第5話 私の『美』が理解できるのかね

 津島先輩の『陰鬱ラブコメ』の執筆が、まあ、とりあえず進んでいるのを見届けて。 俺、軽井沢 明は、次のターゲットの進捗確認に向かうことになった。


 ……文芸部部長、楯野鏡子先輩。正直、一番行きたくない。


 ある放課後、俺が意を決して部室のドアを開けると、「ンンッ……! フッ……!」という、およそ文芸部らしからぬ気合の入ったうめき声が聞こえてきた。


 案の定、そこにいたのは楯野先輩。 すでに制服ではなく、体のラインがくっきりわかるジャージ姿で、部室に持ち込んだダンベルを上げ下げしていた。


「あ、楯野先輩。あの……原稿の進捗、どうですか?」


「……む」


 楯野先輩は、ダンベルをカシャン、と床に置くと、タオルで首筋の汗を拭った。その所作すら、隙がなくて美しい。


「……進んでいない」


「え? でも先輩、皐月祭に向けて一番やる気満々でしたよね?」


『一般生徒どもに美を叩き込む』とか息巻いていたのに。


「情熱はある」


 楯野先輩はキッと俺を睨んだ。


「だが、言葉がついてこない。私の言葉には、まだ『肉体』が足りない!」


(また肉体……。言葉に筋肉はいらないと思うんですが……)


「私の目指す『完璧な戯曲』……その『美』を表現するには、私自身の鍛錬が足りんのだ」


 楯野先輩はそう断言すると、おもむろに床に手をつき、スッと完璧な姿勢での腕立て伏せを始めた。


(筋トレでスランプを解決しようとしてる!作家じゃなくてアスリートの発想だ!)


「フンッ!フンッ!」


 俺は、完璧なフォームで腕立て伏せを続ける楯野先輩を前に、どうしたものかと頭をかいた。


「せ、先輩、筋トレしてないで原稿を……」


 そう説得しようとした俺の目は、彼女の机の隅に無造作に置かれた一冊の本に釘付けになった。


(……ん?)


 それは、俺がこよなく愛するライトノベルだった。

 しかも、表紙には派手な鎧を着た主人公が巨大な剣を構え、背後では美少女たちが魔法をぶっ放している。

 タイトルは……『剣聖と呼ばれた俺は、魔王を倒して完璧な肉体パーフェクトボディを手に入れる』。 ……典型的なチート系バトルものだ。


 いや、でも、なんでこれがここに?

 楯野先輩は、こういうのを「醜悪だ」と嫌っていたはずじゃ……。


「……あれ?楯野先輩」


「なんだ!」


 腕立てをしながら、楯野先輩が鋭く応える。


「これ、読んでるんですか?」


 俺は、そのバトル系ラノベを指差した。


「こういうの、『軟弱な観念だ』って、この間……」


 ビクッ!!


 その瞬間、さっきまで微動だにしなかった楯野先輩の完璧な腕立て伏せのフォームが、明らかに崩れた。


「あ、やっぱり……」


 楯野先輩は、さっきまでの鍛錬が嘘のように、床からバッと飛び起きた。

 そして、俺が手に取ろうとするよりも早く、そのラノベをひったくると、素早く自分のジャージの背中に隠した。


 その顔は、いつもの自信に満ちた厳しい表情ではない。 明らかに目が泳いでいて、頬が……赤い? そう、明らかに狼狽していた。


「なっ……!か、勘違いするな、軽井沢くん!」


「いや、でも、だって読んでたじゃないですか」


「これは『研究』だ!」


 楯野先輩は、隠したラノベごと背中を壁に向け、俺を睨みつけた。


「断じて違う!これは敵を知るための研究だ!なぜ一般生徒どもが、このような弛緩しきった物語に耽るのか、その構造を分析していたに過ぎない!」


(『断じて違う』って二回言った……)


