時渡りの宿「よりみち」へようこそ~時任灯弥の逢灯録~

坂橋るいべ

真野 紗弥香

1-1 『よりみち』へようこそ

金曜日の18時。


それは、あるものはこの後の飲み会に思いを馳せてテンションをあげ、あるものはそんな週末なはずなのに定時直前に降って湧いた急ぎの仕事と上司に向かって、呪詛を並べる罪深い時間。


社会人OL1年生である真野紗弥香まのさやかは、仕事帰りの電車に揺られていた。

今日も一日、上司に振り回され、先輩に気を遣い、笑顔を貼りつけて過ごした。

1年目でこんな疲れる思いをするなんて、学生時代の自分に言ったら笑われてしまうだろう。


「社会人って、ほんと精神力をごっそりもっていかれるなぁ……」


心の中でつぶやきながら、座席に身を沈める。


彼女はよく「能天気だね」「悩みなさそう」「遊んでいそう」と言われる。

遊んでいそうに関してはもう、悪口だろうと思う。

確かに、笑ってやり過ごすのは得意だという自覚はある。

でも、こう見えて本当はちゃんと悩んでることがあるのだ。


――それは、見た目の印象で軽く扱われることと、彼女自身が「悩みがないことが悩み」と思っていること。


見た目の印象については、恋愛の場面でいつもそのイメージがついて回る。


明るく社交的な性格のせいなのか、好んで染めている明るい髪色のせいなのか。

派手に見えるせいで、初対面の異性から軽い女に見られてしまうことがある。

だが、彼女自身にそんなつもりはない。

可愛いからやっているだけだ。


学生時代から、寄ってくるのは決まって軽薄な男ばかりだった。

ジロジロと身体を眺める視線に、心が冷めていく想いをした経験は数えきれない。


「好きだよ」とか、「付き合ってほしい」と告白されても、その言葉は空っぽで、上っ面をなぞっただけの本心には聞こえないものばかり。

愛を紡ぐはずの言葉が、彼女の胸には一度も響いたことがなかった。


「……私って、ちゃんと誰かに大事にしてもらえるのかなー。

いい出会いって、どこにあるんだろうなー。」


口に出すと、子どものような願いに聞こえる。

けれど、それは偽らざる彼女の本音だった。


だからこそ、そんな不安がふと胸をよぎる。

これも『悩み』と呼んでいいのだろうか。

だとしたら――「悩みがないことが悩み」という矛盾は、少しだけ解消されたのかもしれない。


そんな堂々巡りをするような思考と仕事の疲れが重なり、瞼が重くなる。

窓の外の街の灯が優しく紗弥香さやかの心を溶かしていく。

電車内の、これから飲みに行く人たちの弾んだ声や学生さんの楽しそうな声すら子守唄のようだ。

そんな電車の揺れと音楽に身を任せるうちに、紗弥香さやかの意識がふっと途切れる。

 


