第3話 桜はまだ咲かないけれど
【午前】
三月十七日、冷たい春雨が降る日だった。朝の七時に目覚めると、縁側のガラス戸を開けると、庭の桜の木に、まだ固い蕾が雨粒を宿していた。自治会のジャンパーを羽織り、傘を手に家を出る。商店街の石畳は濡れて光り、米屋の前を通ると、新米の香りがしていた。
自治会事務所に着くと、鈴木副会長が、すでに資料を広げて待っていた。
「本田会長、今朝は早いな」
鈴木は、いつものように、眉間にしわを寄せていた。六十五歳、村生まれの村育ちだ。私より十歳年下だが、頑固さでは、私以上だ。
「鈴木副会長。昨日の続きだが、条例の解釈について、もう一度、話し合おう」
私が切り出すと、鈴木は「待ってました」とばかりに、資料を叩きつけた。
「2023年の選挙だ。定数六人に対し、ちょうど六人が立候補した。これが、村の現実だ。若手なんか、誰も出てこない。村の心を担えるのは、俺たち高齢者だけだ」
「しかし、鈴木副会長。条例は、村の未来を守るための仕組みだ。若手が出やすい環境を作ることも、俺たちの役目じゃないか」
「環境?」鈴木は、鼻で笑った。「おやじ、お前もわかってるだろ。村の仕事の収入が四十九%以下でなければ、議員になれない。これじゃあ、まるで、高齢者を排除する制度だ」
私は、一瞬、言葉に詰まった。確かに、鈴木の言う通りかもしれない。私も、初当選したとき、村の仕事の収入なんて、気にしていなかった。でも、今は、制度が、すべてを決めてしまう。
「おやじの頑固さは、理解できる。でも、制度を動かすのも、俺たちの役目だ」
私が言うと、鈴木は、一瞬、黙った。それから、ゆっくりと口を開いた。
「制度を動かす? そんなことで、村の心が守れるのか」
事務所の窓から、商店街が見える。雨は、ますます激しくなっていた。
【午後】
昼過ぎに、商店街の米屋を訪ねた。田中健吾、五十二歳。村の仕事の収入が四十九%で、議員立候補を検討しているという。
「会長、ちょうどよかった。入って、お茶でも飲んでいかれよ」
健吾は、明るい声で、私を店に招じ入れた。店内は、新米の香りで満ちていた。カウンターには、今日もぎったばかりの米が並んでいる。
「実はな、来月の村議選、出てみようかと思ってるんだ」
健吾が、突然、そんなことを言い出した。私は、驚いて、茶碗を置いた。
「議員? お前が?」
「うん。村の補助金で、新しい乾燥設備を導入しただろ。あれがな、俺の村での仕事の収入、ちょうど四十九%なんだよ。条例でいう、あのラインを、ぎりぎりクリアしてる」
健吾は、にやりと笑った。それから、私の手を取るようにして、奥から一枚の紙を持ってきた。息子の小学校のPTA活動の案内だった。
「若手が村を担えるか、って聞かれたら、俺は、『担げる』って答えるよ。でも、それには、おやじたちの助けが必要だ」
私は、一瞬、黙った。確かに、若手は、村を担えるかもしれない。でも、それには、俺たちの経験が必要だ。
「健吾さん。俺たちも、まだまだだ。村の心を伝えるのは、制度よりも、人間の温度だ」
私が言うと、健吾は、ゆっくりと頷いた。
「人間の温度、か。それを、俺も、感じてみたい」
店内に、しばらく沈黙が流れた。雨足が、少し弱くなった。窓の外では、商店街の人々が、傘を差して歩いている。
【夕方】
夕方になって、神社に向かった。境内には、早咲きの桜が、静かに咲いていた。雨宿りをしていると、鈴木副会長が、石段を上ってきた。
「おやじ、こんなところで、何してる」
鈴木は、びしょ濡れだった。私は、傘を差し掛けた。
「鈴木さん。2017年の町村総会、覚えてるか」
私が言うと、鈴木は、一瞬、目を伏せた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「あのとき、俺たちは、村の未来を、真剣に考えた。でも、結局、何も変わらなかった」
「変わらなかった、かもしれない。でも、あのときの思いは、今も、残ってる」
私たちは、しばらく、桜を見上げていた。雨に濡れた花びらが、鈴木の肩に、静かに落ちた。
「この桜を見ていると、村は死なないな」
鈴木が、ぽつりと言った。私は、ゆっくりと頷いた。
「若手を育てるのも、我々の役目だ」
鈴木が、そう言った。私は、初めて、彼の頑固さが、溶けていくのを感じた。
【夜】
自宅に戻ると、節子が、茶の間で、2019年村議選の記録映像を観ていた。
「どうだった? 神社で」
節子が、そう尋ねた。私は、鈴木との会話を、順に話した。
「『村の心を伝えるのは、制度よりも人間の温度だ』って、鈴木さんが言ったんだ」
私が言うと、節子は、にっこりと笑った。
「それこそが、村の力よ」
テレビでは、若い議員が、スピーチをしていた。私は、縁側に腰を下ろしながら、空を見上げた。雨は、すっかり上がっていた。星が、瞬いている。
制度より人間のつながりが村を守る――。私は、そっと、繰り返した。三月十七日、冷たい春雨の一日だった。
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