第6話 あれが『穴』の音だ
楯野先輩が、俺の無茶な説得に乗せられ、机に向かい『アツい』戯曲を書き始めた頃。
ちょうど部室のドアが静かに開き、風見先輩が入ってきた。
よし、ターゲットは残り二人。
俺は編集者として、最後の難関かもしれない風見先輩の進捗を確認することにした。
「あ、風見先輩。原稿って、どんな感じですか……?」
「ああ、できてるよ」
「え?」
風見先輩は、いつものアンニュイな表情のまま、あっさりとカバンからUSBメモリを取り出した。
「はい、これ」
(え、マジか!できた!?陰鬱ネガティブな津島先輩でもなく、筋肉アスリートな楯野先輩でもなく、この一番何を考えてるか分からない風見先輩が、一番最初に原稿を!?この人が一番まともだったんだ!)
俺は感動に打ち震えながら、そのUSBメモリを受け取った。
「ありがとうございます!すぐ読みます!」
部室に備え付けのPCにUSBを差し込み、ファイルを開く。 タイトルは――『完璧なドーナツの穴について』。
(…………嫌な予感がする)
俺は、その予感を振り払うようにテキストファイルを開き、読み進めた。
……一行目。
『ドーナツの穴は、ドーナツの不在の証明ではない。ドーナツこそが、穴の存在を証明しているのだ』
……五行目。
『それは、僕が失くした猫と、世界の終わりについて考えることに似ている』
……十行目。
『ドーナツ博士は言った。穴にこそ、世界の真理が詰まっているのだ、と』
……。 ……。 ……。
(ダメだ、一行も理解できない!)
俺は、スクロールバーを掴んで一気に最後まで目を通したが、結局、そこには比喩と観念的な文章が、意識高い系のカフェのBGMみたいに延々と続いているだけだった。
(これのどこをどう編集しろと!?津島先輩の『陰鬱ラブメ』の方が100倍マシだ!アレは少なくともストーリー(?)があったぞ!)
俺は、PCの前で頭を抱えたまま、ゆっくりと風見先輩を振り返った。 彼女は、すでにいつもの席でコーヒーを淹れ始めている。
「あの、風見先輩……。これ、結局、何が言いたいんですか……?」
俺の絞り出すような質問に、風見先輩はコーヒーカップを片手に、不思議そうな顔をした。
「やれやれ。意味なんて、探すものじゃない。感じるものさ。……ちょうど、良いジャズみたいにね」
……ダメだ。やっぱりこの人も、まともじゃなかった。
「感じる……って言われましても……」
俺は、PCの画面に映し出された『完璧なドーナツの穴』と、優雅にコーヒーを飲む風見先輩を交互に見た。 ジャズみたいに、ね、じゃねえよ。
(このままじゃ、原稿がヤバい。黒江先輩に『責務を果たせ!』と詰められる未来しか見えない!)
俺は、意を決して風見先輩に食い下がった。
「編集者として、この原稿を『一般生徒にも読める』ようにしなきゃいけないんです!」
「ふむ」
「そのためには、まず俺が!先輩のこの『世界』を理解しないと……! 教えてくださいよ、この『穴』がなんなのか!」
俺が必死にそう言うと、風見先輩は少し意外そうな顔をし、それから「ふっ」と小さく笑った。
「……そうかい。君は、井戸の底を覗いてみたい、と」
「は……はい、そうです!」
「じゃあ、ついてくるかい?」
風見先輩はコーヒーを飲み干すと、マグカップを片付け、カバンを持った。
「え、どこへ?」
「僕の世界さ」
そして放課後。 俺は風見先輩に連れられて、学校近くの、古びた雑居ビルの地下へと来ていた。 重い鉄のドアを開けると、カラン、と寂しげなベルが鳴る。
そこは、タバコの匂いとコーヒーの香りが混じり合った、薄暗いジャズ喫茶だった。 客は俺たち以外に、カウンターで新聞を広げる老人と、奥の席で本を読んでいる大学生らしき男だけ。
俺たちが席に着くと、店主と思しき髭面のマスターが、無言で水を持ってきた。 風見先輩は、メニューを指差すだけで「ブレンド」を二つ注文する。
そして、店内に響き渡っているのは、音楽。 いや、これは音楽なのか……?