――そして、目を覚ましたとき。


彼女は見知らぬベンチに座っていた。



***



「……あれ?電車に乗ってたはずなのに」


紗弥香さやかはきょろきょろと周囲を見渡した。

ここはどこだろう。

駅前でもなく、見慣れた街中でもない。

目の前に広がっているのは、どこか懐かしさを誘う田舎の片隅のような風景だった。


会社を出て電車に乗ったときには、もう日が沈んでいたはず。

なのに、今はほんのりと夕暮れの光が残っている。

不思議なことに、辺りは静まり返り、都会のざわめきも駅のアナウンスも聞こえない。

ただ、のんびりとした空気と心地よい風の音が風景を優しく彩っていた。


まるで夢の中に迷い込んだような、不思議な感覚。

現実離れしているのに、なぜか居心地の良さを感じる。


とはいえ、ここがどこなのかという根本的な疑問は解決していない。

どうしたものかと立ち尽くしていたそのとき、ふわりと鼻をくすぐる香りがした。


深く焙煎ばいせんされた珈琲コーヒーの香ばしさ。

そして、食欲をそそるスパイスが炒られたような香り。

思わず振り返ると、そこには木造のモダンな喫茶店のような建物があった。

ガラス窓からは柔らかな灯りが漏れ、店先には小さな黒板のスタンド看板が立っている。

白いチョークで書かれていたのは、3行の文字列。



          よりみち

     営業    9:00~17:00

     よる営業 18:00~22:00



店の説明もメニューもなく、平仮名の店名と思わしきひらがな4文字と、営業時間だけが記されている。

なんとも素朴で不思議な看板だった。

店主の手書きであろう味わい深い丸みを帯びた文字が、妙に紗弥香さやかの感性にひっかかった。


「よりみち……?なんか可愛い名前!でも、何のお店なんだろう?」


不思議な状況に首をかしげる。

だが、先ほどからのいい匂いに加えて仕事帰りの空きっ腹。

それだけで紗弥香さやかはあっさり警戒心を捨ててしまう。


「……うーん。考えてもわかんない!お腹も空いたし、入っちゃえ!」


彼女は無邪気な子供のように呟き、扉に手をかけた。

こんないい匂いがしているんだ。

飲食店に違いない。

彼女はそう信じて疑わなかった。



カラン、とベルの音。


ふわり、と優しい珈琲コーヒーの香り。


きらり、と光る古びたランプの灯り。


店内を満たすのは、磨き込まれた木とコーヒーの香ばしさが混ざり合うどこか懐かしい香り。

古い蓄音機のようなアンティーク調のプレーヤーからはノスタルジックなピアノ曲が流れていた。


 《亡き王女のためのパヴァーヌ》


クラシックの名曲だが、紗弥香さやかにとっては初めて耳にする旋律で――ただ「なんだかとっても素敵!」と胸を弾ませるしかなかった。


壁に掛けられた古いランプの光が、わずか四組のテーブルを優しく琥珀色こはくいろに照らしている。

その光景は、時の彼方に置き忘れてきたある日の情景を呼び覚ますよう。

まるでお気に入りの風景を小さく切り取って、大切にしまい込んだような、そんな郷愁に満ちた空間だった。


「いらっしゃいませ。

ようこそ、『よりみち』へ。

おひとり様ですか?」


低く、それでいて不思議と心を落ち着かせる声が店内に響いた。


カウンターの奥に立つのは、初老の紳士と呼ぶにふさわしい男性だった。

銀灰色ぎんかいしょくの髪は柔らかな光を受けて静かに輝き、背筋は真っすぐに伸びている。

動きは水面をすべるように滑らかで、無駄がない。


年代物の眼鏡の奥から覗く目元に刻まれたしわは、たが重ねてきた年齢をただ示すものではなく、長い時間を人と向き合ってきた証のように見えた。

その眼差しは厳しさと優しさを同時に含み、言葉を交わさずとも、この人なら自分のことをわかってくれそうと思わせる力がある。


まるで物語の中から抜け出してきたような存在感。

まだ名前も知らない。

けれど、間違いなく彼がこの店のマスターであることは、紗弥香にもすぐにわかる。


「……おひとり様のようですな。

カウンター席でよろしいかな?お嬢さんフロイライン


ぼんやりと立ち尽くしていた紗弥香に、男性がカウンターから静かに出てきて、どこか芝居がかった声をかける。


「は、はい!カウンターで大丈夫です!」


ちょっと声がひっくり返ってしまい、内心『ああ、またやってしまった……』と紗弥香さやかは思わず顔を赤らめる。

平常心、平常心、と自分に言い聞かせながら、促されるままにカウンターの中央の席へ向かう。

男性は自然な流れで椅子をそっと引いてくれた。


こんな紳士的なエスコート、初めてかもしれない。

なんだか、自分が特別な存在になれたような気がして、紗弥香は少しだけ背筋を伸ばした。


男性は彼女を座らせると、カウンターの奥へ戻り、丸いフラスコのような器具と、白いロープの切れ端が繋がった不思議な道具を取り出す。


「おっと、申し訳ありません。お客様、珈琲はお好きですか?」


「へ?あ、はい!飲めます!」


またまた素っ頓狂な声を出してしまい、恥ずかしそうに身を縮める。

でも、仕方ないじゃないか。

もしかして、もしかして……憧れの『アレ』かも?と、思うとついまじまじと見つめてしまう。

ワクワクがとまらない。

だってドラマとかでしか見たことないものだったんだから。


男性は薄く微笑み、「それは重畳ちょうじょう」とだけ言って、静かに作業を再開した。


濾過器ろかきにフィルターをセットし、フラスコにお湯を注ぐ。

一度カップに移したお湯を、今度は少し多めに注ぎ直す。

フラスコの外側を丁寧に拭き、先ほどの器具に火を灯す。


「あ、アルコールランプだー」


懐かしい器具に、紗弥香は思わず声をあげる。

小中学校の理科の実験室授業以来、外で見たことなんてなかった。

あの頃のランプはガラス製だったなぁ……と、記憶がふわりとよみがえる。


そんな中でも、男性の手はよどみなく動いていた。


大きなロートをフラスコに差し込み、ポコポコと泡が立ち始めると、一度ロートを外して珈琲粉コーヒーこを入れる。

再びロートを差し込むと、お湯が上がってきた。

それをヘラで押し込んで、珈琲粉全体を丁寧に湿らせていく。


ふわりと立ちのぼる香りが、紗弥香を包み込む。


「わぁ〜、いい匂い!

