ひゃっ」
突然、目の前に現れた黒江先輩に、津島先輩が小さく驚きの声を上げ、一歩下がる。 俺も、ちょうど「ありがとう」とクッキーを一枚口に入れかけたまま、固まった。
「え、黒江先輩?」
黒江先輩は、そんな俺の持つクッキーには一切触れず、氷のような瞳で、俺を真正面から見据えた。
「軽井沢くん」
「え?……しゃ、しゃむでふか?」
俺が、クッキーで口をもごもごさせながら聞き返す。
黒江先輩の眉が、イラッとしたようにピクリと動いた。
「体育祭の浮ついた空気は終わりだ。我々は次へ進む必要がある」
彼女は、有無を言わせぬ口調で宣告する。 そして、一つ咳払いをして、あえて津島先輩にも聞こえるように、続けた。
「……よって、我々二人で、早急に、今後の活動方針について『合理的分析』を行う。今すぐだ」
『二人で 』
その部分が、妙に強調されている気がした。
「え!? い、今すぐ!?」
俺が驚きの声を上げると、黒江先輩は、すっと周囲を見渡した。
「そして、この部室は『非合理的』だ」
「え?」
「楯野の情熱や、津島の……咳払い……こういった雑談が入る余地がある。集中できる環境ではない」
「じゃあ、どこで……」
「図書館の会議室を、すでに予約しておいた」
(……は!? 予約!?)
いつの間に……。 俺が、彼女のその計画性に戦慄していると、黒江先輩は俺の腕をためらいなく掴んだ。
「行くぞ、軽井沢くん。君と僕の『責務』だ」
「ちょ、クッキーが!鞄が!」
俺は、残りのクッキーを慌てて口に突っ込み、鞄を掴む。
黒江先輩は、そんな俺を強引に部室から引きずり出していく。
「あ……」
津島先輩が、二人で出ていく俺たちの後ろ姿を、寂しそうに見送っている。 その手には、まだ渡せていないクッキーの入った紙袋が、握りしめられたままだった。
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