1-2 本当はわかってほしかっただけ
「えっと、
下の名前で呼ぶのは失礼だったかも――と、慌てて視線を泳がせた。
「ふふ、好きに呼んでくださって構いませんよ。いかがいたしましたか?」
灯弥は穏やかに微笑みながら、いくつかのグラスを丁寧に磨いていく。
きゅっ、きゅっと心地よい音が、静かな店内に小さく響いた。
「ありがとうございます!
あ、あたしの名前は
社会人1年生です!紗弥香って、呼んでくださいね!」
言い終えると、ちょっと照れくさそうに笑って、手元のお冷を一口飲んだ。
「はい。ご丁寧にありがとうございます、紗弥香さん」
灯弥が繰り返した名前は、まるでその名前に意味を与えるように、静かで深い響きを持っていた。
店内には、サティの《ジムノペディ第1番》が流れている。
灯弥は拭き終えたグラスを、カウンターにコト、コトとリズムよく並べていく。
その音も、ピアノの旋律にそっと溶けていく。
「それで、灯弥さんはどんなことをしてくれるんですか?」
紗弥香は、灯弥から受け取った食後の紅茶に砂糖を一匙入れ、ティースプーンをくるくると回しながら尋ねた。
店内の静けさにも負けない、彼女らしいマイペースな調子が、どこか微笑ましい。
灯弥はカレーの皿を洗いながら、ゆっくりと応える。
「そうですね。
ここに訪れる方は、何かしら心に悩みを抱えていらっしゃる方が多い傾向があります。
ですから、紗弥香さんも、そういった何かをお持ちなのではないかと」
その言葉に、紗弥香は少しだけ眉を寄せた。
「悩みですか?
うーん……こう言ったら変ですけど、あたしって悩みはないと思うんですよね。
むしろ、悩みを抱えられないのが悩みっていうか――」
言いながら、自分でも何を言っているのか分からなくなってくる。
あたしはどうしたいのだろう?
悩みを認識できない自分が、どうしてこの場所にたどり着けたのか。
もしかして、自分でも気づいていないだけで、何かがあるのだろうか――。
なんだかだんだん不安な気持ちになっていく紗弥香。
そんな彼女の様子を見守っていた灯弥は、ふっと目を細めた。
「もちろん、そういった悩みもない方が、ただ癒しを求めて訪れることもあります。
ですが……人に話すほどではないと、ご自身で思い込んでいるだけの方も多いのですよ」
その言葉に、紗弥香の手が止まる。
ティースプーンがカップの中で静かに揺れ、かすかな音を立てた。
――人に話すほどじゃない。
でも、確かに、心の奥に引っかかっている何かがある。
「悩みとは、確かな形を持っているものではありません。
名前をつけられず、言葉にできず、ただ漠然と心に燻っているだけのこともございます。
紗弥香さんが、見ないふりをしてきたその静かな痛み――
それもまた、悩みのひとつなのかもしれません」
灯弥の声が、紗弥香の心にそっと染み入ってくる。
まるで、水底から静かに湧き出る泉のように。
優しく、どこか
紗弥香は少し考え込み、そして、ぽつりと口を開いた。
「……最近、アプローチしてくる人がいるんですけど。
誠実じゃないというか、中身がない感じで。
……昔からそうなんです。
あたしの表面的な性格とか、外見とか。私に声をかける人って、みんなそういうあたしの一面だけを見て、貴方はこういう人だからって決めつけて、向き合ってくる気がするんです。
だからでしょうか。
なんだか、うわべをなぞったような誘い文句ばかり聞かされてきたんです。
……どうして、男の人って、そんなに言葉がからっぽなんでしょうか?」
ティーカップの中身をかき混ぜる速度が上がる。
かちゃん、かちゃん――少し大きめの音が、静かな店内に響いた。
まるで憤りをぶつけるように、紗弥香は気持ちを吐き出していた。
どうしてだろう。
悩みなんてなかったはずなのに。
思い出したら、腹が立つ。吐き出してみたら、形ある『悩み』になっている。
彼女は、思わず顔を手で覆いたくなった。
「……あたし、我慢してないと思ってたけど。本当は、何か我慢していたのかな」
ぽつりとこぼれた弱音は、ちょうど曲の終わりと重なった。
それは、誰かに聞かせたかった想いのかけら。