なんか懐かしい感じがしますね。

これがサイフォンでいれる珈琲ですか?

ふぇ~、初めて見ました~!」


目を輝かせてカウンターを覗き込む紗弥香に、男性は優しい微笑みを浮かべる。


「ええ。少し手間はかかりますが、その分、味わい深いものになります」


「へぇ〜!なんだか本場って感じですね!

……あれ?そもそも本場の淹れ方なんですか?これ?」


何も知らないけど、なんだかはしゃぐ彼女を見た男性は一瞬きょとんとしたあと、意外にも朗らかほがらかな笑い声をあげた。



***



「ふあ〜、美味しい〜!カレー美味しいよぉ〜!」


ほっぺたが落ちないようにスプーンを持っていない左手で支えながら、紗弥香はため息まじりに感嘆の声を漏らす。


生まれて初めてのサイフォンで淹れた珈琲を堪能した彼女は、その後ちょっとしたアクシデントで恥ずかしい思いをしてしまい、店主らしき男性から

「よろしければお食事もいかがですか?」

と勧められるがままに注文することとなった。


そのアクシデントについては、彼女の名誉のためにここでは伏せておこう。

ヒントはお腹が空いているときに珈琲の良い香りを堪能してしまえば起きてしまう生理現象だ。


紗弥香は、店の前で感じたスパイスの香ばしい匂いの話をし、それを使った料理が食べたいと希望した。

出てきたのは、鶏肉とスパイスがたっぷり入ったパキスタンカレー。

日本のカレーとは違い、少しドライで、ホロホロに煮込まれた鶏肉とホールスパイスが刺激的な一皿だった。

特に丸ごと入った胡椒の粒が、口の中でピリリと弾けるのがたまらない。


カレーといえば、とろとろのルーに白いご飯を添える日本式か、ナンにつけて食べるインド式しか知らなかった紗弥香にとっては、まさに未知との遭遇だった。


「そういえば、メニューってないんですか?」


ふと、飲み物も食事もおススメされるがまま提供されていることに気づいた紗弥香が尋ねる。


「ございますよ。ご覧になりますか?」


「はい! 見てみたいです!」


いまさらだけど、料金とか結構しそうだし……と、小声で付け加えながらメニューを受け取る。

右手のスプーンは離さず、左手で器用に受け取る彼女を、男性は微笑ましく眺めていた。


「んぅ?」


メニューを広げた紗弥香は首をかしげる。

そこに並んでいたのは、レトロ喫茶らしい定番の品々――サンドイッチ、ケーキ、ナポリタン、ミートソース。

オリジナルブレンドの珈琲と紅茶、ソフトドリンク各種。

どれも見慣れた名前ばかりだ。


しかし、奇妙なことに気づく。

どこにも、料金が書かれていないのだ。


「あれ?値段がないですよ?

……も、もしかして時価!?」


都内の高級店で『時価』と書かれたメニューを見たという噂を思い出し、紗弥香は顔を青くする。


「はっはっは!ここはそういうお店ではありませんよ」


男性は朗らかに笑いながら、カウンター越しに静かに言葉を続けた。


「そうですね、まずは私の自己紹介と、当店の仕組みについてお話ししましょう。

よろしいですかな?」


「んぅ?いいですよ?それがメニューに料金がないことと関係あるんですね?」


「ええ、ございます。

当店の名前は時渡りの宿『よりみち』。

現世うつしよ黄泉よみ、異界――そのすべてと繋がっていて、どこにも属さない場所。

隠り世かくりよにひっそりと佇む、時渡りの宿でございます。

時間、住む世界、生死の境を越えて、意志ある魂が集う場所。

運よくたどり着けた者は、ひとときの安らぎとともに、すべての明日へ向かう前の英気を養うことができる。

――人生の寄り道を愉しむ場所でございます」


静謐せいひつな喫茶店に、謡ううたうような声が響く。

老紳士は現実離れした言葉を淡々と紗弥香に語りかける。


ぽかんと口を開けて聞いてはいるが、紗弥香はまだ何が何だかわかっていない。


「申し遅れました。

私、当店の支配人兼従業員、そして案内人を務めております――

時任灯弥ときとうとうやと申します。

以後、よろしくお願いいたします」


その瞬間、店内のBGMがふと途切れる。


次に流れ始めたのは、ドビュッシーの《月の光》


古ぼけたランプの灯りが、灯弥の銀灰色ぎんかいしょくの髪を優しく照らす。


灯弥の美しい所作の1つ1つが舞台俳優の名演技ように紗弥香の瞳に写る。

彼女の心は、おとぎ話の中に迷い込んでしまったような感覚に包まれ、ドキドキとワクワクが胸いっぱいに広がっていった。

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