ドラムは好き勝手なリズムを叩き、ピアノは不協和音を鳴らし、サックスはまるで断末魔の叫びのように甲高い音を響かせている。 ……いわゆる「フリージャズ」ってやつか。
俺がその音の暴力に耳をしかめていると、風見先輩は、うっとりと目を閉じ、そのノイズに聞き入っていた。
「……ほら、聞こえるだろ」
「え?」
「あれが『穴』の音だ」
風見先輩が指差したのは、店の奥にある巨大なスピーカー。 そこからは、相変わらずサックスの叫びが聞こえてくる。
(『穴』の音……?どう聞いてもサックスが叫んでる音にしか聞こえないんですが……!)
俺は、この先輩の世界の入り口で、すでにおいてけぼりを食らっていた。
ジャズ喫茶で俺は訳の分からないノイズを浴びせられ、頭がクラクラしていた。 風見先輩がコーヒー代を払い、地上に出たときの西日がやけに目に染みる。
「……あの、先輩。結局、『穴』って……」
「やれやれ。まだ『入口』さ」
風見先輩はそう言うと、今度は商店街の裏路地にある、別の雑居ビルの2階へと上がっていく。
看板には、かすれた文字で『DEEP DIVE RECORDS』と書かれていた。 ドアを開けると、カビ臭いというか、独特の古い紙の匂いが鼻を突く。狭い店内には、床から天井まで、びっしりとレコードジャケットが詰め込まれていた。
……埃っぽい、マニアックな中古レコード屋だ。
客は、もちろん俺たち以外に誰もいない。
風見先輩は慣れた様子で棚と棚の間をすり抜け、奥の『ROCK / PROGRESIVE』と書かれたコーナーで足を止めた。 そして、膨大なレコードの山から一枚をスッと抜き出し、俺に見せてくる。
「……これだ」
「はあ……」
それは、どこかの荒野の写真がジャケットになっている、古臭いレコードだった。多分、70年代とかのやつだ。
「このジャケットの『風景』と、僕の言うドーナツの『穴』は繋がってるんだ」
風見先輩は、真剣な目でそう言った。
俺は、その荒野の写真をまじまじと見つめる。
……ただの荒野だ。 茶色い大地と、灰色の空。 どこにも『穴』なんてないし、もちろんドーナツもない。
(……わからん。ただの古臭い写真にしか見えない)
(ダメだ……。この人に振り回されてるだけだ……。ジャズ喫茶に行って、レコード屋に来て……。結局、あの『ドーナツの穴』の原稿のことは、何一つ分からなかった……!)
俺は、この先輩の世界を理解するというミッションが、他の二人よりもはるかに難易度が高いことを思い知らされていた。
◇
散々振り回された帰り道。 結局、俺は『ドーナツの穴』が何なのか、『荒野の風景』とどう繋がるのか、何一つ分からないままだった。 西日はとっくに沈み、街灯がぼんやりと帰り道を照らしている。
(なんだったんだ、今日一日は……。収穫ゼロだ……)
俺は、自分の編集者としての無能さにため息をつきながら、今日一日を振り返った。
あのジャズ喫茶。 ……そういえば、風見先輩、注文するとき、髭面のマスターと一言も口を利いていなかった。 ただ、メニューの『ブレンドコーヒー』という文字を、無言で指差しただけだ。
あの中古レコード屋。 ……あそこでも、結局「このジャケットが……」と俺に話しかけただけ。 会計の時、彼女は無言でそのレコードジャケットをカウンターに置き、無言で財布から金を出していた。 店主の「毎度」という声にも、小さく会釈を返しただけだった。
(…………あれ?)
俺は、ふと、ある違和感に気づいた。
(あの人、今日、俺以外とまともに喋ってないぞ……?)