本当は誰かにぶつけたかった印象を押し付けることへの怒り。
そして、そんな自分を分かってくれる人はいつか現れてくれるのだろうか――という不安。
いろんなものを含んだ、小さなつぶやきだった。
やがて、次の曲が流れ始める。
《ピアノソナタ第8番 2楽章「悲愴」》
今の紗弥香の心を表すような曲名。
しかしその旋律はそっと心に触れるように、彼女に寄りそう。
ピアノの音色は静かに空間に溶けていく。
そんな時間の中でも灯弥はまっすぐと、真剣な表情で紗弥香の小さな叫びを受け止めていた。
彼は
そして、まるで壊れものを扱うように、慈しむような微笑みを浮かべながら、静かに言葉を紡いだ。
「言葉そのものは、器にすぎません。」
灯弥はグラスを拭く手を止め、紗弥香の目を静かに見つめた。
その瞳は、相手の心を見透かすような深さがあった。
「え……?」
紗弥香は顔を上げ、カウンター越しに灯弥を探す。
けれど彼はすでに背を向けて、冷蔵庫の扉を開けていた。
「紗弥香さん、お酒は
ふと気づいたように振り返った灯弥が、柔らかな声で問いかける。
手には一本の白く
モエ・エ・シャンドン アイス・アンペリアル
フランス・シャンパーニュ地方で作られる本物のシャンパン。
高級品ではあるが、庶民にも手が届く範囲のスパークリングワインだ。
「あ、はい。少しくらいなら……。」
紗弥香は戸惑いながらも頷いた。
彼女はその瓶を見て、なんだか可愛いお酒だなと思った。
名前も由来も知らないけれど、どこか特別なものに見えた。
「それはよかった。では、少々お待ちください。」
灯弥はにっこりと笑い、ラベルが紗弥香に見えるように瓶をカウンターに置いた。
その所作は、まるで贈り物を差し出すような丁寧さだった。
再び冷蔵庫を開ける灯弥の背中を見ながら、紗弥香は少しだけ背筋を伸ばす。
「ひとつずつ解いていきましょう。
紗弥香さんはこう言いましたね――『男の人の言葉は、からっぽだ。』と」
取り出されたのは、アラン・ミリアの【マンダリンジュース】。
それも、紗弥香に見えるようにカウンターへ並べられる。
ボトルに入った鮮やかなオレンジ色が、店内の灯りにやさしく溶け込んだ。
「はい。……あ、いえ!その……」
紗弥香は慌てて手を振る。
灯弥が男性であることに気づき、無意識に責めてしまったことを後悔する。
「お気になさらず。
無意識に全ての男性を対象にしてしまったのでしょう。
そこに私が含まれていないことはわかっていますとも」
灯弥は微笑みながら、ワイングラスに氷を2つ落とす。
コトン、と静かな音が響く。
そして、先ほどのオレンジジュースをグラスの半分くらい注いだ。
手際は淀みなく、何かを整えるように静かで丁寧だった。
「……すみません」
紗弥香は小さくつぶやき、視線を落とす。
カップの中の紅茶が、ほんの少し揺れていた。
「言葉とは、誰が発しても、最初は空の器です」
灯弥はグラスに、オレンジジュースより少し控えめにスパークリングワインを注ぎながら、静かに言葉を続けた。
「空の……器?」
紗弥香は首をかしげる。
けれど、その言葉の響きが心の中に反響する。
「ええ。言葉は器。
初めの言葉に中身はありません。
中身が注がれなければ、ただの空っぽの容器です」
もう1つグラスを用意してカウンターにそっと置く灯弥。
その仕草は、まるで『言葉』そのものを目の前に差し出すようだった。
「……」
紗弥香はその空のグラスを見つめる。
側面に映る自分の顔が、少しだけ寂しそうに見えた。
「大切なのは、その器に何を注ぐか。
どれほどの想いを込められるか。
そして、それが貴方にとって、受け取るに値するものかどうか」
灯弥は、先ほど注いだグラスを優しく
シュワシュワと泡が立ちのぼり、静かな店内に心地よい音が広がった。
「紗弥香さん。
貴方は、言葉を紡いでくれた人に、どれほど向き合いましたか?」
その問いに、紗弥香はきょとんとした顔を灯弥に向ける。
向き合う――その言葉の意味が、すぐには掴めなかった。
「向き合う……って、どういう……?」
彼女は、戸惑いながらもそのままオウム返しに問い返す。