 この人、完璧超人みたいに見えて、こういうところは全然ダメダメだった。


「へえー、研究ですか」


 俺は、ちょっと面白くなって、わざとニヤニヤしながらカマをかけてみる。


「でも……楯野さんも、こういう『アツい』の、好きなんですね」


「好きではないッ!!!」


 楯野先輩の、部室全体がビリビリと震えるような否定が響き渡った。 ……うん、これはもう、クロだな。


 楯野先輩は、顔を真っ赤にして俺を睨みつけてくる。

 だが、津島先輩の『陰鬱ラブコメ』を一応軌道に乗せた俺は、ほんの少しだけ編集者としての自信がついていた。

 ここで引いたら、この人の原稿は永遠に肉体不足のままだ。


 俺は、彼女が背中に隠しているラノベ『剣聖と呼ばれた俺は、魔王を倒して完璧な肉体を手に入れる』の表紙を思い出して指差した。


「でも、この主人公、結構カッコいいじゃないですか」


「な……!?」


「自分の信じたもののために、ボロボロになっても戦って。俺、こういうの結構好きですよ」


「……!」


楯野先輩が、息を呑むのが分かった。


「なんか」


 と俺は続ける。


「この主人公の『信念』って、楯野さんの言う『美』にちょっと似てません? 自分の信じたものを、何があっても貫き通す、みたいな」


「――!?」


 楯野先輩は、一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。


 その表情は狼狽でも怒りでもなく、純粋に驚きに満ちていた。


 だが、それも一瞬。 彼女はすぐに、いつもの厳しい部長の仮面をかぶり直した。


「……戯言を」


 吐き捨てるような、低い声。


「軟弱な観念だ。そんなものは、真の『美』ではない」


 楯野先輩は、それ以上俺と話すのは無駄だとばかりに、背を向けるようにして、再び床のダンベルを持ち上げた。


「私は鍛錬に戻る。君も、編集者なら無駄口を叩いていないで自分の責務を果たせ」


(……あ、怒らせたか? でも……)


 ダンベルを持ち上げる楯野先輩の、汗で張り付いたポニーテール。 その隙間からちらりと見えた彼女の耳は、顔と同じくらい、真っ赤になっていた。


(……あのラノベに、彼女の『完璧な戯曲』のヒントが隠されてる、か)


 彼女は「軟弱だ!」と一蹴しつつも、自分の「好き」と、自分が信じる「美学」のギャップに、明らかに悩み始めていた。


「……楯野先輩」


 俺は彼女の背中に声をかけた。


「なんだ。責務を果たせと言ったはずだ」


 ダンベルを上げ下げしながら、楯野先輩が苛立たしげに言う。


「先輩はさっき、『言葉に肉体が足りない』と言いましたよね」


「……それがどうした」


「そのために自分の『肉体』を鍛えてる。……それ、間違ってますよ」


 ガシャン!


 楯野先輩が、持っていたダンベルを床に落とした。 床がギシリと軋む。 彼女が、信じられないものを見る目で、ゆっくりと俺を振り返った。


「……今、なんと言った、軽井沢くん。君は、私の『美学』を……間違っている、と断じたのか?」


(やばい、地雷原でタップダンスした気分だ……!でも、ここで引いたら原稿は上がってこない!)


 俺は、彼女が隠したラノベのあった場所を指差した。


「先輩が言ってる『言葉の肉体』って、筋肉のことじゃないでしょう」


「……なに?」


「さっきのラノベ……『剣聖』の主人公が叫ぶセリフ、覚えてますか」


「……知らん」


「『俺の信念が、この剣を最強にする!』みたいなヤツです。……あれ、ムチャクチャだけど、アツかった」


 俺は続ける。


「あの『アツさ』……『情熱』こそが、あのラノベの『言葉の肉体』だったんじゃないですか?」


「情熱、だと……?」


「先輩は、『軟弱な観念だ』と言って、自分の好きから目をそむけてる。自分の『美学』と違うから。……でも、本当は、あの『アツさ』が羨ましいんじゃないですか?」


「だまッ……!」


 楯野先輩が、今度こそ本気で俺を殴ろうと拳を握りしめた。 だが、俺は一歩も引かなかった。


「筋トレに逃げるのは、ただの『弛緩』です!」


 彼女が一番嫌う言葉を、俺はあえて使った。


「自分の好きな『情熱』を、自分の『美学』に落とし込むことから逃げてる!それは精神の『弛緩』だ!自分の言葉に『肉体』が足りないと思うなら、必要なのはダンベルじゃない!その『美学』と『情熱』を、血反吐を吐く思いで言葉に叩きつける……それこそが、文芸部の『鍛錬』じゃないんですか!」


「…………」


 楯野先輩は、握りしめた拳を震わせたまま、何も言えずに立ち尽くしていた。 彼女のプライドと俺の指摘が、彼女の中で激しくぶつかり合っているのが分かった。


「……先輩の信じる『完璧な美』を、俺に見せてください」


「…………」

「…………」


 長い沈黙の後。 楯野先輩は、ゆっくりと握った拳を開いた。


「……軽井沢くん」


「はい」


「君は、私の『美』が理解できるのかね」


「さあ……? でも、津島先輩の『陰鬱』よりは、理解できる気がします」


「……フン」


 楯野先輩は、今日初めて、ほんの少しだけ笑ったように見えた。


「……いいだろう。そこまで言うなら、見せてやる」


 彼女は、床に落ちたダンベルを一瞥すると、それを踏み越え、自分の机に向かった。 そして、真っ白な原稿用紙を開いた。


「君ごとき『通俗』に、私の『美』が理解できるか……試してやる」


 その目は、 獲物を見つけたアスリートの目だった。 カタカタカタ、と。楯野鏡子の『完璧な戯曲』が、ついに書き始められた。

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