第2話 「氷の女王と、薄すぎる壁」
「家では……その……『お兄ちゃん』って、呼んでも、いい、ですか……?」
俺の耳に、信じがたい日本語が届いた。
幻聴か?
いや、幻聴じゃない。
目の前で、『氷の女王』こと雪城冬花が、俺の服の袖を掴んだまま、不安そうに俺を見上げている。
え、なにこれ。
新手のスタンド攻撃か?
「……え、あ、お、お兄ちゃん……?」
俺がオウム返しにそう呟くと、雪城さんは、こくん、と小さく頷いた。
……マジだ。
「悠人! なんだ、冬花ちゃんともうそんなに仲良くなったのか!」
「ははは、悠人くん、照れちゃって可愛い」
親父と、新しいお母さん――今日から『雪城さんのお母さん』改め、『香苗(かなえ)さん』だ――が、リビングでニヤニヤしながらこっちを見ている。
(ち、違う! 違うんだよ親父!)
(仲良いとか、そういう次元の話じゃねえ!)
(クラスの『氷の女王』だぞ!? 昨日まで、目が合うだけで寿命が縮むと思ってた
相手だぞ!?)
「……あ、いや、ええと、雪城さん」
「……はい」
俺がいつもの調子で呼ぶと、彼女は、ほんの少しだけ、悲しそうに眉を寄せた。
(……え、なんで!?)
「あのな、悠人」
親父が、俺の肩をガシッと掴んだ。
「今日から、冬花ちゃんは『雪城』さんじゃなくて、『神谷』冬花だ。……お前の、妹なんだぞ」
「……え、あ」
そ、そうか。
再婚って、そういうことか。
名字、変わるのか。
神谷、冬花……。
(……違和感すげえ)
「ふふっ。冬花、よかったわね。ずっと『お兄ちゃんが欲しい』って言ってたものね」
「……っ! お母さん! それは、言わない約束……!」
香苗さんの爆弾発言に、雪城さん――いや、冬花が、顔を真っ赤にして抗議している。
(……は?)
(『氷の女王』が、『お兄ちゃんが欲しい』……?)
なんだ、そのファンタジー。
俺の知ってる雪城冬花と、設定が違いすぎないか?
バグってないか? この世界。
「あ、そうだ! 荷物、運ばないと! 悠人、手伝え!」
「お、おう」
親父に言われ、俺たちは玄関に向かう。
そこには、想像していたよりもずっと質素なダンボールが数箱と、ボストンバッグが二つ。
「これだけか?」
「ええ。……色々、整理してきたから」
香苗さんが、少しだけ寂しそうに笑った。
……なんか、事情がありそうだが、今は突っ込まないでおこう。
「じゃあ、冬花ちゃんの荷物は、二階の……悠人の隣の部屋な」
「……は?」
「え?」
俺と、冬花。
二人の声が、綺麗にハモった。
「いや、だって、うち、部屋余ってないし。二階の、あの物置部屋、片付けたんだよ」
「「…………」」
嘘だろ。
俺の部屋と、あの物置部屋。
壁、ベニヤ板一枚くらいじゃないか?
防音性、ゼロだぞ?