灯弥はその疑問に、まるで謡うように答えた。
「この先、貴方はさまざまな人と出会うでしょう。
その中で、貴方にできることが1つございます」
「それは、器として差し出された言葉に、注がれた想いがあるかどうか――
見極めることです」
「器に満たされた中身が、貴方の心に響くかどうか。
それは、貴方の受け止め方次第です」
灯弥の声は、まるで舞台の上で語られる役者の独白のようだった。
けれど、演技ではない。
自然体で、ただ真実を語っているだけ。
その声は、店内の空気に溶けて、戯曲のように響き渡り、紗弥香の心に届いた。
「……こちらは、私から貴方へ捧ぐ一杯です。どうぞ、召し上がってください」
灯弥はカットしたオレンジをグラスのふちにそっと差し、紗弥香の前に置いた。
夕陽のような優しい色合いの液体。
ガラスのようにきらめく泡が、静かに立ちのぼっていた。
「このカクテルの名前は【ミモザ】。
このカクテルには、【真心】という意味が込められているのですよ」
「真心……」
氷でよく冷えたグラスの、ひんやりとした感触。
ランプの光を反射する泡が、きらきらと揺れている。
彼女はそのままグラスを口元に運び、そっとひとくち。
「……甘酸っぱい。
オレンジの奥からシュワシュワしたのが来て、とっても飲みやすい…!」
目を丸くして、頑張って美味しさを伝えようとする。
語彙は少し幼いけれど、気に入った気持ちが全身から溢れていた。
「私からの真心の一杯は――
灯弥はにっこり笑ってそういった。
そして、そのまま紗弥香の目を見て語り続ける。
「紗弥香さん。我慢できる貴方は、素晴らしい。
耐えがたい言葉も、寄り添わない気持ちも、すべてを飲み込んできた貴方は、とても強い。
ですが、時には、すべてを吐き出してよいのです。
ただ枷を外して思うまま不満をぶちまけてよいのです。
貴方にはそれが必要なのです。
ですから、ここへの道が開かれたのでしょう。
貴方に必要な『よりみち』の時間を得るために」
どうしてだろう。
初めて会う男性に、ここまで欲しかったものを与えられたことが。
紗弥香の本当の心に、そっと寄り添おうとしてくれたことが。
何もかもが嬉しいのに――どうして、涙が流れるのか。
「ぅあ……うあああああ!!」
紗弥香はずっと、「能天気だね」「悩みなさそう」「遊んでいそう」――そんな言葉を受け止めてきた。
そしていつしか、それが自分の“役割”のように思い込むようになった。
わかってもらえないことを、当たり前のように受け入れていた。
無意識に、諦めていた。
だって、それが真野紗弥香という演者に与えられた舞台だから。
悩みなんてなさそうに、みんなのために笑って、元気な女の子を演じ続ける。
――でも、泣いてわかった。
真野紗弥香のまんなかに、「どうしてわかってくれないの!?」と叫び続けていた幼い自分がいたことを。
大人になっていくことで、彼女自身があるべき姿を押し付けてきた少女の存在を。
舞台から少しだけ離れた、この『よりみち』の先で。
紗弥香は、初めてその少女を抱きしめた。
――ああ、辛かったね。
――分かってほしかったよね。
少女の紗弥香も、大人の紗弥香も。
互いに気持ちを認めるように、そっと抱きしめ合う。
「「わああああ――!!」」
少女は、ずっと待っていたような顔で、紗弥香の胸に顔をうずめた。
それは本来届くはずのない過去の自分からの願いの形。
彼女たちは声を枯らして泣いた。
灯弥は静かに近づき、そっと二人にブランケットをかける。
「……ここでは好きなだけ弱音も悩みも吐き出せばよいのです。
ここは隠り世。
どんな奇跡も望むがままに。
自分を慰めることも、自分を抱きしめることも――思いのまま」
半分以上残ったミモザもそのままに。
灯弥はカウンターへと戻り、本を一冊手に取った。
ようやく悩みと向き合えた彼女たちが存分に泣けるように。
そっと蓄音機のボリュームを下げ、音も立てずにページをめくる。
今は誰の慰めもいらないから。
紗弥香たちは思う存分泣くことができた。
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