いや、今日だけじゃない。
部室でも、黒江先輩や楯野先輩と議論が白熱している時、彼女はいつも一歩引いた場所でコーヒーを淹れている。 彼女が口を開くのは、いつだって、 『やれやれ』 『完璧な〜なんて存在しない』 『井戸が〜』 『羊が〜』 ……そういう、独特な「言葉」を使っている時だけだ。
(もしかして、あの難解な比喩は……『鎧』?)
俺は一つの仮説が、頭に浮かんだ。
(彼女が、文体や比喩にこだわるのは…………『直接的な言葉で他人と話すのが怖い』からじゃないか、と)
『井戸』とか『羊』とか、そういうお決まりの言葉という名のシェルターに隠れて、彼女は世界とコミュニケーションを取っている。
『ドーナツの穴』の原稿が難解なのも、それが誰かに読んでほしいものではなく、「誰にも理解されなくていい」ものだから……?
俺は、目の前を歩く風見先輩の背中を見た。
いつもお洒落で、ミステリアスで、何を考えているか分からない先輩。 でも、今見えたのは、街灯の頼りない光に照らされた、ほんの少しだけ猫背な、細い背中だった。
(……あれこそが、彼女の言う『穴』の正体だったのか……)
俺は、彼女の難解な原稿の意味ではなく、彼女自身の意味を、少しだけ見た気がした。
もうすっかり暗くなった部室に戻ると、風見先輩は「ふぅ」と小さく息をつき、いつものようにコーヒーミルを取り出した。 散々振り回された俺にも、一杯淹れてくれるらしい。
ゴリゴリ、という豆を挽く音だけが響く中、俺は机の上に置かれた『完璧なドーナツの穴について』の原稿が保存されたUSBメモリを睨みつける。 結局、何も分からなかった。
コーヒーポットから湯気が立ち上り始めた頃、風見先輩が俺に問いかけた。
「……それで、分かったかい?僕の言いたいこと」
その声は、いつものアンニュイな響きだった。 俺は、無言で机の上のUSBメモリをスッと指で押し返し、彼女の前に戻した。
「俺、風見さんの言う『井戸』とか『羊』とか、正直よく分かんないです」
「……」
風見先輩が、一瞬、目を丸くした。 彼女の「お決まりの言葉」を、俺が真正面から「分からない」と否定するとは思っていなかったんだろう。
俺は続けた。
「ジャズもレコードも、何が凄いのかサッパリでした」
「……そうかい」
風見先輩は、少しだけ、寂しそうに目を伏せた。
「でも」
ちょうどその時、彼女が「はい」と、淹れたてのコーヒーカップを俺の前に差し出した。 部室に、さっきのジャズ喫茶よりもずっと、ストレートで良い香りが広がる。
俺は、そのコーヒーカップを手に取り、一口飲んだ。
熱い。 苦い。 だけど、その奥に、なんだかホッとするような深みがある。
俺は、カップを持ったまま、まっすぐ風見先輩を見た。
「いつも風見先輩が淹れてくれるこのコーヒーは、理屈抜きで、すげえ美味いと思います」
それは、比喩でも観念でもない。 ジャズがどうとか、穴がどうとか関係ない。 俺の、100%直接的な感想だった。
「…………」
風見先輩は、コーヒーポットを持ったまま、完全に固まった。
彼女のトレードマークだったアンニュイな表情が崩れ、ただ驚いているとしか言いようのない、素の顔がそこにあった。 そして、その白い頬と……ショートカットからのぞく耳が、ほんのりと赤く染まっていた。
「…………」
数秒間の沈黙。
やがて彼女は、フッと視線をそらすと、自分の分のコーヒーカップで口元を隠すようにしながら、呟いた。
「……やれやれ。君は、なかなか面白い比喩を使うじゃないか」
(比喩じゃねえよ!『美味い』は『美味い』だ!……でも、まあいっか)
この人の『穴』を埋めるのは、難解な言葉や比喩じゃない。 きっと、こういう『美味い』とか『ありがとう』とか、そういう単純な言葉なのかもしれない。
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