「ほら、悠人! 冬花の荷物、持ってやれ!」
「あ、ああ……」
俺は、一番大きそうなダンボールを抱える。
中身は、本だろうか。ずっしりと重い。
「……あの、私も、持ちます」
冬花が、ボストンバッグを持とうとする。
「あ、いや、いい。これくらい、俺が……」
「……でも」
「いいから。……妹、なんだろ?」
俺がそう言うと、冬花は、ビクッ、と子猫みたいに体を震わせた。
そして、顔を真っ赤にして、うつむいてしまった。
(……え、なに、この反応)
(『氷の女王』は、どこ行ったんだよ……)
ギシギシと鳴る階段を上り、俺は自分の部屋の隣、元・物置部屋のドアを開ける。
中は、まあ、最低限の掃除はされていて、ベッドと小さな机が置いてあった。
「……ここ。狭いけど」
「……あ、ありがとうございます。……十分、です」
俺は、ダンボールを床に置く。
冬花も、おずおずと部屋に入ってきた。
二人きり。
六畳ほどの狭い空間。
(……き、気まずい)
学校の教室なら、あんなに遠い存在なのに。
今、俺と彼女の距離は、一メートルもない。
ふわりと、シャンプーの、いい匂いがした。
「……あの」
「……ん?」
俺が部屋を出ようとすると、冬花が、また俺の服の袖を掴んだ。
……今日、二回目だ。
「……な、なに?」
「……その、さっきの……こと、なんですけど」
「さっきの?」
「……『お兄ちゃん』って、呼ぶの……やっぱり、迷惑、ですか?」
上目遣い。
不安そうな、青みがかった瞳。
頬は、まだ、うっすらと赤い。
(…………)
(……ぐ、ぁ)
なんだ、この、生き物。
可愛すぎ、ないか?
(いや、待て、神谷悠人! 落ち着け! 騙されるな!)
(これは、孔明の罠だ!)
(学校での、あの『氷の女王』を思い出せ! 告白を一蹴していた、あの絶対零度の視線を!)
「……い、いや……」
俺は、必死に理性を総動員して、言葉を絞り出す。
「……迷惑、とかじゃ、ないけど……」
「……けど?」
「……その、お互い、やりづらくないか? 学校とか……」
そう。
問題はそこだ。
家で『お兄ちゃん』『冬花』なんて呼び合ってたら、そのノリが学校でポロッと出ちまうかもしれない。
そうなったら、俺の人生は、物理的に終わる。
(全男子生徒による、私刑)
俺の懸念を、冬花も察したらしい。
彼女は、ハッとした顔で、ぶんぶんと首を横に振った。
「そ、それは、大丈夫です!」
「え?」
「学校では、今まで通り……いえ、今まで以上に、他人として、接します!」
「……お、おう」
(今までも、他人だったけどな)
「絶対に、バレません! だから……!」
彼女は、ぎゅっ、と俺の袖を握る力を強めた。
「……だから、家では……その……」
「……」
「……『お兄ちゃん』って、呼ばせて、ください……」
(…………)
(…………ダメだ)
(……勝てない)
こんな、捨てられた子犬みたいな目で見つめられたら。
断れる男がいるだろうか。
いや、いない。(反語)
「……わ、分かった」
俺は、降参した。
「……家、だけな」
「……! はい!」
ぱあっ、と。
彼女の顔が、花が咲いたように明るくなった。
……うわ、雪城さんって、そんな顔で笑うんだ。
ヤバい、直視できない。
(……あれ? でも、待てよ?)
「……なんで、そんなに『お兄ちゃん』って、呼びたいんだ?」
素朴な疑問だった。
俺みたいな、陰キャモブの、どこにそんな魅力が……。
「え……?」
俺の質問に、冬花は、きょとん、とした顔をした。
そして、数秒後。
「……あ、あ、あの、それは……!?」
さっきまでとは比べ物にならないくらい、顔を真っ赤にして、あわあわと慌てだした。
(……ん? なんで、そんなに慌てるんだ?)
「そ、それは……そのうち、話します! たぶん!」
「あ、そう……」
「そ、それより! 私、荷解き、しますので!」
「お、おう。……じゃあ、俺、下の荷物、持ってくる」
「あ、ありがとうございます! ……お、お兄ちゃん……」
(……!)
(……ナチュラルに、呼んだぞ、この人)
「……っ!」
俺は、逃げるように部屋を出た。
バタン、とドアを閉める。
心臓が、バクバクとうるさい。
(……ヤバい)
(……これは、本当に、ヤバい)
学校一の『氷の女王』。
今日から、俺の『義妹』。
そして、同居人。
壁一枚向こうの部屋から、ダンボールを開ける、小さな物音が聞こえる。
……これから、俺の平穏な日常は、どうなっちまうんだ……。
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